見出し画像

福井を愛された、吉田喜重監督

吉田喜重監督が亡くなった、というニュースが届いた。

2011年頃だろうか、監督の会社に、福井の大学の教員です。福井の空襲のお話しを聞きたいと電話をかけると、すぐに吉田喜重監督が出てくださり、即答で、インタビューを受けてくださった。その後、東京の赤坂のホテルで2時間にわたってお話しを伺った。その時のインタビュー録音は大事にしている。そして、2014年、吉田喜重監督の映画を福井で上映した。

上映会には吉田喜重監督にも来ていただいた。

実は自分が作った映画も見てもらった。「君がいた街」の舞台は吉田喜重監督が幼少期を過ごした場所だった。吉田監督からは、とても暖かい感想のメールをいただいた。

「「君がいた街」の映像を見ながら、それが宿命というほかはありませんが、どうしても私自身の記憶と重ね合わせようとしてしまいます。戦災と地震を経験した福井ですからの、その変わりようは当然ですが、映し出される街の姿、偶然撮られた看板の一つ一つにも、眼をこらして見させていただきました。結果的には戦前の地図にあった「順化幼稚園」という名前だけが、私の記憶と結びつく唯一 のものでした。私が通ったのは栄冠幼稚園でしたが、「順化」という名前だけが故郷と私を結ぶ絆であるこ とを改めて知り、「君がいた街」ではなく、「私がいた街」であることを確認できたことに、感謝いたします。それというのも、順化小学校にまつわる記憶は、いまもなお私のなかに生きており、生きつつある福井の証しであることに変わりはないからです。」

Yokosuka1953も見てもらった。2021年8月15日にいただいたメールでは、

「お送りいただいたドキュメンタリー「YOKOSUKA」を拝見しました。まず緻密な計画に従って作られていることに、感激しました。もっとも木川さんは都市計画の研究家であることを思えば、当然だったのでしょう。この作品が多くの人たちの鑑賞していただけることを願っております。」

という言葉をいただいた。うれしくて泣いた。

映画をやっている限りはいつか再会できますよ、と言われていたが、福井でお会いしてからの再会は叶わなかった。

本当に短い文のメールでも、知性と感性のすごさを感じる方だった。ただ、少し体を壊されているのでは、という感覚はあった。というのは、この十年、お中元、お歳暮を、福井の天たつを送っていた。監督の故郷の味、ということで。いつもすぐにお礼のメールが届いていた。それが昨年の暮れから届かなくなってた。こんな日が来るのでは、と恐れていた。とうとう、そのニュースが。

いろいろと企画を実現するお約束をしていたのに、

このようなことになり、悲しい。

吉田喜重監督。ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?