![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/47915833/rectangle_large_type_2_a58cd8d1a8ba7f8e7b079b6bccd1caca.jpg?width=800)
伊予の「大野」はどこからきたの?
伊予大野氏の出自
伊予大野氏の出自については、『大野系図』によると、天智天皇(626~671)の皇子大友皇子(おおとものおうじ)から大伴旅人(おおともたびと)を経て、大野氏になったと伝えている。
![大野系図](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/46473831/picture_pc_509756d8a998ae819e5f34f0cc02a783.jpg)
しかし壬申の乱において、弘文天皇(大友皇子)に対して反旗を翻した大海人皇子(天武天皇)の側で活躍したのが、天智天皇の時に右大臣を努めていた大伴長徳(ながとこ)の弟の馬来田(まくた)・吹負(ふけい)兄弟で大伴旅人の父大伴安麻呂(やすまろ)もその兄弟であることから、大友皇子の後裔というのはありえない。
後世、家系に箔を付けるために同じ音「オオトモ」から天皇家との血縁があるとしたのであろう。
天文十七年(1548)に久万山大除城主大野利直(としなお)が菅生山大宝寺に寄進した鐘の銘に「大伴朝臣大野利直」と刻されているところから、大野氏は大伴氏の出と自認していたことがわかる。
![大野利直寄進の鐘(石手寺)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/47729492/picture_pc_0a542eabe76b70e1211ca3229dc6faad.jpg?width=800)
鐘は現在、重要文化財に指定されいて石手寺の所有となっている。
石手寺境内の鐘楼に吊させていて、年に1度正月に鳴らさせる。
なぜ「大伴」が「大野」となったのか?
伊予大野氏の発祥の地について、『大野系図』などに、「吉良喜(きらき)」というものが喜多郡長浜に下向し、大野・宇津・森山・宇和川以下九ケ里の民を手なづけて、大野氏を自称したとある。
これを裏付けるものとして、大伴吉良喜由来の神社といわれる大洲市祇園神社に伝わる古書に、天慶2年(939)伊予掾(いよのじょう)藤原純友が平将門とともに反乱した時に、朝廷は大伴吉良喜を喜多郡(現在の大洲市と喜多郡を合わせた地域)の大領に任じて暴徒を追補したとある。
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/47691381/picture_pc_854600b84647c34a251ad4bf745602de.jpg?width=800)
この二つの異なる資料から大伴吉良喜が大野吉良喜と名乗り始めたとしてまちがないであろう。
ただし、この近隣に、宇津・森山・宇和川の地名は見えるが「大野」の地名はない。そこでGoogleマップで検索範囲を広げてみると、隣の西予市大洲寄りに、「大野山」(標高805m)があり、山頂には謎の古い祠があることから、古来この山は地域の人々の信仰を集めていたことがわかる。
![大野山マップ](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/47691419/picture_pc_f3569907c27d06f7a1ed40bcac168afd.jpg?width=800)
前後関係はわからないが、この辺りに「大野」の名前の由来がありそうである。後日、近隣を尋ねて調べてみたいものだと思う。どちらにしても伊予「大野」は「大伴」つながりでまちがいなさそうである。
ここで大伴氏について確認しておこう。
ご先祖様が「天孫降臨」と「神武東征」の先導?
ウキペディアを要約すると、
「大伴氏」は、日本古代の中央有力豪族。伴(とも)は朝廷の各種の職務を世襲的に奉仕する集団で、「大伴」とは、「伴」の大いなる者、あるいは多くの伴を支配する伴造(とものみやつこ)の意であろう。
記紀(古事記と日本書紀)の伝承では、天孫降臨のおり、遠祖天忍日命(あめのおしひのみこと)が武装して先導したとあり、また神武東征のおりにも遠祖道臣命(みちのおみのみこと )が八咫烏の先導により大和への道を開いたという。
![道臣命](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/47691497/picture_pc_392d1472113dfc003bc51199772de935.jpg)
おそらく4~5世紀の大和政権の発展期に、朝廷の諸機能にたずさわる伴の管理者として成長し、ことに軍事的統率者として頭角を現したものと思われる。
5世紀後半に現れた大伴氏の最初の実在人物とされる大伴室屋(むろや)が雄略朝で大連(大和朝廷における最高執政官)となり、それまで大和朝廷に参画して勢力を誇っていた葛城氏に替わって大伴氏が急速に台頭する。
![画像9](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/47700795/picture_pc_5c27cf82f0866e6120565e09041f4055.jpg)
飛鳥時代には、大伴磐(いわ)・大伴咋(くい)・大伴狭手彦(さてひこ)は大将軍や大夫(議政官)に任ぜられ、大化の改新の後の大化5年(649年)には大伴長徳が右大臣になっている。以後も奈良時代までの朝廷において、大納言まで昇った大伴御行(みゆき)・大伴安麻呂・大伴旅人以下、多数の公卿を輩出している。
一方で、大伴安麻呂・大伴旅人・大伴家持(やかもち)・大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)などの万葉歌人も多く世に出している。ほかに、遣唐副使を務めた大伴古麻呂(こまろ)は独断で鑑真を唐から密航させて日本へ導いている。
ちなみに「令和」の出典となった「万葉集」の序文は、この大伴旅人によるものです。
初春の令月にして気叔く風和らぎ
梅は鏡前の粉を披き蘭は珮後の香を薫らす
![大伴旅人](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/47701043/picture_pc_b0694a117669b9050181c695d3cf30af.jpg)
ご先祖様が「かぐや姫」に登場
また、大伴御行は『竹取物語』に登場する「大納言大伴御行」のモデルといわれている。
大伴御行の大納言は、我が家にありとある人集めて、のたまはく、「龍の頸に、五色の光りある玉あなり。それを取りて奉りたらむ人には、願はむことをかなへむ」とのたまふ‥(竹取物語-竜の頸の珠)
![竹取物語](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/47697767/picture_pc_438a9ff6540702964fcefdba0222b972.jpg?width=800)
求婚してきた五人の貴公子に、無理難題を要望してあきらめさせようとするくだりに登場する貴公子の一人として描かれています。
このように神話時代から飛鳥・奈良時代にかけて権勢を誇った大伴氏であるが奈良時代から平安時代前期にかけての政争に関わって、一族から多数の処罰者を出し、武士の台頭とともに歴史の表舞台から姿を消していた。
大伴吉良喜はその衰退期に地方役人として伊予喜多郡に派遣されたものと思われる。
伊予大野の発祥の地
大洲市宇津には江戸時代に建てられた大野家住宅長屋門があり、文化遺産として国指定されている。どうやらここが伊予大野の発祥の地でまちがいなさそうである。
![](https://assets.st-note.com/img/1655627505775-QTMAy5PRAN.jpg?width=800)
この家の住人にたずねたところ、先祖伝来この地域の庄屋をしており、現在はなくなっているが、側には大きな庄屋屋敷もあったとのこと。この長屋は使用人や警護の侍の住居であったとのことです。
ちなみに今回、兄とドライブがてら大野家由来の場所を探索していたとき、何気なくハンドルを切っているうちに、偶然この長屋門の前にたどり着いていました。
また、次に久万山大除城主大野直昌の弟大野直之の居城菅田城址の場所を尋ねるために、訪問した1件目のお宅が偶然にも大野直之の直系子孫のお宅でした。
そういえば数年前、この地域を通りかかったとき、初めてきた場所にもかかわらずなんともいえない郷愁にも似た懐かしさをおぼえたことがあり、その時の記憶がよみがえり、次々とうまっていくピースに何か因縁めいた不思議な感覚をおぼえたものです。
さらに大伴吉良喜由来の祇園神社を訪ねたとき、兄が松山の高校に通っていたとき、大洲出身の同級生に「家に泊まりに来て」としつこく誘われるので、それではと訪れた場所が祇園神社のある八多喜だったと、兄も不思議な感慨をもって回想していました。
![画像10](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/47915983/picture_pc_b3b7c2bf7c427631ee5a5a73e36dc791.jpg?width=800)
祇園神社(大洲)
吉良喜は京都を出発する際に、信仰していた祇園宮(八坂神社)の御分霊を奉持し、粟津ノ森に社殿を造営し奉斎、「祇園社」と称したという。後に吉良喜夫妻の御霊を合祀した。大洲藩代々の崇敬を受け、参勤交代の時にはこの神社で海上安全諸祈願をして出発したという。
![](https://assets.st-note.com/img/1657792750175-XE6iKigICa.png)
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