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書物の転形期08 洋式製本の移入5:印書局設立前後の官庁洋装本

『官版国立銀行条例附成規』

 1872年11月に刊行された『官版 国立銀行条例 附成規』は、『傍訓英語韵礎』とともに「ボール表紙本」の嚆矢とされる。そしてこの本は現在確認できる官庁が刊行した最初の洋装本でもある。1871年8月、大蔵省内に紙幣寮が置かれた。12月には渋沢栄一が紙幣頭を兼任し、1872年8月には銀行課が設置され、金融制度の確立と国産紙幣の製造という大仕事が進められていた。そこで定められたのが国立銀行条例である。6月に草案が完成したこの条例を大蔵省は印刷製本し頒布しようとしていた。1872年8月5日の伺には「其上梓ハ都テ当省ニテ取扱ヒ出来ノ上成本奉呈頒布可奉願候」と記されている。『官版 国立銀行条例 附成規』は同年11月に上梓された。11月12日の上申には「別冊銀行条例成本御扣并各省府県等ヘ御頒布可相成分共都合四百三拾六部相済」とあり、同書が436部作られたことがわかる。これらは東京・大阪・京都へ各20部、横浜・神戸・長崎・新潟・函館へ各10部、各県へ5部ずつが送られた。前出8月5日の伺の但し書きでは「但条例成規ハ書肆ニ於テ発売差許候条其段モ為心得相達候事」ともあり、聞き届けられているので一般書肆を通じても頒布されたものと見られる。ただし、二冊本の和本も現存しており、実際にはどの程度の冊数が洋式製本で製作されたのかは不明である。

 1871年から翌年にかけて紙幣寮の他にも複数の官庁で印刷物を発行する部署が生まれた。工部省、文部省、海軍省、そして太政官左院などに印刷設備が設置された。このうち左院活版局に印刷設備を集約するよう意見書を出したのが予算不足に苦慮していた大蔵省であった(1872.4.29)。印刷設備の統合は同年9月20日の印書局創設で実現する。各省からの活版機械設備の引き渡しは、抵抗した工部省以外は同年中に完了した(『大蔵省印刷局百年史』第一巻、1971)。『官版 国立銀行条例 附成規』はこの最中に刊行された。まだ印書局が稼働していない中で、急務であった国立銀行条例の印刷製本頒布を大蔵省は自力で行ったということになる。

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※『官版 国立銀行条例 附成規』内閣文庫蔵(ヨ338-0074)

 この1872年版の『官版 国立銀行条例 附成規』にも後のボール表紙本に類似した簡易な製本様式が使われていた。表紙は縦20.7㎝×横14.2㎝。印刷本体は縦20.0㎝×横13.5㎝で、印刷本体は四六判よりひとまわり大きくCrown Octavoに近い。輸入ボールにStormont文様のマーブル紙を貼り、中央に題簽を置く。背は濃緑色無地の紙クロスを用い背芯は無い。印刷本体は1.0㎝の厚みで平綴じされており、ボールと背の間に段差がある「南京」型の形状である。三方に赤い染料の振りかけによる小口装飾がほどこされている。

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※同上、背の紙クロス。内閣文庫蔵(ヨ338-0074)

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※同上、振りかけによる小口装飾。内閣文庫蔵(ヨ338-0074)

 しかし、この本の綴じ方は貼り見返しを使う後のボール表紙本とは異なっている。三つ目綴じが多いボール表紙本に対して、本書は四つ目綴じを使っている。最も大きな違いは、見返しを印刷本体と一緒に平綴じにしてボールに貼り付けている点と、綴じ糸をボールの外側のより背に近い方に通して背クロスと接着するという点である。

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※『官版 国立銀行条例 附成規』表紙側見返し。見返しが本体用紙と一緒に綴じられている。内閣文庫蔵(ヨ338-0074A)

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※同上、見返し下部。内閣文庫蔵(ヨ338-0074)

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※同上、背クロスの中の綴じ糸部分が隆起している。内閣文庫蔵(ヨ338-0074)

 一方、ボール表紙本は印刷本体と表紙の間を見返し一枚で接着する貼り見返しが多い。表紙側の見返しは一面をのり付けするが、印刷本体側の見返しはページのノドに近い部分に狭くのり付けするだけである。その際、印刷本体を綴じている綴じ糸ものり付け面に来るように綴じる。したがって、綴じ糸はボールで保護されている内側に通すことになる。

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※木戸「明治期「ボール表紙本」の製本」(『調査研究報告』21号、2000.9)

翻刻/国立銀行条例附成規

※ボール表紙本貼り見返しの綴じ糸部分。ボールで保護された内側の印刷本体側見返しに綴じ糸の隆起が認められる。『翻刻 国立銀行条例 附成規』(積玉圃、1878)。木戸架蔵

 この両者の背の部分を略図にすると以下のようになろう。

国立銀行条例とボール表紙本の比較

 ボール表紙本は接着面も狭く、のりが剥がれたり印刷本体と表紙の接続部が破れて両方が分離したりする場合が多く、脆弱な造りになっている。『官版 国立銀行条例 附成規』の方は、見返しも綴じられているので、見返しの材質を丈夫なものにすれば、印刷本体と表紙が分離しにくい。このような製本はどこから来たのだろうか。

 Frances W. Grimm. A primer to bookbinding. Houghton Mifflin Co, Boston, 1939. にはパンフレットの製本として、『官版 国立銀行条例 附成規』と酷似した製本が紹介されている(岡本幸治氏のご教示による)。

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  J. J. プレーガー『最新製本術』(赤坂桂棹・庄司浅水共訳、ブックドム社、1931。原著はChicago, 1914)も「カード・ボール若しくはタグ・ボール背クロス本」として同様の製本について言及している。そこでも「小冊子(パンフレツト)類、型録(カタログ)、或は通帳、執業時間表の如き小帳簿」の製本としている。『官版 国立銀行条例 附成規』と異なる点は、見返しと印刷本体との間に補強のクロスを綴じ込む点と、表紙と印刷本体を共に化粧裁ちする点だが、補強のクロスは1870年代の段階では米国版の教科書でも省略されている場合が多い。また化粧裁ちの有無もわずかな工程の差である。『官版 国立銀行条例 附成規』はパンフレットに用いられていた簡易な製本術によって製作されていた。北米の製本術の教科書に記されている点からも、北米ではよく行われていた製本術だったのであろう。やはりこれも工芸製本ではなく実用的な製本であり、横浜などの居留地でも容易に製作できる水準の製本だった。

 『官版 国立銀行条例 附成規』は、大蔵省紙幣寮が自前で製本まで行ったのだろうか。大蔵省の資料に製本の機材や人材に関するものは今のところ見当たらない。『官版 国立銀行条例 附成規』製作中に印刷機器を印書局に引き渡し、その後印書局で洋式製本工を養成するに至る経緯から見れば、紙幣寮が自前の洋式製本工を雇用や養成していた可能性は低いだろう。

 1870年代前半の官庁の印刷物の多くは御用書肆が印刷製本頒布を請け負っていた。『国立銀行条例』の和本版もそれらの書肆ならば可能である。

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※『国立銀行条例 附成規』和本二冊本、北畠茂兵衛刊、内閣文庫蔵(和12420)

 しかし、洋装本はどうであろうか。例えば1874年、印書局が太政官『布告全書』の洋式製本作業を遂行できなかった際には、山中市兵衛・村上勘兵衛・北畠茂兵衛ら御用書肆が残りの製本を請け負ったが、その分はすべて和本になった。このような事例からも『官版 国立銀行条例 附成規』のような洋装本は、御用書肆のような大きな書肆であっても1872年の段階での製作は難しかったのではないか。大蔵省に製本の設備や人材が居らず、御用書肆にもその準備がないとすると、やはり居留地周辺で洋式製本を習得した職人に外部発注されたのではないかと考えられるが、今のところそれらを確認できる確たる資料は無い。(この節つづく)


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