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書物の転形期04 洋式製本の移入1:幕末の洋装本

江戸期の洋装本

 江戸期に最も洋装本にふれる機会があったのは、阿蘭陀通詞と蘭学者である。しかし洋装本の製作が試みられるのは、確実なところでは、長崎に設けられた活字判摺立所で1856年から1859年の間に製作された長崎版和刻洋書まで下る。ただし、それ以前に製作されたと覚しい洋装本も複数報告されている。現在、洋装本の蘭書や洋学書はほとんどが貴重書扱いで、製本の内部構造を確かめることは難しい。しかし、貴重書ゆえに文化財の修復や管理の専門家による解体も含めた調査が行われており、近年は数は少ないながらも充実した報告がなされるようになった。また、「早稲田大学図書館古典籍総合データベース」による洋学文庫のデジタル化や、静岡県立図書館「ふじのくにアーカイブ」による葵文庫のデジタル化など、デジタル・アーカイブによる幕末期洋装本の公開が進み、以前ほど資料へのアクセスは難しくなくなり、造本に関しても視認によってある程度は確認できるようになった。まずは近年の研究成果をデジタル画像とリンクさせながら紹介したい。

 和刻洋書以外の江戸期洋装本については、洋装本修復の専門家である岡本幸治の報告がある(「『独々涅烏斯草木譜』原本は江戸期の洋式製本か?」『早稲田大学図書館紀要』45号、1998.3)。これは原書を七冊本に改装した独々涅烏斯草木譜(どどねうすそうもくふ、早稲田大学図書館蔵、オランダ、原本1618の改装)を、それ以前の和製洋装本である『曙山写生帳』(佐竹曙山、1778自識)と比較しつつ、その特徴を分析したものである。なお、素材に関する詳細な科学的調査も行われている(吉田直人・加藤雅人・佐々木良子・吉川也志保・岡本幸治「独々涅烏斯(ドドネウス)草木譜」原本の科学的調査(1)」『保存科学』45号、2006.3、同(2)、『保存科学』46号、2007.3)。

 岡本報告は「洋式製本の構造を理解する上で大事なこと」として、「とじがどのように行われているか」「見返しの作りがどうなっているか」「表紙と中身がどう連結されているか」という、基本的な観点を提示している。そして『曙山写生帳』が、洋装本の構造をきちんと理解しないまま、見よう見まねで作られたものであるのに対し、『独々涅烏斯草木譜』の方は、「非常にしっかりした技術に裏打ちされて作られた製本」とする。特に、綴じの部分は二つの折丁を同時に綴じる二丁抜き綴じ(Two-on sewing)が使われている。これは綴じ糸によって背巾が大きくなりすぎるのを防ぐとともに、丁を飛ばすことで綴じに要する時間を節約できる方法だが、綴じの強度は折丁ごとにかがる本綴じ(all along sewing)よりも弱い。ただし、抜き綴じの場合も西洋では最初の折丁は本綴じにすることで綴じの脆弱性を補強するが、『独々涅烏斯草木譜』はこれがなされていない。綴じの縫い方もケトルステッチを採用しているが、結び目を省略している。

抜き綴じ

本綴じ

 綴じ以外はむしろ和本製作の技法が見られる。見返しは18世紀末の洋紙、表紙布は18世紀末以降のフランス製ジューイ更紗と推定されており、西洋渡来の素材が使われている。しかし、表紙布はボード全体に糊を引く洋式製本とは異なり、要所に糊付けする技法が使われている。和本の場合は表紙の芯紙が柔らかいためにこのような技法になる。また、表紙の天地の布を折り返してから角を落としている。これも和本の技法で、洋式製本の場合は布を張った後に角を斜めに切って折り返す。背には和紙が張ってあり、表具師が行う「打ち刷毛」の跡が見える。背の和紙は背巾ちょうどに張っているのではなく、背からはみ出して本文にまでかかっている。これは「折丁をブロックとしてひとまとめにしたいという意識が製本を担当した人にあったということ」であり、背巾に紙を張って膠で固める洋式製本とは異なり柔らかく仕上げようとしている。岡本は「これも和装製本の感覚だと思います」と見解を述べている。

 支持体は等間隔で配置されている(洋式製本では等間隔ではないものが多い)が、これは改装前の原本に由来するのか、改装時にこのようになったのかはわからない。支持体の素材は大麻(西洋は亜麻)で日本の安い生活用品に使われる素材であり、ボードは奉書紙を十二層張り合わせたものである。岡本報告後の科学的調査も「材料に関しては国産のものが多く用いられたことが示唆された」(吉田直人・加藤雅人・佐々木良子・吉川也志保・岡本幸治「独々涅烏斯(ドドネウス)草木譜」原本の科学的調査(2)」)としている。表紙と平の間のちょうつがいになる部分には厚手の和紙が貼られており、可動部が補強されている。また支持体は洋式製本のように縒られていないので強度が落ちるが、代わりにボードとの接続部を別の糸でくくって補強してある。岡本は「この製本者は相当のやり手じゃないかと考えざるを得ません。洋式製本の構造をまねしているだけではなくて、表紙を動かすとこのように力がかかる、だからこうして補強しなくてはいけない、ということを製本者は理解しているわけですね」と、その技術的な勘の良さを指摘している。

 以上が『独々涅烏斯草木譜』の造本についての岡本報告の概要である。報告はこの書物の成立年代や製本工房については結論を保留しているが、この報告から次のような推測ができる。『独々涅烏斯草木譜』は綴じに関しては洋式製本の基本的な技術を理解した上で行われているが、細部に不徹底が見られる。一方、見返しは和本の技法で製作されており、表紙布と見返しを除けば国産の素材を使っている。つまり、改装にたずさわったのは技術的な勘の鋭い和本職人だった可能性が濃厚だが、綴じの基本的な工程を学んだ程度で、洋式製本の技法を細部に至るまで習得した者ではないということである。

長崎版和刻洋書

 和刻洋書とは「幕末に、金属活字による活版印刷によって、舶載された洋書の翻刻・編集などを行い、洋装本として作成し刊行された書物」(鈴木英治・切坂美子「幕末に作成・刊行された和刻洋書 長崎版の素材と構造」『文化財情報学研究』8号、2011.3)である。その嚆矢が「活字判摺立所」で1856年から1859年まで刊行された長崎版である。神﨑順一「幕末長崎のオランダ語書復刻事情」(『日本印刷学会誌』45巻4号、2008.8)がその間の事情に詳しい。それによると、1855年6月に長崎奉行から建白された「阿蘭陀活字板蘭書摺立方之儀ニ付奉伺候書付」は神﨑の要約によれば「日本へ齎された西洋の書物は、オランダ人が個人の利用目的で持ち込んだ中から拝借あるいは購入したもので、残りは注文品である。ところが、購入の希望が増えたが、注文通りの部数が来ない状況であり、この節柄、通詞も家業に精を出さねばならないところ蘭書が払底していて修行が行き届かない。オランダ人が持ち込む書籍に頼ってばかりでは差し支えがちで、先年、オランダ人が持ってきて和蘭通詞が所持していた「蘭書活字板」を買い上げ、試し刷りをしたところそこそこの出来栄えであり、このごろ必要とされる書籍の種本もあるので、役所で植字印刷して当会所から売ると便利である」云々とあって、蘭書の受容に応えるために、オランダ人から買い上げた活字を使って蘭書の翻刻をすることが建白されていた。この「活字板」は本木昌造らが買い受けていたスタンホープ・プレスで、それを使って「活字判摺立所」で印刷されたのが長崎版ということになる。神﨑論は7タイトルの長崎版を紹介している。

 このような成立事情もあって、長崎版は活版印刷の移入に関する研究で主に取り扱われてきており、その製本については、神﨑論が「洋書の八折版の作りとなるように製本されたもの」で装幀は「仔牛革のハーフ・バウンド(Half bound)」(=半革装:木戸注)に「背には五箇所に罫線を入れている」。「平は、マーブル紙かまたはそれに似せた模様入りの和紙、小口三方は、プルシアンブルーの霧吹き模様」で「本文は和紙の表裏に八頁ずつ刷ったものを三回折って一帖にしたものではなくて、あらかじめ縦20㎝、横28㎝大に切った紙葉に表裏二頁ずつ印刷し、四葉重ね合わせて一帖としたもの」と簡略に記述した程度であった。その長崎版7タイトルの製本を詳しく調査したのが前掲鈴木・切坂論である。

 長崎版7タイトルは、鈴木・切坂論によると以下の通りである(記述を一部省略)。

Syntaxis, of woordvoging der Nederduitsche taal. (『シンタキス』、『セインタキシス』、『和蘭文典成句論』)1856
②Weiland, P ., Nederduitsche spraakkunst. 1856. (「ウェイランド『和蘭文法書』」、「ウェイランド『スプラーク・クンスト』」)1856
Reglement op de exercitien en manoeuvres der infanterie. (『レグレメント』、『歩兵教練並びに演習規則集』、『歩兵操典』)3巻3冊、1857
Van der Pijl's gemeenzame leerwijs voor degenen die Engelshe taal beginnen to leeren.(『英文典初歩』、「ファン・デル・ペイル『ゲメンザーメ・レールウェイス』」)1857
⑤Volks-natuurkunde of onderwijs in de natuurkunde voor mingeoefenden. (『理学訓蒙』、『格致問答』、「ヨハネス・ボイス『ヴォルクス・ナトールクンテ』」)1858
⑥Weiland, P., Kunstwoordenboek. (「ウェイランド『キュンスト・ウォールデンブック』」、「ウェイランド『学術用語辞典』」)1858
⑦Weiland, P,. Nederduitsche spraakkunst. 1859.(「ウェイランド『和蘭文法書』」、『和蘭文範』)1859

 同論はこのうち③『レグレメント』を中心に装丁・箔押し・綴じ・折丁・紙・刊記・印刷という七つの項目について調査結果を記載している。大きさは原書よりもやや大きく、すべて角背で半革装、背に箔押しがある。原書よりも本文紙が厚く、したがって書物自体も厚くなっているが、にもかかわらず長崎版には丸背がない。鈴木・切坂は「角背と異なり丸背にするためにはバッキング、溝付けなどの工程が必要であるため、その技術を習得していなかったことが疑われる」として装丁者の技術的水準を推測している。表紙は「茶色の地をもつマーブル様の和紙」に特徴があり、これは欧米に見られないものとしている。綴じはいずれも二丁重ねの抜き綴じであり、ノドに二点二組の綴じ糸が規則的に現れる(ABCのパターンが認められる)。支持体も使われており、その端の始末は「表紙の板紙に貼った化粧紙と平や革を貼っている和紙との間に支持体の先を扇状に広げて貼りこんでおり、洋式製本の支持体の始末の方法で行っている」。原書の方は中央に二点一組の糸が現れる簡易な仮綴じで支持体もない。長崎版の綴じは原書よりも複雑な抜き綴じを採用し、支持体を用いている。鈴木・切坂は「長崎版は単純に底本の綴じをまねたものではなく、選択的に2丁重ね抜き綴じを行ったのではないか」と推測している。

 一方、同論は長崎版の印刷に関しては稚拙であるとし、活字判摺立所で指導したとされるインデルマウルは、実際には長崎で実質的な技術指導を行わなかったと結論づけている。それに対し製本については次のように推測する。

長崎版は単に舶載洋書を見よう見まね、試行錯誤で作成したものではなく、誰から学んだのかは不明であるが一定の洋式製本技術を学んで作られたものであろうと推測できる。長崎版は、舶載洋書以外はすべて和装本であった当時において、洋書らしい洋書の体裁・構造を追求し、まさに国産の蘭書としての和刻洋書を作成・刊行したといえる。これには、本木昌造や品川藤兵衛などの阿蘭陀通詞が中心となったことは重要なことである。洋書とはどのような物か、様々に異なる内容とは別に外見や物としてどのような物なのか、多くの洋書に接しその共通点を捉えられる立場にいるのは、当時阿蘭陀通詞に勝るものはいなかったはずである。

 つまり、長崎版和刻洋書の製本は、幕末長崎における活版印刷の移入と同様に、西洋技術移入のひとこまだったということである。ここには『曙山写生帖』のような単なる摸倣ではなく、技術を移入しようという意志が認められる。

 長崎版和刻洋書は、抜き綴じを使ったかがり製本で装幀も半革装にマーブル表紙という本格的な洋装本であった。しかし、一方で仮綴じを採用した簡易な製本による和刻洋書も存在する。技術史的な観点からは本格的な洋式製本術の達成に焦点が当てられがちだが、その後の洋式製本の普及や流布、そして書物間の格の形成といった観点からは、簡易な製本術の移入と展開が一方で重要になるであろう。事実、1873年に製本師パターソンを雇い入れたことで、洋式製本術移入の正史的なあつかいをされてきた印書局の製本でも、かなりの割合をいわゆる「ボール表紙本」が占めていたということは、今まで見過ごされてきた。その前史として、次に和刻洋書の簡易な製本について見てみよう。洋装本は移入当初から本格製本と仮製本という二つの道筋に分かれていたのである。(この節つづく)

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