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文章青年02 1890年代の地方雑誌

1890年代の地方における文芸と言論の混淆

 少しさかのぼって1890年代の文芸を扱う地方雑誌を見てみよう。小木曽旭晃『地方文芸史』(教育新聞発行所、1910)は、1900年代の地方で文学活動をしていた当事者による同時代史としてほぼ唯一のものである。旭晃は序で日清戦後を「明治文学の発展第二期」ととらえて「地方文壇」が活動を始めた時期とし、「日清戦役以後現在に至る十五六年間は将に地方文壇の全盛時代」としている。そして、明治30年以前は「東都文学が漸く新文学に活動の曙光を放ちたる頃なれば、比較的時勢に迂遠なる地方文壇に在りては、未だ四顧冥々として何物をも認め得ざりし暗夜に同じ」とし、日清戦後の東京における文学の動向を基準に、その動向に反応していない明治30年以前の「地方文壇」については記述の対象としていない。

 しかし、日清戦争以前から和歌・俳諧・漢詩文といった既存の文芸は門人や文人間の人脈を生成、維持するために地方でも早くから雑誌を利用していた。井上隆明『秋田明治文芸史 〈文人〉儒者の変容と終焉』(東洋書院、1996)は、秋田県の文人儒者が明治期に社を結んで地域の出版メディアを起ち上げ、ジャーナリストとして啓蒙・政治活動とともに文芸活動を行った経緯をつぶさにとらえている。聚珍社という結社を起ち上げて『遐邇新聞』を発行した文人らが、1878年には『羽陰小誌』という雑誌を発行した。これは「秋田初の文芸雑誌」とされ、「詩、歌、発句、代表俳人の俳諧表」で構成されていた。投稿者は秋田にとどまらず全国に及んでいる。

 聚珍社は1879年に『二葉新誌』という雑誌も発行している。これは「県内の少年雑誌の第一号」であり、小学校を中心とした生徒の作文を集めた雑誌であった。『穎才新誌』などに連なる作文投稿雑誌である。

 秋田では1882年頃から政党新聞による言論時代が始まり、1890年代には言論誌や青年雑誌が席巻するようになる。1889年創刊の『巷議』は「政治言論誌」とされているが、井上は「文も筆名も漢学の口調。しかも読み物や漢詩もあって、言論の基調が文芸であることに気づくのだ」と述べ、また郡部で発行された「若い言論グループ」の諸雑誌も「内容は明らかに文芸誌の政治的傾斜だった。青年たちの悲愴な天下国家論的感想が主体だが、底流はやはり文芸投稿でにぎわっている」と、文芸と言論の混淆を指摘している。

 文芸雑誌が言論誌化する場合もある。千葉県香取郡神代村の雅友会が発行した『風流之友』(1891年9月創刊)は地域の俳諧結社を基にした俳諧雑誌だった。

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 「本誌発行之趣旨」では「風流」が「滑稽洒落」に流れて失われつつある結果、「政治家」や「実業家」から疎んぜられるという状況に警鐘を鳴らし、「風流の風流たる所以を説き以て彼我智識を交換し親密なる交際を求めんと欲す」と説く。ここでは「風流」の追求だけではなく、「智識の交換」と「親密なる交際」が掲げられていた。これは当時の青年向け言論誌の創刊目的や青年結社の規約などの常套句であった。『風流之友』の1892年の広告では既存の論説や文芸を「学術的」にした上に「実業」の記事が付け加わる。

本誌は論説文章及詩歌俳諧に関する学術的の諭言珍説を蒐集し又実業に関する有要の記事をも掲載して自他の智識を交換し以て親密なる交際を求むるの媒介者たらんとす
(『東洋文学』1号、1892.9)

 「実業」が付加されるという点から見ても、『風流之友』という誌名自体が民友社の『国民之友』に触発されたものだった。1892年12月には『青年之友』と改題する旨を広告している。俳諧・和歌・漢詩文などの結社は江戸期から地方の名望家層に支えられており、冊子の贈答や文通によって江戸期から全国的なネットワークが形成されていた。彼らは地域の啓蒙教化を先導する立場であり、各地の同様の結社や名望家の間で贈り合っていた冊子が、明治期には雑誌に姿を変えた。全国に同人を持つ俳諧雑誌などには地域の啓蒙活動を紹介する記事も掲載されていた。 1890年代の民友社や政教社といった青年向け言論の流行がそれらを引き継ぎ、地方においては既存文芸の雑誌が、学術的であることを標榜したり実業の文章を取り込むなど変質していく状況がうかがえる。同時に、これら既存の文芸雑誌は従来通りの和歌・俳諧・漢詩文の掲載も続けており、文芸誌と言論誌が混ざり合った誌面となっている。

『東洋文学』の例

 文芸雑誌・作文投稿雑誌・言論誌の三つの系譜は、1890年代の地方では一つの雑誌の中で併存することも多かった。その一例として1892年に千葉県安房郡北条で発行された『東洋文学』を取り上げたい。この雑誌は東洋文学会によって1892年9月に創刊された月刊雑誌で、1893年8月の12号まで現存が確認できる 。12号に東洋文学会の解散が総会で決議されたという記事があり、以後も雑誌を継続するとしているが、おそらくこの号で終刊したと思われる。硯友社員や佐々木信綱、武田桜桃らの寄稿もあり、東京の『詞海』や大阪の『葦分船』といった都市部の文学雑誌と雑誌交換を行い、それらの書き手からの寄稿も掲載していた。当時の地方雑誌の中では新しい文芸に比較的敏感だったと考えられる。

 東洋文学会の会員は「東洋文学会会員名簿」とその後の追加分も合わせると現在確認できるのは176名である。最初の名簿に記載された91名の大半は、小学校の教員か師範学校に在学している者だった。『東洋文学』は「号外」として1892年11月に『北条高等小学校北条尋常小学校沿革概報』を発行しているが、それと照らし合わせると北条高等小学校、北条尋常小学校の校長をはじめ、北条とその近隣の小学校教員が名を連ねている。編集者の高山房次郎も北条尋常小学校の教員である。高山は1892年4月に隣の平郡那古尋常小学校から異動してきたが 、平郡の小学校教員も多数入会している。規約では安房郡・平郡・朝夷郡・千葉・東京に地方委員が置かれた。

  『東洋文学』は規約第一条に「東洋文学会ノ目的ハ主トシテ文学ノ発達ヲ期シ兼テ智識ノ交換ヲ図ルニアリ」と掲げた「文学雑誌」だった。創刊に当たり「文学」について次のように述べている。

吾儕は題して東洋文学と云ふ、蓋し今茲に文学と言ふものは、。広闊なる意味もて称ふるなり、故に必ずしも狭隘なる範囲内にある、詩歌小説の類を合称するのみならず、語を換へて言へば、単に世想人情を写すの小説、山色水光を詠するの詩歌に止まらざるなり、吾儕は更に歩一歩を広めて、普通学術の学理、論評をも併称せんとするなり、吾儕は之に依りて、苟も教育の進歩を促し、道徳の発達を期するを得ば、収めて以て、文学的に之を記述せんと欲するなり、
(「東洋文学誕生の辞」『東洋文学』1号、1892.9)

 『東洋文学』の「文学」とは「普通学術の学理、論評」をも含んだ「広闊なる意味」のものである。注意すべきは文学を「詩歌小説」という「狭隘なる範囲」のみと見る見方を視野に入れつつ否定した上で、「文学」の領域を意識的に拡張している点である。ここで拡張された「文学」とは、「教育の進歩」「道徳の発達」に寄与するものを「文学的に」記述したものとされている。この文の別の箇所では「美術と道徳とは一致せずとは或る論者の唱ふる所なりと雖も、吾儕は殆んど之に同意する能はざるなり」とも述べられている。「誕生の辞」は教育上の有用性や道徳的教化という観点から「文学」を規定しようとしている。ここには教員という立場からの「文学」観も反映しているだろう。

 教育や道徳に役立つ「文学」観は誌面構成にも現れている。掲載文は「東洋文学」「論文」「理文」「美文」「雑録」「雑纂」にカテゴライズされており、さらに小学校生徒の作文を掲載する「附録」がある。「東洋文学」欄には文学に関する論説文が掲載されるが、「論文」欄には「男女間に於ける一問題」「真正の家庭」 など道徳や社会問題に関する論文が多い。また「理文」欄は論理的な説明文で「人生に存する二種の義務」「有機化学ノ「アニーリン」属」 など哲学や科学などの内容が多い。書き手は東洋文学会の教員か師範学校生が多かった。

 一方で、『東洋文学』には地域の既存の文芸が流れ込んでおり、それは「美文」「雑録」に掲載される。一つは俳諧である。発行元の智発堂は、当時東京で人気を博していた(四世)夜雪庵金羅・桐子園(三森)幹雄を判者に頼み 、「北条連」の補助で「東洋文学掲載懸賞発句」の催主となっていた。『東洋文学』に毎号のように掲載される地域の俳人による俳諧群がおそらく「北条連」のものであろう。智発堂は発行者兼印刷者である鈴木一郎と同住所である。鈴木は教科書・書籍・新聞雑誌を取り扱う鈴木新聞舗を経営しており、『東洋文学』の発行と販売を支えていた。鈴木は文芸に志のある地方の名望家だったと考えられる。

 また和歌も地元歌人の歌が毎号掲載され、地域外の歌人から批評も受けている。教育の場での人脈も動員された。『東洋文学』創刊前の1892年8月には北条尋常小学校で佐々木信綱による国語科講習が行われ 、その縁で佐々木は2号に感想を寄稿した 。その後も「鏡浦会歌集」の選者を務めている 。智発堂は12号で新たに「成美会」を起ち上げ、催主として和歌の募集も行っている。佐々木信綱もその判者の候補に挙がっていた。

 もう一つの系譜は漢学である。「房州に於ける漢学塾」 では恩田城山・鈴木抱山・早川図南・鱸卯三郎の漢学塾が紹介されているが、彼らは毎号漢詩文や論文を寄稿している。また会員として度々寄稿している中村為吉は「鱸采蘭女史履歴の一斑」 で、安房出身の鱸松塘の娘で七曲吟社の塾長も務めた采蘭から漢学を学んだことを記している。広告欄では鈴木抱山をはじめ千葉県内から関西まで漢学者の詩文添削募集の広告が掲載された。

 これらの地域の文人を中心とした人脈とは別に、東京および関西の知名の文学者による寄稿が巻を重ねるごとに多くなっていく。これは、雑誌交換などによって次第に他雑誌や文学者との交流が生まれたからであろう。山田芝廼園・武田桜桃・山岸荷葉・武蔵野奴之助・瀧沢秋暁といった全国的に名を知られた文学者や投稿者が寄稿するようになった。特に小説・新体詩・美文にその傾向があったが、一方で会員からはこの種の文学の投稿は少なかった。6号には次のような呼びかけが掲載されている。

吾会の長老よ、吾会の先輩よ、願はくは幸に其の錦嚢を傾け玉ひていといみじきいと貴き小説、論文、さてはまた新体詩のくさ〴〵めぐみてたべや、玉はれや、これぞ吾が願ひ、あゝすべての人よ
(『東洋文学』6号、1893.2、高山美文(房次郎か)の文)

 創刊時から懸賞小説の募集もしており、編集の方針としては新文芸の掲載を志していたようであるが、結局これらは地域での自給はほとんどできなかった。小説のような新らしい文芸は全国的な雑誌の書き手の寄稿を請わなければならず、雑誌交換はそのような寄稿を得るための手がかりでもあった。8号では名誉賛成員として尾崎紅葉の名も記されている。

 『東洋文学』と雑誌交換をしていた関西の『葦分船』や、東京の『千紫万紅』『小桜縅』『詞海』といった都市部の「文学雑誌」の内容は文芸によって占められていた。一方、『東洋文学』のような郡部の「文学雑誌」は雑誌レベルでの専門化や細分化がなされにくい環境にあった。『東洋文学』は論説文と作文は地域の教員の人脈に、俳諧・漢詩文を地域文芸の人脈に、小説・新体詩・美文といった新しい文芸は雑誌交換を通じた全国的な人脈に主に頼っていた。地域内で雑誌に寄稿できるリテラシーを持った人材は限られていたと考えられる。その結果、「文学雑誌」を名乗りながらより広義の「文学」を掲載することが多かったのである。


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