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書物の転形期06 洋式製本の移入3:米国の教本と「工業的な書物」

米国の教本とその輸入

 19世紀欧米の書籍産業は近代的産業に変貌していく。製紙は機械化され、印刷機も世紀の中頃には蒸気機関で稼働するようになった。製本も例外ではなかった。綴じ付け製本による自家製本から、表紙・背と印刷本体とを別々の工程で作り、最後に本体に表紙・背を被せて接続するくるみ製本(case binding)による版元製本への移行が進んだ。大貫伸樹『製本探索』(印刷学会出版部、2005、13p)は、「綴じ付けずに済ます「くるみ製本」の発明は生産効率を大幅に高める」と指摘している。書物の製作工程は高速化し、大量生産が可能となった。19世紀の欧米は「工業的な書物」(Industrial book)の時代に入っていたのである。

 書籍産業の工業化は教育の近代化によるリテラシーの拡大によってもたらされたものでもある。教育の普及と書籍産業の成長は相互に作用し合いながら進んだ。19世紀の半ばまでに欧米各国で急成長した出版社の多くは教科書出版に手を染めた。英国ではLongman社やMacmillan社、W.&R. Chambers社などが売り上げを伸ばし、米国では後に巨大な教科書出版会社American Book CompanyとなるD. Appleton社、Ivison, Blakeman, Taylor社、A. S. Barnes社、Van Antwerp, Bragg社の四社を中心に無数の出版社が鎬を削っていた。書籍産業近代化の露払い役を担ったのが教科書だったのである。

 英国の初等教育が義務化されるのは1870年である。19世紀に入って教科書出版は行われてきたが、この時に「莫大な量の初等教科書、とくに各教科の基礎読本が必要」となり、「真のブーム」が来た(ジョン・フェザー著・箕輪成男訳『イギリス出版史』、玉川大学出版会、1991、284-285pp)。

 一方、1830年代から教科書出版で過当競争を繰り広げていたのは米国だった。北東部、中西部を中心に学校制度の整備が進んで学校への出席率は上昇し、教育が資本主義の発展に貢献するという認識は広まっていった。米国の初等教育はヨーロッパ諸国のように集権化が進まなかったが、その結果教科書は教育委員会や校長の意向によって採用され、採用された教科書によってカリキュラムまでもが左右された。出版社は小売を介さずに直接学校と取引するようになった。教科書には盛んに広告が掲げられ、契約競争が激化した。教科書出版の中心地は、運河による通運とプレス印刷機で優位に立ったシンシナティ、そしてもう一つはニューヨークだった。ニューヨークには教科書の専門会社が設立され、D.Appleton社のような総合出版社も教科書部門を作った。学校図書館用書籍で1830年代に躍進したHarper & Brothers社も、1859年には最も遅れて教科書市場に参入せざるを得なくなっていた。(Scott E. Casper Ed. A History of the Book in America. vol.3. Industrial Book 1840-1880. the American Antiquarian Society by The University of North Carolina, 2007,212-219pp)。

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※Sanders. The Union Speller. Ivison, Phinney, Blakeman & Co, New York, 1868, 後表紙の広告、内閣文庫蔵。

 日本では1870年前後からこれら教科書に採用されるような教本類を通して西欧の知識が摂取された。各地の洋学校の蔵書には、英米の教本が数多く残されている。語学のスペリングブックやリーダー、算術書、地理書、歴史書などが主である。特に種類と量が多かったのは米国版の教本だった。米国ではカッケンボス、ロビンソン、コーネル、パーレーらの教本がシリーズ化されて安価に刊行されていた。全国に所蔵されている英学書を踏査した池田哲郎『日本英学風土記』(篠崎書林、1979)をひもとくと、米国版の教本が全国に流布していたことがわかる。開成所や沼津兵学校の蔵書を引き継いだ葵文庫の蔵書や、熊本洋学校の旧蔵書(大島明秀『熊本洋学校(1871-1876)旧蔵書の書誌と伝来』、花書院、2012)を見ても、米国版の教本が数多く所蔵されている。

 米国版の輸入で知られているのは福沢諭吉であろう。1867年に幕府の遣米使節団の一員として渡米した福沢は、自己資金のほかに仙台藩や和歌山藩からも莫大な資金を預かり、洋書を購入した。福沢は「大中小の辞書、地理書、歴史等は勿論、其外法律書、経済書、数学書なども其時始めて日本に輸入して、塾の何十人と云ふ生徒に銘々其版本を持たして立派に修業出来るやうにしたのは、実に無上の便利でした。ソコデ其当分十年余も亜米利加出版の学校読本が日本国中に行はれて居たのも、畢竟私が始めて持て帰たのが因縁になつたことです。」(『福翁自伝』)と述べ、自身の米国からの購入がきっかけとなって、米国版の教科書が全国に流布したとしている。彼が洋書を購入したのはニューヨークのD.Appleton社だった。

 1850年代にD.Appleton社は初等教育の教科書の主要な版元になった。Mandevilleのリーダー、Cornellの地理、Perkinsの算術、Quackenbosの歴史、そして特に"Blue-Back"の名で親しまれたWebsterの"Elementary Spelling Book"がよく売れた(Gerard R. Wolfe. The House of Appleton. The Scarecrow Press, 1981,72-76pp)。福沢が将来した本の一部は仙台藩の藩校養賢堂に送られ、その書目が『藩学養賢堂蔵洋書目録』(早稲田大学蔵)によってうかがえるが、カッケンボスの歴史を除いて、上記の書目がそれぞれ数十冊ずつ購入されていたことがわかる(金子宏二「『藩学養賢堂蔵洋書目録』について―慶応三年福沢諭吉将来本―」『早稲田大学図書館紀要』20号、1979.3)。藩校の生徒に教科書として行き渡るようにこれらの教本類が購入されていた。

米国版教本の製本

 この時期の米国版教本の製本とはどのようなものであろうか。綴じ・表紙および背の素材・背の形状の三点から分類してみよう。

 綴じ方は抜き綴じが多く、特に200ページ以上のものはほとんどこれになる。この場合、背の形状は丸背の溝付きが多く、表紙と印刷本体との接続部は寒冷紗で補強されている。

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※背革クロス装。 Quackenbos. An English grammar. D. Appleton & Co, New York, 1868, 内閣文庫蔵。

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※同上 見開き。二本の支持体を用いた抜き綴じ。

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※同上 表紙と本体の接続部。隙間から寒冷紗による補強が見える。

 表紙と背の組み合わせとしては、総クロス背革クロス表紙背革紙表紙背クロス紙表紙が多く、特に初中等教育向けでは紙表紙の使用が目立つ。また、背革は着色された極薄のものが使われている場合が多く、中には擬革紙(紙クロス)が使用されている例もあるかもしれない。

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※背革紙表紙 Sanders. Union Reader. No.2. Ivison, Blakeman, Taylor & Co, New York,1878推定。 架蔵本。

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※同上背上部。背の素材は極薄の皮革か。

 また、中高等教育に使われるものの中には総革もある。

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※総革 Robinson. New university algebra. Ivison, Blakeman, Taylor & Co, New York,1872, 内閣文庫蔵。

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※同上 三本の支持体が見える。

 一方、背に背芯を入れず、表紙の芯のボールと背の間に段差ができる形状のものがある。いわゆる「南京」と同様の背の形状だが、綴じ方は抜き綴じである。

 より薄冊のものは平綴じである場合が多い。その代表格がD.Appleton社ほか各社の主力商品となったウェブスターのスペリングブックである。

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※Webster. The Elementary spelling book. J.B.Lippincott & Co,Philadelphia,刊年不明。いわゆる"Blue-Back"。これはD.Appleton版の米国翻刻本。架蔵本。

 このスペリングブックは1970年代までに7千万冊以上売れたとされ、売り上げのピークだった1866年の一年間で156万6千冊売れたという(The House of Appleton,76p)。後に日本でも多くの翻刻本が作られた。

 この本の背の形状は「南京」で、印刷本体は2本のテープによって平綴じになっている。本体用紙を貫いたテープは表紙と後ろ表紙のボードの表にまわり、ボードに貼られた表紙紙との間に貼り込まれている。これはウェブスタースペリングブックの初期から踏襲されている。同様の綴じ方は他のスペリングブックにも見られ、薄冊の米国版教科書製本の範型の一つになっている。

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※同上 テープの平綴じ。

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※同上 テープの平綴じは上下二点で綴じられている。

テープ表紙

※同上 表紙と表紙紙の間に貼り込まれたテープの隆起。

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※前掲 The Union Speller. の表紙と印刷本体との間。二点のテープ綴じ。内閣文庫蔵。

 このテープとじが綴じ糸による三点の平綴じになっている場合もある。ここから後に日本で流行する「ボール表紙本」の製本構造との差異はごくわずかである。

 「工業的な書物」であった米国版の教本類は、洋学者や彼らをブレーンとした明治新政府の洋式製本に対する考え方に決定的な影響を与えた。洋式製本は洋紙や活版印刷と並んで知をコンパクトに広める実用的な容器を作るためのテクノロジーとして彼らの前に立ち現れた。「工芸的な書物」――特権階級の財産であった書物を仕立てる技芸としての洋式製本は、彼らの意識の外にあった。やがて製本技師パターソンの伝習によって洋式製本術移入の中心となる印書局が提示した理想の技師の条件は、洋式製本に期待されていたものが何だったのかをうかがわせる。

米国ニユーヨルクハ教科書等ノ印行著名ノ地ニ付同所ヨリ御雇入相成度御許可ノ上ハ人物聞合其他即今ヨリ多少ノ手繰有之儀ニ付可相成ハ速ニ御差図被下度候
「印書師三名傭入ノ儀伺」、1873.12.23)

 この文書に先立つ1872年、米国版の教本をモデルに洋式製本への挑戦が新たに始まることになる。(この章つづく)

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