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文章青年01 地方青年の多元的文筆活動

『田舎教師』による地方文学青年の類型化

 日本では19世紀初頭から全国的に読み書き能力を獲得する動きが進み、さらに「学問」による階層的流動性の進行が本格化した。「立身出世主義」の時代の到来にともなって、「学問」の基盤となるリテラシーの向上を目指す若年層が急増した。当初、彼らの多くは没落士族か、都市及び農村の経済的に恵まれた若年男性であったが、公教育の整備と共にリテラシー向上を目指す層は拡大し、『穎才新誌』(1877年創刊)のような作文投稿雑誌が登場した。これらの投稿雑誌は主に小学校の文章教育と連動しつつ文章を多様なジャンルに区分した。編集者が添削や批点を施すことによって文章の指導をするものも多く、全国の書き手の文章とそのレベルが可視化され、それを全国の読み手が鑑賞してさらに自らの書く行為へとつなげようとする新たな文章修行の場とサイクルが生まれたのである。

 投稿雑誌は日清戦後に新たな展開を見せる。『少年園』(1888年創刊)の投書欄が独立した『少年文庫』(1889年創刊)は、1895年に『文庫』と名を変え、「中等教育」程度のリテラシーを前提とした文芸中心の投稿雑誌となった。秋田の有名投稿者だった佐藤儀助は1896年に同じく文芸中心の投稿雑誌『新声』を創刊した。投稿者の年齢が上がるにつれて、投稿雑誌も読者の照準を中等教育以上にまで広げてゆき、投稿雑誌のジャンル構成も定型的な作文からより自由な文芸に傾いていった。その極めつけが1900年創刊の『明星』であろう。「われらは互に自我の詩を発揮せんとす。われらの詩は古人の詩を模倣するにあらず、われらの詩なり、否、われら一人一人の発明したる詩なり」 という「新誌社清規」(『明星』6号、1900年9月)は、新派和歌という枠を越え、それまでの和歌・俳諧の投稿雑誌や作文投稿雑誌とは異なる自由な表現の場の誕生を宣言していた。この新たな展開を「文章から文芸へ」「規範から自由へ」と要約することができるだろう。

 田山花袋『田舎教師』(佐久良書房、1909年)は、この時期の地方青年小林秀三の日記を基にしている。主人公林清三は『明星』にあこがれ、「行田文学」という文芸雑誌を仲間とともに発行する青年として描かれた。後に『東京の三十年』で花袋は次のように述べている。

三十四五年――七八年代の青年を描かうと心がけた私は、かなりに種々なことを調べなければならなかつた。その頃の青年でも、もう私の青年時代とは、余程異つた特色やらタイプやらを持つてゐたから…。『明星』にあくがれた青年、半はロマンチツクで、フアンタジツクで、そしてまた新しい思潮には到達しない青年の群――その群を描くことに就いては、私に取つて非常に困難であつた。
(『東京の三十年』博文館、1917年、421p)

 花袋が知っている青年とは、「漢詩と、八家文と、和歌と、ビイコンスフイルド卿の小説と、『佳人の奇遇』と、英語と、馬琴と、春水と、岩見重太郎伝と、『頴才新誌』と、さういふ雑然とした空気」(『東京の三十年』) に包まれていた1890年前後の自分自身。そして現在、『文章世界』で接している日露戦後の青年達である。『田舎教師』に描かれた1900年前後の青年達は、花袋が『文章世界』を通じて接した日露戦後の青年達よりも「一期前」 である。花袋は、過去の自分と現在の青年の間に1900年前後の青年達を置き、彼らを「半はロマンチツクで、フアンタジツクで、そしてまた新しい思潮には到達しない青年の群」という過渡期の存在として位置付けた。

 1900年前後の青年は花袋にとっては後発世代であり、たとえ郷里に近い地域の青年であっても、すでに理解が難しい存在だった。そこで花袋は、漢詩や和歌、『頴才新誌』という規範的な文章修行からロマン主義、そして自然主義へという自己の文学的遍歴に沿った形で、この時期の青年をとらえようとした。これは小説家であるとともに、自己の文学的立場を正当化すべく文学史家としても活動した花袋の文学史観でもあった。 花袋の文学史観は現在も近代文学史のメインプロットとして命脈を保っている。先に示した投稿雑誌の「文章から文芸へ」「規範から自由へ」という道筋も、この文学史観に包摂されるだろう。

「文学」雑誌と「文学的ではない」雑誌

 そこであらためて『田舎教師』のモデル小林秀三の文筆活動を見てみよう。作中で「行田文学」とある文芸雑誌の実際の名は『鴛鴦文学』である。この雑誌は、地方の投稿者として知られていた石島薇山(郁太郎)を含む三名を創立員とし、鴛鴦文学会(1900年7月結成)を発行元とする「文学雑誌」として発刊された。掲載されたジャンルは論説文・小説・美文・新体詩・俳句・和歌・漢詩であった。ここでは文芸を「文学」と呼んでいる。小林一郎『増補田山花袋 『田舎教師』のモデル日記原文と解読所収』(創研社、1969年) 、長尾宗典 『〈憧憬〉の明治精神史 高山樗牛・姉崎嘲風の時代』(ぺりかん社、2016年)によると、鴛鴦文学会員の大半は埼玉県立第二尋常中学校(後の県立熊谷中学校)の生徒であった。特に級友の狩野益三(号は破骨・金剛・梨花)は複数の文章が掲載される中心的な会員の一人だったと見られる。狩野は小林の日記の中で75回も登場する親しい関係であった。 小林は鴛鴦文学会結成当初からの会員であり 、夕雲の号で第3号(1901年2月)に寄稿している。小林の『鴛鴦文学』への関わりを見ると、親しい仲間とともに文芸に傾倒する「文学青年」としての地方青年像が浮かび上がる。

 しかし、小林の日記にはもう一つ、『鴛鴦文学』とは異なる地方雑誌への投稿の記事がある。1901年1月10日の日記に「武陽文壇の投稿原稿を攻む」とある。この『武陽文壇』への投稿は『田舎教師』に取り上げられず、また先行研究でもほとんど言及されなかった。実はこの雑誌は『鴛鴦文学』の次の記事と関係する。

帝国少年議会熊谷支部で、雑誌を発刊するさうであるが、文学的のものではないらしい。併し予輩は、埼玉文壇のため、健全に発達せんことを祈望するのである。
(「同人偶語」『鴛鴦文学』2号、1900年12月)

 この「文学的のものではないらしい」地方雑誌は「帝国少年議会熊谷支部」から発行されている。帝国少年議会とは、1900年1月に博報堂が発行した『帝国少年議会議事録』に集う投稿者の会である。『帝国少年議会議事録』は毎回議題を設けて、賛否の投稿を募り多数決で決着をつけるという投稿雑誌だった。論説文中心の雑誌として創刊されたが、「文庫」という文芸欄も人気であり、後には「文庫」欄が他のジャンルを圧倒するようになった。

 帝国少年議会は各地に100以上の支部があった。熊谷支部はその中でも早く五番目に発足した支部である。

  埼玉県熊谷支部(第五)
支部長 小島周一
幹事  三枝文次郎
幹事  塩田清兵衛
支部員。塩田清兵衛、根岸徳三郎、小島周一、三枝文次郎、青木桂三、矢島顕久、金子仲太郎、吉田常治、新島百介、石島亀太郎
(『帝国少年議会議事録』1巻11号、1900年9月)

 支部長の小島周一は小林の日記に渓舟・洒骨などの号で、狩野に次ぐ45回登場する親友であり、同じ埼玉二中の生徒だった。新島百介も小林の日記に凡骨などの号で散見される友人で同校の生徒である。二人とも小林と文筆を介した交友をしていた。 また、『熊谷中学校一覧』(1905年)によれば、金子仲太郎も後に熊谷中学の生徒になるが、1905年卒という学歴から見てこの頃は高等小学校の生徒であっただろう。支部員は『熊谷中学校一覧』では確認できない者が多く、『鴛鴦文学』に比べると会員に社会的な拡がりがあると考えられる。

 この翌月に『武陽文壇』創刊の記事が『帝国少年議会議事録』に掲載された。

埼玉県熊谷支部(十月二十四日ママ便)
今度当支部にて「武陽文壇」なる雑誌発行致し候間江湖議員諸君御賛成相成度尤も第一号は十一月三日発行にて遅く候間御投稿は第二号より願度御賛成の諸君は熊谷町裁判所前の小島周一方へ御通知願度用紙は議会の用紙にて宜敷別に投稿規則と申如きかた苦き事は無之候当議事録出版の頃は既に発行致し候事と存じ候へ共多分印刷致し置き候間御通知有之候へば実費にて御送附申可く年四回又は投書数の都合により或は増すも減する事無之候
(『帝国少年議会議事録』1巻14号、1900年11月)

 小林は支部員に名を連ねてはいないが、おそらく小島の誘いで原稿を書いたのであろう。『武陽文壇』は現存が確認できず実態は不明であるが、この創刊記事の翌月に、大阪の学遊会と名乗る団体が「埼玉県熊谷支部発行の「武陽文壇」の様に目的は議事録投稿非常に多き故其の掲載のもれを防ぐために開きしものにて規則は本会と同様のもの」 という記事を投稿しており、『武陽文壇』も『帝国少年議会議事録』の内容とジャンル的な差異は小さかったものと推測できる。他の地域の支部会の雑誌はいくつか残されており、その一つである『帝国少年議会東信支部議事録』の「細則」は次のようなものだった。

一項、議事室、上下院議員の討論文を記載す
二項、特別室、役員其他先輩の談話文章を掲載す
三項、文庫、議員の投稿に係る詩歌文章を網羅す
四項、立談所、議員相互の通信談話を照介す
五項、会食室、娯楽を主とし議員を始め探し画、滑稽話、考へ物等を先輩と自由に批評談話を交換する者とす
六項、庶務室、当部凡ての報告を記載す
(「帝国少年議会東信支部細則」『帝国少年議会東信支部議事録』1号、1901年8月、同11月2版)

 このジャンル構成はほぼ『帝国少年議会議事録』にならったものである。 論説文や交友の文章が中心で文学は「文庫」欄だけである。

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『帝国少年議会東信支部議事録』2号、1901.11、木戸架蔵

 『鴛鴦文学』の狩野益三も、『武陽文壇』の小島周一・新島百介もみな「骨」の字が付いた号を持っている。これは親しい文学仲間同志で戯れに「骨」の字を付けた号を使ったという『田舎教師』の内容と符合する。 文学雑誌と「文学的のものではないらしい」雑誌に、文学を語らう仲間がそれぞれ関わっている。小林が「文学的のものではないらしい」雑誌にどのようなジャンルの原稿を書いたかはわからないが、この事例は地方青年の文学活動が地域の人間関係の中でより広い範囲の文筆活動と並行・交差して行われていたことを示唆している。

 永井聖剛「「文章=世界」を生きる中学生たち――『中学世界』から『文章世界』へ――」(『愛知淑徳大学論集 メディアプロデュース学部』、1号、2011年3月、のち『自然と人生のあいだ 自然主義文学の生態学』、春風社、2022年、所収)は、『中学世界』から「厭世的な個人主義者たち」が『文章世界』に囲い込まれ、中等教育に挫折した者の受け皿にもなったことを指摘し、その大半が地方青年だったことで「『文章世界』の成功、すなわち、地方文学青年を基盤とした自然主義文学の擡頭」がなされたとする。そして、立身出世主義+国家志向が『中学世界』、立身出世主義+個人志向が『成功』、反立身出世主義+国家志向が山本瀧之助らの「地方青年」、反立身出世主義+個人志向が『文章世界』と、当時の青年を各投稿雑誌等の傾向と絡めつつ四つに類型化した。

 このうち「厭世的な個人主義者たち」を囲い込んだ『文章世界』を編集していたのが田山花袋であった。先述の花袋の文学史観は、そのような地方青年達を自然主義文学運動へと囲い込む説得のロジックでもあった。花袋の示す青年の移り変わりの史的な展望は、永井が示した残り三つの青年類型を見ないことによって成り立っている。そこには決して「ロマンチツク」ではない青年達も含まれているだろう。そしてより重要なことは、彼らもまた文章や「文学」を書いているということである。小林秀三が『鴛鴦文学』と『武陽文壇』にまたがって活動していた事実を顧みるとき、地方青年の実態はこの四つの類型の間を移動する複雑な様相があることに思い至る。この四つの類型は個人・雑誌・集団の中に混在し葛藤しているのではないだろうか。



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