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書物の転形期03 出自から形へ2

「洋本」「和本」

 洋装本の登場によって、初めて広告や目録に書型とは異なる書物の形が記載されるようになった。その新しい形が「西洋仕立」といった「西洋」を冠した言葉によって記されたことによって、それまで「日本」で流通していた書物の形もあらためて名称化される。

市岡正一編輯
○漢語挿入/新選玉篇
 日本仕立上下二冊○西洋仕立一冊○金二円五十銭(中略)
出版書林
甲府常盤町四番地    内藤伝右衛門
売弘支店
東京神田豊島町三丁目 山添栄助
(『東京日日新聞』、1877.6.1)

 『漢語挿入/新選玉篇』は和本と洋装本の二つの形態で刊行されているが、「西洋仕立」の洋装本に対して和本は「日本仕立」と記述されている。この「日本仕立」は和本二冊本のことであり、「西洋仕立」は和本と同版の楮紙袋とじ木版を背革クロス表紙丸背の洋装本一冊に仕立て直したものである。「日本仕立」は、甲府の書肆内藤伝右衛門が何度か使用しているのが目立つ程度で、用例は少ない。

図1

※『漢語挿入/新選玉篇』西洋仕立 惣郷正明旧蔵、架蔵本

 むしろよく見られるのは「洋」と「和」という組み合わせである。「西洋仕立」「西洋綴」「西洋形」が広告に多く見られるようになった1876年には、洋装本をあらわす記述として「洋本仕立」という言葉も頻繁に使われていた。

文部省御蔵版
仏蘭西邑法 大井憲太郎訳 全二冊
和蘭邑法 神田孝平訳 全二冊
右合本一冊洋本仕立定価金三十八銭
今般前書翻刻本月下旬ヨリ発売候ニ付旧ニ依リ江湖ノ諸彦続〃御注文被下度候右ハ当時蘭仏二国ニ現行セル邑政ノ全絡ヲ掲ケシ書ノ訳本ナルニ因リ之ニ就キテ聊心眼ヲ労セバ其二国ニ於ケル邑政ノ結構邑長又ハ邑会ノ職掌権限ヨリ邑政ニ管係セル細大ノ事務及ビ邑会設置ノ方法ニ至ル迄釈然理会スルヲ得可シ故ニ此書ノ彼我異同ノ情態ニ基キ以テ我地方民治ノ参酌ニ供セバ其益頗ル大ニシテ且地方民会議員ニ於テハ最モ必要ノ者タリトス請フ江湖ノ諸彦之ヲ諒シ賜ハン事ヲ
東京銀座三丁目十四番地 東洋社活版所
『東京日日新聞』、1876.5.18)

 「洋本」は「仕立」という言葉と組み合わせて使われているので、洋式製本の書物自体を指すというよりは、洋式製本の書物を一つの様式と見なした言葉と言える。「洋本仕立」とは「洋式製本の様式で仕立てられた書物」というわけである。類似の記述として「洋書仕立」(『泰西国法論』『東京日日新聞』1876.4.21)「洋本製」(『啓蒙明律』、『東京日日新聞』1876.5.16)という記述も多い。「製」は「こしらえ」という意味で、江戸期には「したて」と読ませることもあるから、この場合も「仕立」とほぼ同義と見てよいだろう。「洋製」(『百科全書/養生篇』、『東京日日新聞』1876.4.10)という記述もありこれは「西洋仕立」と同様の語構成と言える。また「洋本綴」(『改題/民事訴訟類纂 甲編』『東京日日新聞』1877.3.15)や「洋本形」(『刑法註釈』1880.11.12)も見られる。

 1876年以降洋装本が一気に増えたが、その大半は和本で出版された書物の洋装本化であった。その実態については後の章で詳しく述べたいが、広告に和本と洋装本の両バージョンを併記するものがあらわれるようになる。そこで、はじめて「和本」は「洋本」に対する一つの様式として記述される。

山崎美成校訂
銅版/増補文選字引 和本製 洋本製 定価五十銭 一冊
(中略)芝三島町山中市兵衛 本銀町二丁目 山中孝之助
『東京絵入新聞』1877.9.23)

 ここでは「和本」と「洋本」は対となる製本様式として記述されている。続いて対ではなく自立した様式名称として「和本」が使われるようになる。

刑法 {美濃大本一冊定価五十銭 半紙本一冊定価三十五銭 薄葉半紙判二冊定価四十五銭 中本一冊定価二十五銭
治罪法 {美濃大本一冊定価七十五銭 半紙本一冊定価四十五銭 薄葉半紙判一冊定価五十五銭 中本一冊定価三十銭
刑法治罪法 合巻 薄葉中本帙入定価六十五銭
右ハ総テ和本仕立ニシテ何レモ上頭及ヒ側面ニ十分ナル余白ヲ設ケ置キ他日改正追加アリシ分又ハ註釈参考等ノ諸説ヲ記入スルノ便ヲ計リシモノナリ此他大小洋紙本并註釈等各種ト既ニ出版セシニ付併セテ御購読ヲ乞フ
東京銀座四丁目 博聞本社
『東京日日新聞』1881.1.27)

 一方、「和本」が造本の名称となる例もあらわれる。次の広告では「西洋綴」の中に「和本」が混じっており、洋装本と区別される書物の形として「和本」が使われている。

福沢諭吉著
分権論 西洋綴全一冊 定価金四十銭
民間経済録 和本再版全一冊 定価金二十五銭
通貨論 西洋綴全一冊 定価金二十二銭
通俗民権論 西洋綴全一冊 定価金二十二銭
通俗国権論 西洋綴全一冊 定価金三十五銭
小幡篤次郎訳
議事必携 西洋綴全一冊 定価金二十五銭
右者両先生ノ新著中ノ趣意ハ表題ニ明ナリ江湖諸君最寄書肆ニテ御購求ヲ願フ
東京三田二丁目 慶応義塾出版社
(『郵便報知新聞』1878.11.4)

 そして「和本」が書物の様式や造本をあらわすようになると、「唐本」も専ら様式の名称として使われるようになる。 

三書用紙改良広告
資治通鑑 最上美濃判岳雪紙摺和本仕立正価十三円五十銭
佩文韻府 最上美濃判岳雪紙摺唐本仕立改定正価三十八円
漢書評林 最上美濃判岳雪紙摺和本仕立正価七円五十銭
特別御依頼ノ分通鑑漢書ハ唐本仕立韻府ハ和本仕立ニスヘシ尤其価格ハ増加セス
弊社印行三書用紙ノ義ハ是迄屡稟告セシ如ク半紙白紙美濃紙薄葉等ノ数種ニ分ト雖トモ大体半紙白紙ノ二種ニシテ其半紙タル紙幅狭隘製本ノ美ヲ欠キ白紙ハ紙質脆弱ニシテ且之ヲ海外ニ仰カサルヲ得ス然ルニ頃者嘗チ柳北先生ノ称揚セラレタル最上岳雪紙ヲ勧ムル者アリ其色雪白其質ハ滑ニシテ強シ因テ試ニ之ヲ印刷ニ付セシニ墨色潤沢アリテ頗ル鮮明且韻致アルガ故ニ看官一層ノ便益ヲ謀リ創製紙店丹波屋主人ニ嘱シテ別ニ純良ノ紙質ヲ選ヒ之レヲ美濃判ニ精製セシメ以テ三書ノ料紙ニ供スルコトニ決定セリ然ルトキハ通鑑漢書ハ其価ヲ増加セスシテ美濃判ニ改良シ佩文韻府ハ其価十円ヲ減シテ亦此紙ヲ用フベシ原来白紙ハ海外ノ輸入品ニシテ洋銀ノ昂低ニ随ヒ常ニ其原価ニ影響を生スルガ故ニ書籍ノ正価ヲ貴クスルモ将来猶其需用ニ乏ヲ告ケンコトヲ恐ル今府下近傍ノ製紙所ニ約シテ此岳雪紙ヲ購入スルトキハ復タ紙ノ為ニ苦メラルヽノ憂ナシ是実ニ国益ノ一端ニシテ愛顧諸彦ニ報スルノ微意蓋シ亦浅少ナラサルヲ信スルナリ因テ是迄加盟ノ諸公ヘ改良見本ヲ進呈スルハ勿論今後見本徴求ノ諸彦ヘハ此見本ヲ拝呈スヘシ乞フ益賛成アランコト年ヲ
但佩文韻府ノ正価十円を減スルニ由リ同志諸公送金ノ割合ヲ減スルコト左ノ如シ最初約定金三円第一回ヨリ第十四回マデ毎回前金二円四十銭ツヽ結尾一回前価金一円四十銭ヲ送付セラレテ全部ノ正価ヲ完了スル者トス第一回前金ノ義ハ約定金ト共ニ送付セラルヽモ又ハ各別ニ送付セラルヽモ御随意タルヘシ
明治十五二月 東京京橋区滝山町 報告社
『東京日日新聞』1882.4.5)

 江戸期の「唐本仕立」の登場は、大田南畝の狂詩集『寝惚先生文集』の成功がきっかけになったという。それは中国古典に忠実であろうとした古文辞学派の詩文集が採用していた仕立てを「やや細みの明朝綴じか康煕綴じの仕立て」で「適当になぞってみせ」、「漢詩のパロディとして成立した狂詩という内容をこの外型と即応させた」ものである(中野三敏『書誌学談義 江戸の板本』岩波書店、1995)。それは漢詩の出自を意識して仕立てられた書物をさらにパロディ化して仕立てられた書物である。その高度な文化的遊びは、ジャンルの出自と書物の形が不即不離となる場を前提とした上で、書物の形はそのままにあえて書物の内容を崩してみせることによって成立する。

 ところが上記の広告は、中国に出自を持つ内容の書物をこだわりなく「唐本仕立」「和本仕立」いずれにも取り替え可能なものとしている。長文の広告は書物に使用される紙についての詳細な情報であり、「特別御依頼ノ分通鑑漢書ハ唐本仕立韻府ハ和本仕立ニスヘシ」とあるように、その紙を使って書物は「唐本」「和本」いずれの製本様式にも「仕立」られうる。ここでは製本様式は本来交換可能であり、出自は様式と切り離されている。「洋本」「和本」「唐本」、そして本文用紙も含めた造本すべてが、書物の内容と恣意的な関係をとり結ぶようになっている。

「洋装」「和装」

 そのような取り替え可能な意匠としての書物をあらわす言葉として最もふさわしいのは「洋装」「和装」であろう。広告上では外形の違いが意識化された「洋装」の方が当然ながら早い。

訓解官令類聚一巻 製式洋装に傚ふ
 本年一月より七月迄合編発兌
 同八月より十二月迄来十一年一月発兌(中略)
 十二月
  右文社 編集人 青木浩蔵
       出版人 沢 愛山
売捌所 薬研堀町 報知社
取次所 通三丁目 丸屋善七
『東京日日新聞』1877.12.6)

 「製式洋装に倣ふ」とあり、ここでの「洋装」は「洋本製」の「洋本」とほぼ同義と思われるが、より外形に傾いた語であろう。そして、「和装」は少し遅れて「洋装」の対として使われ始める。

司法省御蔵版 海氏/万国公法 洋装全一冊 定価一円六十銭
同上 恵頓/万国公法 洋装全一冊 定価一円三十五銭
秋吉省吾訳述 波氏/万国公法 和装本全六冊 定価一円七十銭
万国交通ノ道日ニ月ニ隆盛ナルニ当リ公法ノ講セザル可カラザル言ヲ須タズ右三書ハ議論確実文意最モ詳明ナル翻訳書ナレバ大方ノ諸彦請フ一読アランコトヲ
発兌書肆 東京南伝馬町二丁目十三番地 有隣堂
『東京日日新聞』1883.2.10)

 すでに「和装本」という言葉になっているが、「洋装本」(『行政警察/経伺類纂』『東京日日新聞』1878.6.27)という言葉も先行して使われている。しかし、この頃は「和装」の用例はまれで、定着するのは1886年以降である。

前参議後藤象次郎公序并書 望洋居士跋并書 内外諸名士論評 米国財政社会学士東海散士著 佳人之奇遇 石版密画入 和装美本 二冊定価六十五銭 郵税十六銭(中略)発兌書林 東京日本橋区久松町十五番地 博文堂原田庄左衛門
書肆 通三丁目 丸屋善七 神保町 中西屋市邦太 南伝馬町 叢書閣 上槙町 吉田金造 雉子町 団々社 銀座二丁目山中孝之助 大伝馬町 田中和助
『東京日日新聞』1886.1.28)

 しかし、「洋装本」「和装本」がその後ただちに書物の造本や製本様式をあらわす言葉として主流となったわけではなく、1900年頃までは他の語彙と混在していた。

 前回から確認したことをまとめておこう。洋装本の登場によって、書物の出自は認識の後景に退き、代わりに書物の外形が前景化してくることになる。また、和本と大きく異なる洋装本の形によって、それまでの書型とジャンル・内容の強固な結び付きは解体され、書物の外形とジャンル・内容が恣意的に結び付けられる。書型から内容へという書物に対する認識の変化についてはすでに次のような指摘がある。

恐らく整版から活版へという変化以上に衝撃的だったのは、文学作品においては、こうした活版化そのものが、ボール紙を芯にして色摺の絵表紙を貼り付けた、いわゆるボール表紙本という書型への画一化としてなされたことではなかったろうか。(中略)大本型や半紙本型、中本型などが混在していた段階―江戸時代以来の内容にみあった型に当てはまっていた書型が、当初とはことなり、中本(四六版)に画一化していく様相をみることができる。(中略)かつては書型で本の格を示していたのが、活版化・ボール表紙本化というフィルターを経て、それまでの「地本である」とかそうではないとか、という「格」の問題が解体されてしまう。
(山本和明「近世戯作の〈近代〉」、神戸大学文芸思想史研究会編『近世と近代の通廊 十九世紀日本の文学』双文社出版、2001、『近世戯作の〈近代〉 継承と断絶の出版文化史』勉誠出版、2019所収)

 山本論の指摘によれば、江戸期にジャンルや内容の指標としてあった、書型による強固な書物の「格」が、文学作品においては「ボール表紙本」の普及による書型の画一化によって解体されたということになる。これはたしかにその通りであり、山本論はその先に江戸期の散文作品が「稗史」として一括りにされた後、それまで書型を示すことで分節化されていたジャンルが、「人情本」「滑稽本」というような内容を中心としたジャンルに再分節化されたという仮説を示している。

 書物全体を見渡すとその大きな変化は、洋装本の登場によって1870年代から法学・医学分野を中心にすでに始まっていた。この認識の変化はジャンルごとに異なっており、戯作ではその変化が最も後れた。その理由については、一連のエッセイの後半であらためて考察してみたいと思っている。

 さて、洋装本の外形が前景化してくる時期は、洋式製本が日本に移入されてくる時期である。次章では洋式製本移入の歴史的・技術的な過程を、具体的な書物の検討をふまえて考察したい。(この章終わり)

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