マガジンのカバー画像

書物の転形期:和本から洋装本へ

23
このエッセイでは日本で洋装本が登場してから定着するまでの時期、すなわち十九世紀後半から二十世紀初頭までを対象として、書物の技術と当時の新聞広告や目録の記述などとを照らし合わせつつ…
運営しているクリエイター

2021年9月の記事一覧

書物の転形期15 洋式製本の移入12:小括

パターソンの伝習以前における洋式製本の移入  従来、日本の洋式製本は印書局に招かれたパターソンの伝習によって始まるとされてきた。しかし、それ以前の洋装本の存在もしばしば指摘されてきた。本章の目的は、曖昧模糊としていたパターソン伝習以前の洋式製本移入の実態を、系統立てて記述することだった。初期の洋装本を一つ一つ掘り起こし、ためつすがめつする作業で明らかになったのは、パターソンの伝習以前に洋式製本は確実に日本に移入され、1873年にはすでに民間で国産の洋装本を製作できる職人や工房

書物の転形期14 洋式製本の移入11:一般書と民間製本

法律書の製本 維新後は矢継ぎ早に法令が出され、改正や廃止が繰り返された。官公庁がいち早く洋式製本を採用したのが、『大蔵省布達全書』のような、布達や法令をまとめた法令集だったことは示唆的である。金属活字による文字の縮小と、緒紙袋とじの半分以下の厚さになる洋紙両面刷りは、情報密度をそれまでの板本から飛躍的に向上させたが、それを書物としてまとめる洋装本の技術もまた、右肩上がりに増加する情報をコンパクトにするためには不可欠だった。  1870年、明治政府は現在の刑法に当たる「新律綱

書物の転形期13 洋式製本の移入10:一般書と民間製本

医学書の洋式製本 辞書は洋式製本を採用することで用途に応じた機能的利点があったが、明治初期のほとんどの一般書にはそのような動機がなかった。その中で比較的洋装本化が早かったのは、医学書と法律書である。  医学は旧幕時代から蘭学や洋学の中心だった。すでに述べたように、東京大学医学部の前身である大学東校は、1871年に須原屋伊八から解剖学用語の専門辞書『解体学語箋』を、「ボール表紙本」に近い簡易な平綴じ製本で刊行した。大学東校の御用を務めた須原屋伊八は、出版界の一大勢力であった須

書物の転形期12 洋式製本の移入9:辞書と民間製本

『附音挿図 英和字彙』 『東京製本組合五十年史』には次のような記述がある。 明治六年に、日就社から刊行された「附音挿図/英和辞彙」は、柴田昌吉と子安峻の共編に成る背革装の洋式四六四倍本で、俗に日就社辞典として知られていたものであるが、その当時はまだボール紙が日本に輸入されていなかつたので、表紙の芯には、張子紙(浅草紙を重ねて締めつけたもの)に、押圧をかけて使つたほどで、その革表紙は上海まで人を遣つて箔押しをさせたといつた大げさなものであつた。  それだけに、この製本を請