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【ダウン症】「その頑張りは報われる」と伝えたい
ダウン症のりーちゃんが生まれて約3年が経ちました。
生まれてから約1年間は、健常児の兄弟2人が生まれた時とは違いものすごく大変でした。
病気を抱えていたこと、何度も病院に通うこと、手術をしたこと、付き添い入院でまま不在の兄弟のケア、療育に通うこと、支援情報を探すこと、様々な手続きを行うことなど、ダウン症だったが故の経験は沢山ありましたが、これらのことがものすごく大変だと感じませんでした。大変でしたけど。
もっとも大変だったのは、妻のメンタルのケアです。
ダントツで、妻が受けたメンタルダメージのケアが大変でした。
詳しくはまた別の機会にしますが、受け入れられない、施設に預けたい、外に連れていけない、兄弟が可愛そう、仕事に復帰できない、などなど四六時中嘆き、時には仕事中にLINEで責められるなんてこともありました。
そんな状況を経て約3年が経った先日、とても嬉しいことがあったので、書き記しておこうと思います。
○帯広に向かう車の中で妻の告白
ゴールデンウィーク後半戦を帯広で過ごすため、仕事を終えた後に、札幌を出発しました。3時間弱の道のりです。
途中、占冠PAでトイレ休憩をして、その時に寝ていたりーちゃんが起きて泣いたので、妻が抱っこしてあやした。抱っこされると安心したのか再び眠りに落ちた。
りーちゃんの話題になる。
妻が、
「私がりーちゃんみたいな子を産むのは分かる気がする。ちょっと変な感じが私に似ている」
と言った。
確かに妻は天然で、ちょっと、いや、かなり抜けているところがある。
それにしても、りーちゃんが自分に似ていると発言するとは、これまでのことを考えると驚くべきことだった。
それから、
「前の自分だったら、もし検査をしてダウン症と分かったら堕ろしていたと思うけど、今となっては恐ろしいことだと思う。」
「こんなに可愛いし、「ふつう」の子とほとんど変わらないのに、殺してしまっていたということでしょ」
「施設に預けることも考えられない」
「この子はこの子と思えるようになった。前の自分だったら、上の兄弟たちもヨソの子と比べて勝った負けた、頑張れ!と教育していたかもしれない。その子をその子として見てあげられなかったかもしれない。」
と言った。
りーちゃんと一緒に3年間過ごすことによって、考え方がガラッと変わった。
「障害者」と言う響きだけで、よく分からないけど恐ろしいものという感じがしていたみたい。
りーちゃんはダウン症で発達が遅れていることは確かだ。
この先、健常児と同じようになることはないし、1人で生きていくことも難しい。
だけど、それだけだ。食べたり飲んだり、歌ったり踊ったり、ハイハイしたり、笑ったり泣いたり、まだ会話にはならないけど、色々と意思表示はするし、コミュニケーションは取れる。
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笑いに貪欲で、家族を笑かそうとしている節がある。
お店やエレベーターで知らない人に変顔したり、ハイタッチしようとしたり、愛嬌を振りまいている。
りーちゃんがいることで、その場は間違いなく笑いが起きて、温かい空間になっている。
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こんな子を、堕ろしたり、施設に預けるなんて、今となれば考えられない。妻もこの3年間で、そう思い至ったみたい。
もし、施設に預けるという決断をしていたとしても、ダウン症を見かける度に気になっていただろうし、24時間テレビも見られなかっただろう。
○妻を説得する方法を探す
妻のメンタルが落ちている時に、どう対処したらいいか色々と悩みました。
私は、施設に預けないことを前提に考えいたので、どうしたら妻の考えを前向きに変え、説得、納得してもらえるか、その手段を探していました。
岸田奈美さんのnoteの記事に出会いました。
それから、そのお母さんの岸田ひろ実さんの書籍に出会いました。
ここに、ひろ実さんがダウン症の息子さんの良太さんを育てる決心をした場面が描かれていました。
「そんなにつらいなら、育てなくもいい。施設に預けるという方法だってある。絶対にママが育てないといけないわけじゃない」
それは想像もしていなかった一言でした。
「俺は誰よりもママが大事だ。頑張っているママが生きていく自信を失くすほどつらい思いをするなら、そこまで責任を負わなくていい」
主人は私の目をまっすぐ見て、そう言いました。
子どもが好きだった主人がどんな思いでそれを口にしたのか、想像に難くありませんでした。
でも当時の私は、自分の頑張りを、良太と向き合いたいのにそれができない苦しさを、ちゃんと認めてくれる人がいることにびっくりするほど救われたのでした。
「・・・・・・ううん、私が良太を育てる」
まるでそれ以外の選択肢がないかのように、私の口から無意識に決意が飛び出しました。
前向きになるとか、立ち直るとか、とてもそこまでのポジティブな変化だったとは言えません。
強いて言えば「諦めない」という選択に近かったと思います。
こんな手があるのか、と一瞬考えましたが、妻に「施設に預けてもいい」とは言いませんでした。
妻は、「分かった。じゃあ預けよう」となると思ったし、預けたら預けたで一生後悔し続け自分を責め続け、どっちにしても良いことにはならないと思ったからです。
また、長谷部真奈見さんの記事も拝見しました。
「まだそんな気持ちでいたんだね。わかった、いいよ。家族といても幸せじゃないのなら、この家から出て行って欲しい。一人で自由に君が思う“幸せ”を追求してくれ。僕も両親もみんな今、十分幸せなんだ。それなのに、いつまで経っても幸せを感じられない君がここにいることは、僕と僕の家族にとって、何より娘にとって失礼なことなんだ。出て行って欲しい」
こんな強気になれたらいいなぁ、とあこがれを抱きながらも、これを言ったら妻は本当に出ていくだろうし、上の兄弟も寂しい思いをするし、などと考え実行に至りませんでした。
○その頑張りは報わる!
結局、なんだかんだでビシっ!!と言えないまま、のらりくらりとやり過ごす(耐える)ことにしました。
「とにかく1年は育ててみよう」
とか言いながら、誤魔化し誤魔化し、りーちゃんをいっぱい可愛がり、兄弟も寂しい思いをさせないよういっぱい可愛がり、落ち込んで布団から出られない妻を横目に家事をこなし、残業、出張をできる限りなくし、休みをとって病院や療育に連れていく、そんな3年間を過ごしてきました。
1年半を過ぎたあたりくらいから、施設に預けたいと言わなくなりました。
そして、3年を過ぎて「施設に預けることは考えられない」です。
あの時、預けなくて良かった。心折れずに踏ん張って本当に良かった。
過去の自分に言いたい
「その頑張りは、報われるから大丈夫」
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