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10/27-29:クラクフ、アウシュヴィッツ強制収容所

10/27-29、ポーランド南部のクラクフという街とアウシュヴィッツ強制収容所に学校の修学旅行的なもの(総勢約100人)で行ってきました。

まず、クラクフですが、17世紀初頭にワルシャワに遷都するまでは、首都だったところになります。

街は、ザ・ヨーロッパの都市といった感じの歴史を感じさせる建物が多く、馬車も走っていました。

ポーランドは第二次世界対戦で多くの街を焼失しましたが、それはワルシャワも例外ではなく、現在ある旧市街も戦後に作られたものです。しかし、クラクフは、戦時中にナチスの拠点になっていたことで、被害を免れ、歴史的な建物がいまだに残っています。

ポーランドの良さを感じたければ、クラクフに行け!というのが、ポーランド旅行の定石のようです。

旅行の日程ですが、27日はクラクフの街の主だった名所を観光し、28日はアウシュヴィッツ強制収容所に行ったので、街の観光はせず、夜にクラクフの街を走るトラムを貸し切りながら、パーティーをしました。29日はゲットー(ヨーロッパ諸都市内でユダヤ人が強制的に住まわされた居住地区)など、ユダヤ人にゆかりがある場所を回りました。もちろん、毎晩、皆でクラブに行ったことは言うまでもありません。

クラクフは、スティーブン・スピルバーグ監督の映画シンドラーのリストのオスカー・シンドラーが工場を建てたところで有名な場所でもあります。これまで2回ほどシンドラーのリストは見たことがありましたが、最後に見たのが大学の時で時間が経過しているので、もう一度見てから行きたかったです。仕方ないので、当日は下記のwikipediaで復習してから行きました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/シンドラーのリスト

なお、ツアーガイドの人によれば、現在でも、このオスカー・シンドラーという人の評価には物議があるそうで、シンドラーにより、ナチスのホロコーストから救われた方がいるのは事実な一方で、当初、ユダヤ人を安い労働力でかなり酷使していたことからヒーロー扱いするのはどうなのか?といった声もあるそうです。

博物館の前で、シンドラーによって助けられた関係者の写真を見ながら、説明を聞きました。

ところで、日本人だとホロコーストの虐殺からユダヤ人を救った人として、東洋のシンドラーとも言われる杉原千畝さんが有名ですね。

勤めていた外務省の命に背きながら、リトアニアの地でユダヤ人にビザを発給し他国に亡命させることで、数千人のユダヤ人を助けたそう。ユダヤ人が多いイスラエルでは、最近になって杉原千畝通りという通りができるほど今でも英雄として名が通っているそう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/杉原千畝

http://www.afpbb.com/articles/-/3089749

トラムパーティ。動くトラムの中で、お酒を飲むのはなかなか大変だったけど、トラムにはDJも乗っていて、音楽を聴きながら、各国の友人達と踊るのはとても楽しかったです。

次に、アウシュヴィッツ強制収容所ですが、クラクフの街から、道路の状況にもよりますが、車で約一時間ほどのところにあります。

ここについては、わざわざこのブログで多くを書く必要はないと思いますが、ユダヤ人やロマといった人達が先の大戦中に大虐殺された場所です。

そもそも、この旅行は有志で行く学校の修学旅行みたいなものだったのですが、普段陽気なイタリア人なんかも、この日は朝から静かな感じで、女の子の中には、展示を見ながら、今にも泣き出しそうな子もいました。

当時、あまりの辛さに、電気が流れる柵に触り、自ら死を選ぶ人も少なくなかったそうです。

ガイドによる、三時間くらいのツアーで回ったのですが、その間ほとんど誰も口をきかず、ただ展示を見ながら、ガイドの説明に耳を傾けるといった感じでした。

今まで、こんなにも人を沈黙させるところに来たことがありませんでした。

展示品も半世紀以上が経過し、なかなか保存が大変なようでした。

ガイドの方による、個人の所有物は、その個人の人生を象徴する。といった説明が、印象的でした。

当初、ナチスは、長く定住の地を持たなかったユダヤ人に対し、ユダヤ人のための安住の地を作ったとの呼び込みで、ヨーロッパ各地から強制収容所にユダヤ人を誘導したそうです。

そうしたことから、身の回りの高価なものを持ってくる人も多くいたそうですが、その多くは来て、すぐにナチスに取り上げられました。

現在、展示されているものは靴やスーツケースといったもののほか、ガス室で使われたチクロンBの空き缶、そして収容所に着くと髪を剃られ、その髪でマットを作るようにされていたそうで、残った髪が山のようにありました。

ところどころ、撮影が禁止な上、写真を撮る気力もなくなっていました。

日本が、戦時中、ドイツと同盟を組んでいたこともあり、自分としては他人事とすることはできませんでした。

ホロコーストではナチスのことがよく話題になる一方で、日本も満州で石井731部隊が人体実験がやっていたことはあまり知られていません。戦後も関係者は、重要な実験データと引き換えに、様々な便宜を図ってもらっていたという話もあります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/731部隊

アウシュヴィッツ第一強制収容所

入り口の「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」

アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウ

大学で政治経済学部だったこともあり、彼女の難解だけど、非常に鋭い思想に触れたく、ハンナ・アーレントは読んだことがあった。

哲学者で思想家でもある、ユダヤ人のハンナ・アーレントは、アドルフ・アイヒマン(1939年に国家保安本部第4局(ゲシュタポ)のユダヤ人問題課長に任命され、ヨーロッパ各地からの数百万人のユダヤ人輸送の責任者)の裁判を傍聴し、ホロコースト、そして起こったこの悪について、次のようなことを言っている。

裁判を通してアイヒマンは、ほとんど表情を動かすことはなかった。その姿は、どこにでもいそうな平凡で小心な男にしか見えない。

アイヒマンは、血も涙もない「怪物」ではなく、家族を大切にするごく普通の小心者で取るに足らない役人に過ぎない。

これを悪の陳腐さ凡庸さ、とアーレントは表現した。

そして、人類史上に残る大量虐殺という巨大な罪を犯した人間が、凡庸などこにでもいる人間だったということが、むしろ恐ろしいことだと問いを投げ掛けた。

それは、誰もがアイヒマンと同じ状況になれば同じように命令に従い、同じことをする可能性があるということを意味するから。

下の写真は収容所へ行く線路。

当時、ここにいて、収容されている人々を見ていたら、どう思っていたのだろう。

上からの命令だから?仕事だから?殺すだけ、、

人間には、自由意志なんてないんじゃないかと思わせる。

ナチスの後も、ポル・ポト政権による大虐殺がカンボジアで起こったりしているわけで、、

少なくとも、悲劇を繰り返さないために今後も歴史を学びたいものです。

興味がある方は是非→『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』

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