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「一人の人間として見る」ってどういうこと?
最近ふと考えました。
ある特定の人を
「一人の人間として見る」
ってどういうことなんだろう、と。
私には今年7歳になる息子がいます。
自分よりカラダの小さなその人は、
自分の子どもであると同時に
男の子もやっていて、
お兄さんでもあり、
スキなものや
キライなものも
それなりにあり、
世の中に対する
好奇心や疑問なども持ちながら、
小学生もついでにやっている。
そんな、一人の人間です。
そう考えると、その人のパーソナリティや心理というものを「小学生の〜」や「子どもの〜」いう抽象的な言葉によってあいまいにすることは決してできないなと、そんなことを感じたりします。
いうなれば完全な「個」を持つ人間、「個人」だということです。
以前アメリカの異文化コミュニケーション研究学者ミルトン・ベネット氏が提唱する「異文化感受性モデル」を題材にした以下のような投稿をしました。
ここで述べたのは、冒頭のような親と子どもという「異世代」という関係に限らず「異性」や「異文化」も含め、コミュニケーションを行う上での大事な最初のステップは「違いの存在を前提にすること」でした。
それぞれが育った環境や経験も違う「個人」であるということ。
そう考えれば、気が合う人や合わない人が沢山でてくるなんてこともなんか当たり前のように思えます。
ものすごくシンプル。
それでいて、少し自らの意思がいるような。
他人の「個」を見る上で、まず自分の「個」を持たないといけないみたいな。
やばい。
全然まとまらない。
でも今回はそれでいいや。
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