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「そんなときは、お風呂」

自分を労いたいときは、迷わずリゾートホテルの温泉に行く。
ビジターで2300円という価格設定は、温泉文化が根付いている場所から比べれば、「高っ!」となるけど、ここは沖縄、背に腹はかえられぬ。それにシーズンを避ければほとんど貸切状態なので、そんなときは泳ぐなり、浮かぶなり、寝るなり、心置きなく禊げる。(みそげる、ってなんか変)

行くときは娘ふたりもいっしょに。しっかり2時間は入るので、単行本は必須だ。わたしが風呂のベンチで本を読んでいるあいだ、娘たちは水風呂でカッパごっこをしている。

サウナ、水風呂、湯風呂。このルーティンを延々と繰り返す。もちろん本は湿気るが、お構いなしである。
読むのに時間がかかった「琉球弧の視点から」(島尾俊雄著)は、だいぶん波打ってしまった。

ここのお湯は、海底を何キロも掘って、地層でいえばジュラ紀、白亜紀くらいまで掘ったところの海洋深層水を沸かして温泉にしているので、無論、塩っぱい。

明るいうちから行って、眼下に広がる大海原をぼんやり眺めながら、半露天の海水風呂に浸かっていると、やがて夕焼けの時刻。
真向かいに見える伊江島のタッチュー(山)が背後からくっきり夕日に照らされて、空はピンクから紫へ。シーズンになると、運が良ければ鯨も見える!


さて、わたしは水風呂が大好きである。どんなに極寒の地でも、温泉には水風呂がないとまるでつまみのないビールである。おすぎのいないピーコである。風呂だけではのぼせてしまって、入りたい時間の半分も入れない。

しっかりと芯まで身体を温めて、「よし」と、水風呂へ。そおっと波立たせないよう滑り込むように入る。入った瞬間は「ひえー(冷えー)」となるけど、しばらくすると、皮膜にほんのり温かさが滲んでくる。そこまでいけたらもう至福。ただし動くと寒いから微動だにせず。
水風呂に入っているときは流氷の心境だ。この風呂のなかで唯一の固体として、無になる。しーん。
そんな境地だというのに、末っ子8歳の娘はアザラシよろしくキャッキャ言いながらわたしにしがみついたりよじ登ったりしてくる。流氷もそれなりにたいへんです。

大昔、たぶん夢ではないと思うけど、「旅館が全焼して、温泉の浴槽だけが残った」という名もなき温泉に行ったことがある。イメージとしてはだだっ広い野っ原に温泉だけがこんこんと湧き出ている、みたいな感じで、火事になってからだいぶ経っているようだった。
もちろん誰も管理しておらず、電気もないので頼りは月明かり。脱衣所もよしずを立てかけただけの簡易的なものだった。
友だちがここの噂を聞きつけ、わたしが実家に帰省した際に「行こう!」となった。友だちと、友だちの彼氏とわたし、だったと思う。

当時、実家は黒磯にあった。3歳から18歳まで育ったこの街は、那須温泉への玄関口だけあって、なにかと地元民もそれぞれ贔屓にしている温泉があるのだ。なのでいろいろ行ったけど、あの野良温泉(と呼ばせてもらう)には、後にも先にもこのときしか行っていない。
わたしたちの他にも数人居たような?。当たり前だけど混浴だったから、年頃だったわたしはリラックスどころか、さながら猿になったような気分だった。
でも、星がものすごくきれいだった。それだけはよく覚えている。

はて、今でもあるのだろうか。




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