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「2019年 インドとタイ忘備録」

(時系列がバラバラですが、気にしないでくださいね!)

その巨大なシーフードレストランは、海の幸を食べるのにうってつけの立地だった。

海側の席は、波の上にせり立つように配置されており、そこに柵というものはない。仮に落ちてもそれほど深くはないと思うけれど、酔っ払って落ちた客はきっと10人はいると確信する。

日本なら、「安全面」や「衛生面」などの理由で100%営業許可は降りないだろう。でもここはタイ。底なしの明るさ、「本気で楽しませよう」という気概が半端ではない国。マイペンライなのだ。

その海側の席は、「もちろん」他の席よりもうんと人気がある。ずらっと一列に並んだ席のほとんどには、「RESERVED」のタグが置いてある。わたしたちは予約はしなかったけれど、たまたま空いていたその席に通された。

夫は「おお、海っぺりギリギリ」と声を弾ませた。

長女は「無理!」と言う。

みんな下を見て、おのおの肝がちょっと縮んだようだ。

結局、海側の椅子にわたしと夫が座る。4歳児が果敢に「ここ(海側の椅子)がいい!」と陣どろうとしたけれど、それはわたしのほうが「無理!」な話。

席が決定したら、写真付きの分厚いメニューを10分ほどかけて吟味した。

わたしたちのオーダーは、

トートマンクン(海老のミンチのフライ)

水オジギソウのチリオイル炒め

有頭海老のカレー炒め

浅蜊のバター炒め

蟹のソムタム

ムール貝のハーブ蒸し

トートマンクンは長女の大好物なので即決。粗めに叩いた海老の身にうっすら玉ねぎが入っている。丸めたそれにパン粉をはたいて揚げたもの。スイートチリソースをつけて食べる。ちょっとバターが入っている?なんだか洋風の香りがした。

水オジギソウは、日本では見かけない野菜。食感はオカヒジキ。しゃきしゃきしてとても美味しい。真っ赤で新鮮なピカピカの唐辛子がたくさん入っていて息をのむほどきれい。

有頭海老のカレー炒めは、カレーといってもムスリム的カレーのフレーバーだった。コリアンダーと八角、ターメリックがほんのり効いている。にんにく、生姜。甘辛味にごはんがどんどんすすむ。

浅蜊は4歳児の好物。タイの浅蜊は平べったくて模様も薄茶色。皮をむいたにんにくがごろごろ入っていた。バターの味が、沖縄の定食屋の定番「魚のバター焼き」のバターみたい。もしかして、同じメーカーのバター?

蟹のソムタムは、ナンプラー漬けにした生の渡り蟹がごろっと入っているとても贅沢な味。しかしながら、ひゃー辛い。(家で、4歳児のことを考慮して、辛味を抑えたソムタムを作ったら、息子が『これは、ソムタムとは呼べないよねー』と、真顔で言った。ソムタム=辛い、は鉄則なのだ)

ムール貝のハーブ蒸しは、たっぷりのバイマックルー、タクライ(レモングラス)、がうっとりするぐらいいい香り。貝の身もぷっくりしていてふくよか。こういうのが食べたかった。ライムをぎゅーっと絞って食べる。

みるみる積み重なっていく、海老の殻、蟹の殻、浅蜊やムール貝の殻。手づかみでわしゃわしゃ食べる。
わたしはこういうものが昔から大好きである。骨付き肉もそうだけど、せつないくらい、「食べている」というリアルティを感じる。

家族はタイ米ごはん、わたしは氷入りチャーンビール。そういえば、インドでは一度もビールを飲まなかった。いや、むしろ飲みたい気分にはならなかったし、そもそもメニューに載っていないのだ。(観光客向けのお店には置いてある場合が多い)

海風にあたりながら早めの晩ごはん。まもなくこの旅も終わるかと思うと、視線は海のずーっと向こうに。でも、愛犬にも会いたいし、両親も待っている。

目の前の新しい風景を眺めながら、馴染みのある風景を思い出す。

そういえば、旅の前半はたとえ欲しい物があってもなかなか触手が伸びなかった。(干し海老以外)この先の旅程を思うと、今から荷物が増えるのは困るし、何より、まだ始まったばかりのこの旅で、「この物を持って帰る家のこと」を考える余地がなかった。だからたとえ、素敵な物に出合っても、「それはそれ」というような距離感があった。

でも、旅も終盤に差し掛かると、家のなかに物たちを迎え入れるこころの準備というものが整ってきたのか、物が、「通り過ぎる風景のひとつ」ではなく、「わたしたちの居場所にある風景のひとつ」として、少しずつ想像できるようになった。

ただ、昔はそんなふうに思ったりせずに、どんどん物を家に迎え入れていたように思う。まるで、何の疑いもなく、一生その場所に居ることを約束されたように。

今は少し違う。こうして店を構えて、生活の基盤を固めつつも、こころのなかでは正直、「先にはなにがあるかわからないな」とも思っている。それは悲観ではなく、当たり前のこととして。それでもなお、地固めを今後も続けていくだろうし、家がいちばんだと思っているのだ。





「虎」


長女の虎への偏愛ぶりに一目置いている。

彼女のいちばんのお気に入りの虎のTシャツは、今や着過ぎて生地がほとんど透けてしまった。「溶けている」とも形容しうるそれを、これからもなお着倒すことで、今後この虎Tがいったいどんな経年変化を遂げるのか非常に愉しみである。

2年前の夏休みだったか、彼女の通っている名護の絵画教室で、「将来の夢」というお題目で自由に絵を描く課題が出た。そのとき彼女が描いたのは、「虎に寝そべるわたし」だった。正確には、「はじめは自分と虎だけを描いたけれど、書き終えたときに虎ひとりじゃかわいそうと思って、後から周りに熊や馬、うさぎや鳥、虫などを描き足した」という絵だった。

わが子ながらその絵はまるで、ユートピアを彷彿とさせるものだったから、「素敵だねぇ」と、出来上がった絵を褒め称えつつも、内心は「『将来の夢』としてこれを描くって・・・」と、若干ざわついたのも確かであった。

フツーは(と、敢えて言う)10歳女子の夢といえば、「ケーキ屋さん」とか「アイドル」とか「モデル」とか「お花屋さん」あたりの職業ではなかろうか。(昭和的発想だなー)

「フツーであれ」とも「夢はかならずしも職業を指すもの」だとも言わないにせよ、わたしにはない部分が長女にはあるな、と気づいた出来事だった。

とはいっても、目の中に入れても痛くないかわいい娘である。「じゃあ、虎に会いに行こう!」と、いの一番に言ったのは、何を隠そうこのわたしだし。

それから2年という月日を経て、ようやく叶った長女の夢。

虎と戯れることが売りの、タイ、「シラチャータイガーZOO」へ、先日行って来た。

と、その前に、シラチャーに辿り着く前のインドでは、「ほんとうに長女は動物が好きなのだ」という事実をこれでもかというほど見せつけられることに。

あのチェンナイの喧騒のなか、廃墟のなかに立っている1本の大きな木を見上げて長女は言った。「お母さん見て!カラスの巣!」と。以来、長女は上ばかりを気にして、「リス!」だの「トカゲ!」だの、動体視力を駆使して「生き物」を見つけまくった。そしてインドだから牛もあちこちにいる。「インドの牛、かわいいなぁ。触ってもいいのかなー」と、そおっと寄っていったらたちまちツノで威嚇された。野良犬にも「おいでおいで」してはコミュニケーションを図ろうとするし、「そういえば猫がいない」と、とつぜん露地に入って猫探しを始める。ドブネスミにも興味津々だし、駅に野猿がいたときは嬉しくて嬌声を上げていた。ミーナクシーテンプルで、めっぽうハンサムのサドゥーが目の前に居た時でさえ、「え?そうだったの?象と牛しか見てなかった。」と。

長女はインド滞在時、いちにちのしめくくりに絵日記を描いていた。そこには「きょう見た動物」というタイトルで、その日に出会った生き物たちが律儀に描かれていた。

そんな長女の姿を見て、なんだか無性に申し訳なくなって、胸がちくっとした。どうせなら、もっと動物がわんさかいる国立公園とかに連れていってあげればよかったな。

動物(及び森)を知らず知らずのうちに、たとえ都会であっても追い求める彼女はまるで彷徨い人のようだった。

それもそのはず。長女はもう何年ものあいだ牧場に通い、いちにちのほとんどを野外で過ごしているような暮らしを続けているのだ。

でもしかしながら、正直こんなにも牧場の影響が出るなんて驚きしかない。

だからこそ、虎だ。虎にこの旅に於いての彼女の心を埋めてもらわなければ。

タイガーZOOに入園したとき、長女はやけにそわそわして、はやる気持ちを抑えきれないまま「虎はどこ?虎は?」と、ひとりごとを言いながら完全に挙動不審に。

「あ!居た!」と、長女が全力で向かっていった先には、アクリル板の仕切りの檻のなかに、大きな虎となぜか3匹の子豚が、「我関せず」といった風で双方、昼寝にしけこんでいた。「虎」と「豚」といったら食うものと食われるものというのっぴきならぬ関係性であろうに、お腹いっぱいなのかそんな緊迫した雰囲気は微塵も感じられない。

(この一見すると童話的な風景から、何を読み取ればいいのかわからない)

それからは畳み掛けるように、虎、虎、虎と、ベンガル虎が各サイズ揃っていた。

そんな虎満載のなか、白いワンピースの胸元にたくさんのサソリ(2、30匹はいるだろうか)をくっつけた女の人が微笑をうかべながらポツリと縁台に座っていた。歳は30前後。きっとここで来場者に期待されていることは、彼女といっしょに写真を撮ったりすることだと思うけれど、とてもそんな勇気はなかった。

その奇妙な姿にうちの4歳児は、幼児の特権である凝視の限りを尽くして、あげく「さそりおんな」と呟いた。

チェンナイもカオスだったけれど、ここもそうとうなカオスのようだ。

人間に興味の薄い長女は、さそりおんなを見たのか見なかったのか。

「子虎と11分から15分遊べて、ひとり700バーツ」という看板を前にしてもなお、しばらくさそりおんなのことを考えてしまった。

あのさそりおんなは何がきっかけでさそりをくっつけるようになったのか、ああして日がな佇んで何を思っているのか、家族はいるのか、刺されたことはないのか、サソリに対する想いは愛からなのかそれとも仕事と割り切っているのか、「女因さそり」は観たことがあるのか。

それからやっぱり気になる、蠍座なのか、と。

                        



「インドからタイへ」

今帰仁での日常にすっぽりと、まるで何事もなかったかのように「いつも通り」。入院してたっけ?インドに行ったっけ?

だからだろうか、するすると、まるで流しそうめんのように忘れてしまう。

それがなんとも寂しくもあり、ここにこうして書き留めている次第です。

インドのチェンナイからバンコクに到着したのは朝の4時20分。たった4時間あまりのフライトだと、機内で寝たのか寝なかったのか体感しづらい。むしろ、4歳児の睡眠をなんとか確保したくて、お腹をポンポン叩いたり、頭をそっと撫でたり、そっちのリラックスケアに気はまわる。てかその方が、安全平和の旅の担保となる。ちびっこが元気だと、あとはなんとかなるもんだ。

わたしの火傷はというと、旅中はぜんぜん疼かなかった。うっかりプールとか海とかにも入ることなく、日焼けにも目を配ったせいか、体調はほんとに穏やかなものだった。

朝のドンムアン空港は、早朝にも関わらず、わやわやとたくさんの人が行き来している。閑散としているよりは、なんだか少し安心したのは白タクを拾うから。でも、メータータクシーのカウンターがあったので、それに乗ることに。

わたしたちの行き先をカウンターのお姉さんに告げる。お姉さんは後ろで順番に待機しているドライバーを呼びつけ、行き先を書いた紙を投げるように渡した。ドライバーはそれをちらっと見てから、もう一度、すなわち二度見した。

「パッタヤー!」

「まさかよー、この時間からパタヤーかよー」といった風である。

「オーマイガップ!」(コップンカップとオーマイガーを合わせた造語)とでも言わんばかり。

わたしたちも初めて行くもんだからその距離感がいまいちわからないけど、聞いたら「2時間」ということだった。

ドライバーはテンションをあげるために、氷入りのアイスコーヒーをずずっと一気に飲み干した。

おお、氷だ氷だ。

インドで氷に飢えていたわたしは、ちょっと感動。ここは紛れもなくタイなのだ。

このトヨタプリウスがパタヤーまで連れて行ってくれる。

高速道路から眺める早朝のバンコクは、これから始まる喧騒が嘘みたいに静かだった。

とにかく飛ばすこのドライバー。150キロは当たり前。この速度で2時間ってどんだけ遠いのだろう。それに、メーターがぐんぐん上がっていくのが見るに耐えられなくて、なかなか心臓に悪い。でも、白タクで1500バーツくらいだそうだから、それよりは安いだろう。と、思ってちょっと目をつむる。

潤ちゃんは、助手席でぽつりぽつりと話しをしているけど、ドライバーは英語が苦手らしいから、いまいち話が噛み合っていない。でも、このまま潤ちゃんも寝入ってしまったら。

このぶっ飛ばしドライバーをひとりにして大丈夫なのだろうか。まさか居眠りなんてしやしないか。多分、そんな心配を潤ちゃんはしているのだろう。

で、起きたら、「パッタヤー」だった。

メーターはまさかの2500バーツで驚愕。なぜにメータータクシーの方が高いのか。まさかメーターに細工が?と、いう訳ではないらしい。完全にリサーチ違いだった。白タク=高い、とは言えないのだな。何事も経験。

街中で、目指すコンドミニアムを探す前に、ドライバーの慈悲の心からか、「2600バーツで止めるから」と言ってくれた。あとは、ぐるぐると、星の数ほどある宿のなかから、わたしたちの予約した1室をくまなく探す作業。何人かの人に聞いて、ようやく到着。

「マネー、マネー!」と自分を奮い立たせるかのような素振りで乗車料金を請求し、それを確実に受け取ると、あとは風のように立ち去ってしまった。これから彼はバンコクに戻るのだ。帰りは時速200キロは出すかもね。

リゾート高層マンションの10階にあるこの1室。ホテルではないのでフロントはない。管理している女性とロビーで待ち合わせをして、部屋まで案内された。

エレベーターは高速で、あっという間に10階に到着。

「さすが36階まであるだけあるなー」と、長男がやたらとその速度に感心する。

海一望の、大きなソファーがある部屋。清潔なベッドと大判のタオルとガラス張りのシャワールーム。

最後の最後にたどり着いたのは、まさに「リゾート」だった。

「りく、ここ好き」

都会、アーバン好きな長男は気に入ったらしい。長女と次女もふっかふかのスプリングのソファーにボヨンと横たわって、このまま眠ってしまう勢い。そう、まだ朝の7時前なのだ。

わたしと長男はベッドに、長女と次女はソファーに、潤ちゃんはテラスのデッキチェアに、それぞれ気に入った場所で仮眠を享受した。

寝て起きたら街にお昼ご飯を食べに行こう。

そう思ったら、居ても立ってもいられなくなって、ガバッといちばんに起きたのはわたし。だって、ここはタイなのだ。クイッティオを食べに繰り出さなきゃ。カオマンガイもいいな。

なんせ、パタヤー滞在日数は刹那、37時間しかない。

「起きて起きて起きてよー」と、アナ雪のアナばりに、みんなを叩き起こした。欲のない人たちは、「もうちょっと寝させて」と言うけど、睡眠欲ってのものもあったな。

それでも2、30分の猶予を与えて、ようやく起床していただく。

近所を当てもなく歩いていたら、感じのいいクイッティオ屋が。店のおばさんが、わたしの大好きな今帰仁の魚屋さんの奧さんに似ていたもんだから、「きっと、ここは美味しいに違いない!」と感じたのだ。

聞いたらバミーもあるという。プラスティックの椅子に腰をおろし、それぞれの麺を頼んだ。やってきたのは、甘めでふんわりと八角が効いた茶色いスープ。そこにごろんと骨つきの鶏肉がのっている。米の麺はやわらかで、寝起きに沁み入るやさしい味だった。バミーも同じスープだった。4歳児はカオパット(チャーハン)をかき込む。お腹が空いていたんだね。

スイカジュース、ココナッツジュースも頼む。当然ながら、冷たい。

食べた後は、ソンテウ(乗合タクシー)に乗って、適当に降りて散歩。パタヤーの海に挨拶をしてから、ショッピングモールを冷やかしに。ショッピングモールのたのしさは、フードコートにある。南北に細長いタイのご当地メニューを網羅しているコートもあるけれど、ここはどうだろう。

チェンマイ名物のカオソーイとソムタムプー(蟹のソムタム)を食べた。ポーションがちいさいからお腹いっぱいにならないのがいい。

さて、腹ごしらえの後は遊びに行くとするか。

今回の旅のラストにふさわしい、いちばんの目的地へ。



「インドの話し」

カライクディからマドゥライまで車で2時間の移動を、あのリクシャーのおじさんに頼む。おじさんはリクシャーのドライバーであるけれど、必要によっては車も手配できるのだ。コストは2500ルピー、4250円。

今回の旅は、移動のそのほとんどを「車チャーター」という方法にした。なんせ5人だし、ドアtoドアでダイレクトにホテルまで行けるし。

近い距離はリクシャー、長い距離は車(ときに電車)と使い分けて、だいたいの相場も4、5日滞在していれば何となく見えてくる。ただわたしたちは観光客なので、地元の人よりもずっと高い金額を払うこともままある。でも、提示された金額に納得すれば交渉成立だし、それが嫌ならもうちょっと交渉を粘るか他の車を頼む。交渉の一切が面倒だったら公共のバスや電車を利用すればいい。

マドゥライにはインドの寺院のなかでも屈指の、「ミーナクシーテンプル」がある。ここはヒンズー教徒のインド人なら(でなくとも)一度は参拝したいと願う拝所。なんと、いちにちの参拝者の数は15000人とか。

マドゥライ は「テンプルシティ」として、日々たくさんの観光客、巡礼者を受け入れている大きな街。したがって、リクシャーの数も他に比べて桁外れに多い。

マドゥライでは、とにかくリクシャーを頻繁に利用した。運賃はドライバーによってだいぶん差があり、同じような距離でも、70ルピーで行く人もいるし、その倍以上の200ルピーを請求する人もいる。ドライバーの金銭感覚によって大きく異なる。どっちがいいとかそういうことじゃなくて、(それは安い方が助かるけど)その人の哲学に触れる瞬間だ。

蟻とキリギリス、金の斧銀の斧。

「正直さ」というものは、このご時世いったいどれだけ実生活に反映されるのだろう。

「70ルピー」と言ったドライバーの背中を眺めながら、この人の生き方を想った。わたしたちの行き先が、川向こうの「ガンジー記念館」だったから、なおさらそんなことを考えてしまったのかも知れない。

さて、「ミーナクシーテンプル」。

入るまでのセキュリティがめっぽう厳しい。バッグやカメラ、携帯電話類の持ち込み禁止、半ズボン(ドーティを巻けばOK)や靴もダメ。ようするに、「身ひとつでおいで」ってこと。

持ち物の一切を入り口で預け、念入りなボディチェックを受け、ようやく院内に入ることが叶った。

広大な石造りの、緻密な彫刻がびっしりと施された荘厳な空間。たくさんの参拝客がいながらも、それを圧するほどの静粛さ。秘められた、強くて重い吸引力を感じながら、広大な寺院のなかを彷徨った。(彷徨う、という表現がぴったりなのだ)

途中、ぱかーんと開けた明るい場所に出た。真ん中に池のようなものがあって、ここに水がざーざーと注ぎ込まれている。水は茶色だったけれど、嫌な匂いはまったくなかった。この水際でくつろいでいるインド人たちはとても和やかで、神様の懐に居る心地よさを満喫しているようだった。つくづく、インドという国の秩序は、神様で保たれているんだなぁ。

しばらくほとりで過ごし、また再び内部に戻る。

はぐれないように慎重に歩いていたら、影のなかに一縷の光が見えた。みんなで、「あの光の方へ行ってみよう」と向かう。光は、小さな採光窓から漏れていて、別段、何かの像を照らしているわけではなかった。

そのとき長女が、「おかーさん、ここ、前にも来たことあるよね」と確かめるようにわたしに聞いた。

「いや、ないよ。初めてだよ」と答えながら、「前世」という2文字が浮かんだ。長女は、「いちにち中、ここに居たいなー」と切なそうに言った。

突然、悠久の時を打ち破るように、(まるで凪の海に飛び込んだ大きな魚のように)ドラが鳴った。人は、音のする方へどんどん流されていく。わたしたちもその波に押されながら、音の主を人々の隙間から探すと、そこには装飾された巨大な象と白い牛、そしてお神輿と楽隊が居た。

笛が歓喜を、太鼓が鼓動を促進する。

セレモニーか何かなのだろうか、どうにかして縁起物のお神輿に触れようと手を伸ばしたおばさんを、僧侶が叱責した。

そのとき、異彩を放った一派が目についた。

紛れもなく、サドゥーだ。

ドレッドの髪は頭のてっぺんで蛇のようにとぐろを巻き、眼力鋭く、黒光りした上半身は裸、腰にはくたびれた布を巻いていた。驚いたことに、ブロンドの髪をなびかせたアングロサクソンの若い男子もいる。それも数名。

映画「ダージリン急行」では、お母さん(英国人)がインドのアシュラムに入信してしまったけれど、ここでは息子なのだった。

彼らのお母さんは、いったいどんな気持ちでいるのだろうか。息子が異国で改宗して、想像もつかない人生を歩むことになるなんて。

ほんとに人生って多様だなぁ!」と、開き直るような気分になった。人の数だけ生き方があり、それは想像をかんたんに超える。

ひとたび路上に出れば、そこには靴を直す人、ジャスミンの蕾に糸を通す人、野菜を並べる人、孔雀の羽を売る人、ココナッツの実を割る人、チャーイを注ぐ人。

自分など、そのあまたあるなかのひとつにしか過ぎやしない。

紛れもなく。

そのことがわかっていれば、たとえ迷いが生じたとして、大枠、大丈夫なんじゃないかなー、って感じた。



「インドの話し、続きのつづき」

 カライクディのリクシャーのおじさんに、「ここのmess(庶民的なレストラン)に行きたい」と潤ちゃんがスマホの画面を見せながら伝えたら、「うーん」と浮かない顔した。そのやりとりを見ていたホテルのお兄さんが、「まぁ、この人たちが行きたいっていうんだから、連れていってあげたら」みたいなことを言ってくれたようだけど(タミル語で)、リクシャーのおじさんは納得いかないようだった。おじさんは、「ここよりもっとおいしいmessがあるからそこに行こう」と言う。こういうとき、もしや連れて行くmessからバックマージンとかもらってるんじゃないの?とうっすら疑ってみるが、ホテルのお兄さんも、「そこはほんとに美味しい」と真顔でうなずいている。

だったらぜひとも!

おじさんの提案にわたしたちがのったのがよほど嬉しかったのか、急に動きが機敏になって、「早くリクシャーにのれのれ」と促した。

サイドブレーキをカクンと下ろし、軽快に走り出す。大きい道ではポンプ式のクラクションをブォンブォン鳴らしまくり、小道に入ると器用に小回りを効かせる。まるで、おじさんの身体の一部のようなリクシャーの動き。

15分くらい走っただろうか、「ここは絶対に連れてきてもらわなきゃわからない」という場所に、ピッと止まった。

「このmessだ」

と、胸を張るおじさん。

しかしながら到着したそこは、まだ準備中で店内は薄暗かった。店の主が「12時からだ」と言う。ということは、開店までまだ1時間もあるではないか。そこでおじさんは気を利かせてくれて、messの目の前のパレスを見せてもらえるよう、勝手にそこの門番と交渉をはじめた。というのはこのカライクディ という街は、かつて諸各国との交易で莫大な財をなした氏族がたくさん住んでいて、彼らは世界中から選りすぐりの材料を輸入し、それはそれは豪華な家(というか、本気でパレス)を建てた。チーク材はミャンマーから、ガラスはヨーロッパから、陶器のタイルは日本から、というように。そんなパレスがこの街のあちこちに今でも点在しており、なかにはホテルとして運営しているところもあれば、すっかり朽ちて廃墟と化しているものもある。

そして、当時の影響で、カライクディ という街は「チェッティナドゥ・キュイジーヌ」という複雑な味わいが特徴の、独自の食文化を発展させた。今日は、その美味しさをたっぷり堪能しよう!というわけだ。

「このmessはカライクディ 、ナンバルワン!」

おじさんは自慢げにそう言って、おじさんの電話番号をメモしたカードをヒョイっと渡すと、愛車に乗って颯爽と小径に消えてしまった。

どうやらこのパレスの中には鍵がなく入れないらしく、外側のぐるりだけを見学することに。風化したペンキの色合いも、凝ったデザインの窓枠も、とても心惹かれる感じ。とくにバルコニーは広々としていて気持ちがよく、ここで紅茶なんて飲みながら読書でもしたいもんだと思った。

それでもまだ時間があったので、当てもなく近所を散策。

そして、12時10分頃messに戻ったら、なんと店内ごった返しの超満員だった。わたしたちがあたふたしていると、奥の方で店主が「こっち、こっち」と手を招いている。案内された場所はACルームで、(エアコンルームで食べると10~20ルピーくらい値段が違う)まだここには誰もおらず、「活気のあるACなしの方がいいのになぁ」と思いながらも、その好意を素直に受けた。しかしあっという間にACルームも満席に。

頭にシャワーキャップみたいなビニル帽をかぶったジェニファー・ロペス似のお姉さんが、バナナリーフをわたしたちの前に無造作にセットした。それを各自、水で軽く拭き洗う。そのことを確認したお姉さんは、的確な動きでチャッチャッとおかずをのせていく。茄子をターメリックで煮たもの、じゃがいもをトマトで炒めたもの、ライムのピックル、ごはん。

続いて、大きな長方形のトレイに載った、いろいろな種類のカレーから好きなのを選べ、という。

わたしは蟹のカレー、潤ちゃんはマトン。長女は芝海老、長男は骨つきチキン、4歳児は細切れチキン。

憧れのナンドゥマサラ。半分に割れた蟹の身がごろんと入っている。ひとくち・・・コクが迫ってくるような旨味。

他のカレーはどうだろう。ひと通り全部のカレーを味見してみたが、どれも相当にからい!したがって4歳児は、自動的にせっせと米だけを、「おこめ、だーいすき」と言いながら黙々と食べている。「食べるものがない」と文句も言わず、あるもので自己完結してくれるから助かる。米がないときはドーサ、もしくはバナナなど、みんながミールスのように一度にたくさんの種類を食べているにも関わらず、(辛かったら)その一切を要望せず、あっさりと引き下がる。

上のふたりに関しては、積極的に食べたことがないものでもトライ。右の指がカレーの匂いになったことをさも誇らしげに、「今日もカレー」を全うしていく姿はまるでファイター。

こんなふうに、食べる愉しみを共有できるってとても嬉しいこと。小さい頃からいろいろ変なものを食べさせてきた甲斐あった。

それにしても、旨っ!そして、辛っ!の連続。

長女はとうとう、からくて泣き出した。でも、「おいしい、すごくおいしいから、からくても食べちゃう・・・」と食べては泣き、また食べては泣きの繰り返し。周りのインド人たちは、そんな長女の姿を見て微笑んでいたけど、インド人の子どもは誰もが通る道なのだろうか。(タイ人もだけど)

それぞれのカレーの味わいは、これまで食べたものよりぐっと深い。八角やミントが隠し味のものもあるし、青唐辛子がたっぷり入っているものもある。

種類は他にも、魚やうさぎ、うずら、はたまた羊のブレインもあった。全部食べてみたかったけど、それは次回のおたのしみに。

料金は全部で約1000ルピー、1700円。messにしてはなかなかの高級店である。

もれなく全員汗だくで店を出たら、そこにはまだわんさか人が待っていた。

リクシャーのおじさんに迎えの電話をかけると、予想に反してすぐに来てくれて、「どうだった?」と感想を求められた。

「ナンバルワン!」と潤ちゃん。

地元の人が推する店は間違いない。こういう出合いは大歓迎だ。

カライクディには、他にもおいしいレストランがある。世界にその名を轟かす有名店「The bangala」は、カライクディのレストランの代表格だろう。

今回のカライクディは、ここ目当てで行ったけれど、きっと他にも隠れた名店がたくさんあるのだろうな。



「インドの話、続き」

 マハーバリプラムからポンディシェリーまで、車をいちにちチャーターして出掛けた。そのコスト3000ルピー、日本円にして5100円。このルートを訪れるのは2度目。覚えている風景と忘れている風景。

途中から、オレンジ色の衣服を身にまとっている人たちの姿が目についた。最初はちらほらだったけど、次第にその数はどんどん増えていく。人によってはオレンジ色のサリーだったり、頭に巻いている布がオレンジ色だったり、Tシャツがその色だったり。あきらかに、「オレンジ」が彼らの連帯を示している。

カップルで歩く人、髪を今風に赤く染めて、NIKEとかPUMAのリュックを背負っている中学生らしきグループ、ひとりヘッドフォンをして黙々と歩く青年、パナマハットを小粋にかぶった初老の男性、背の高いおじさんと背の低いおじさんのコンビ、大笑いしながら歩くおばさんチーム。なかには、ベビーカーに赤ちゃんを入れて引いているお母さんも何人かいるし、2歳くらいの子どもを抱っこして歩いているお父さんもいる。

大きな旗を掲げて歩く人、お神輿みたいなものを担ぎながら歩く人。その数はたぶん、1000人はいるだろう。このオレンジ軍団の謎をドライバーに問うと、キリスト教徒の巡礼だそう。というのは、ポンディに大きな教会があって、そこまで数日かけて歩いて向かうのだという。車でも、かなり飛ばして2時間はゆうにかかる距離を、この炎天下のなか、まるで学校の遠足みたいにてくてくと歩いている。そこには微塵の悲壮感も修行感も見い出せなかった。

道中の小さな茶屋では、たくさんのオレンジの人たちが先に休んでいた。仲間と、細い木のベンチにくっつきあって座り、チャーイを飲んでいた。新聞紙に包まれた、揚げ物か何かを頬張っている人たちもいる。

わたしたちもそのなかに混じって、茹で卵のフライやバナナピーマンのフライを食べ、チャーイで喉を潤した。横目でオレンジの人たちを観察するけど、別段サドゥーとかそんなスピリチャルな雰囲気ではない。いたって、ふつうの人たちだった。

異国だな、と感じた。こんなにも宗教が身近にあって、果てしない距離をひたすら歩くことが暮らしのなかにあるなんて。

インドには、凄まじく汚いものと、圧倒的に美しいものが、渾然一体となっているように思う。汚さと綺麗さの線引きが難しい。というのは、自分の概念の、清濁の基準がぐらつくからだ。たとえば、どんな聖者でも排便はするように、どんなきれいな花でも枯れて朽ちるように。

次の日は、鉄道の駅のあるチェンガルパトゥまで車で送ってもらい、ここから電車でカライクディまで向かう。7時間の車窓の旅だ。エアコンなしのリザーブシートは、5人でしめて825ルピー、約1400円。

乗り込んだとき、それはそれはすし詰め状態で、いったいどうなることかと思ったけれど、座ってしまえばなんてことなく、心配だった暑さもさほど気にならなかった。わたしの隣の席は、黒い布で頭を覆ったイスラム教徒のおばさんだった。おばさんは、ちらっとわたしを一瞥しただけで、インド人特有の執拗な眼差しを向けるでもなく、スマホの画面に目を落とした。

車内では、ありとあらゆる行商人たちが頭に商品を載せてやってくる。マサラワダ(豆の揚げ物)、バジ(野菜の揚げ物)、ビリヤニ、チャーイ、カピー(珈琲)、ワーラー(水)、甘いお菓子、スナック菓子、お供え用のジャスミンやバラの花。

隣のムスリムおばさんが唯一買ったものはキュウリだった。見慣れているキュウリより細くて色も黄緑色をしている。それに唐辛子と塩をつけてポリポリ食べるのだが、その1本を半分にポキンと折って、わたしにくれた。マハーバリプラムで遺跡巡りをしている途中、ものすごく喉が渇いたのにそこにはキュウリしか売っていない、ということがあった。「なんでこんなときにぬるいキュウリなんて食べなきゃならんのよ。冷たい水か炭酸水が飲みたいのに」と、辟易したのは数日前のこと。そんなことを思い出しながら、もらったきゅうりをポリっとかじった。

「旨いっ!」何もつけなくてもおいしい。

しみじみと、よく味わって食べた。ありがたい美味しさだった。なんていうか、くぐり抜けた美味しさだった。

ブウーンブウーンと天井に一列に並んだ扇風機がうなる。なんと夏休みらしい時間だろう。

しばらくすると、前の車両の方から、低音の地鳴りのような声が聞こえてきた。その声は抑揚をつけながら、歌なのか語りなのか、はたまた呪文なのか、奇妙で不思議なヴォイスを発していた。その声の発生源である女性はとても大柄で(女装の人、かな)、バッチリと化粧をし、仕立てのよさそうなサリーを身にまとい、金色のピカピカしたアクセサリーをジャラジャラつけていた。指先を小刻みに動かし、四方に目配せをしながら、肚の底から声を滲ませ何かをうったえている。周りのお客さんの反応を見ていると、その女性の指にお金を挟んでいるではないか。女性はそのお礼に、お客さんの頭をさーっと撫でて何かまじないめいたことを言った。

とにかく、その声。今まで聞いたことのない音だった。まるでモンゴルのホーミーのように、いくつもの音階を一度に含んだサウンド。金属を鳴らしたような、虫の羽音のような、耳障りがいいのかよくないのかわからない音。そしてその眼差し。「ちょっと、お金ちょーだいよ。そしたらたんまり祈ってあげるからさ」といわんばかりの挑発的で包容力に満ちた存在感。

わたしはただただポカーンとしてしまった。その合間に潤ちゃんが幾らかのルピーを渡したのだろう、呆気にとらわれているわたしの頭をスーッとひと撫でしウインクして去っていった。

今でも、いったいあれは何だったんだろうって思い出す。宗教的な施設ならともかく、白昼堂々、ローカル電車の中での出来事だけに。

つくづく、彼女のような「仕事」(存在)が成り立つインドという大国に想像を巡らせてしまう。そして、機会があったらまた遭遇したいと思う。



 

「真夜中、1時半にチェンナイのロッジにチェックイン」


booking.comで適当に選んだ評価7.1の宿に到着したはいいが、入り口にはがっちり鍵がかかっていたから、ドンドンドンドン!とガラス戸を思い切りたたいてソファで寝入っているホテルスタッフを起こした。(てことは、セキュリティはしっかりしてるってことかな)

インドの始まりはこんな感じ。

しかも、このロッジまでの小路がなかなかのゲットーっぷり。路の脇のゴミの山には巨大なねずみが目視30匹ほどたむろしていたため、当然ながら子どもたちは固まり、唯一、動物好きの長女だけは果敢にねずみの群れを確認しに小走りでゴミの山に。がしかし、そこに人が寝ていて仰天し、踵を返して戻ってきた。

welcome to india!

息子は「お母さん、ここに泊まるの?」と非難めいた眼差しをわたしに向けた。

「そうみたいね」としかいいようがない。

でも、通された部屋は、うらびれたフロントの感じよりずっとよかった。エアコンも効くし、お湯もちゃんと出る。

それに、夜は人を不安にさせるもの。でも、数時間後にはちゃんと朝が来るんだから。そう子どもたちに言い聞かせて、ふたつある、Wベッドの片方にダイブした。

明くる朝のチェンナイの街は、猛烈にカオスだった。たまたま泊まったエリアがとりわけ大きな通りに面していたからなのだろうけど、

人と車とバイクとリクシャーと牛がひしめきあって、轟々と音が鳴る。異臭、罵声、クラクションに排気ガス。挙句に雨。

こんななか、両替所を求め歩くことに。歩いている人はたくさんいるけれど、歩行者には決して優しくない道。したがって4歳児は潤ちゃんと長男が交代で抱っこする。家族一列に並んで黙々と歩くが、目深にかぶったレインコートのフードのせいで視界が狭い。

ようやく到着した両替所が入っているショッピングセンターは、あいにく開店30分前だった。隣のビルの1階のティフィン屋に入る。あったあった、ドーサやイドゥリー、そしてウップマ。わたしは香ばしいギーロースト、潤ちゃんと長男はジャガイモが挟まっているマサラドーサ、娘たちはミールスを半分こ。「ほんとにここはインドなんだなぁ。」と、目の前のカリッカリに焼けたドーサをちぎりながら、たちまち胸がきゅーっとなる。じわじわと嬉しさが込み上げてくる。

9年前、初めて南インドを訪れたとき、なぜかチェンナイは(ANOHKIにちょこっと寄っただけで)素通りだったから、今回は欲張ってチェンナイに4泊の予定を組んだ。しかしながら、この街の(エリア)雰囲気だと4泊はもしかしたら長いと感じるかも知れない。でも、行きたいレストランがわんさかあるから早々にこの街を出るわけにはいかない。

そんなせめぎ合いを繰り返しながら、素晴らしいアンナ・ラクシュミーのミールスに感嘆し、誕生日の夜はサザンスパイスにてミネラルウォーターで乾杯した。でも結局、行きたい店の半分も行けなかった。というのは、ことごとく神経が消耗されてしまい、食欲まで届かないのだ。あーなんてわたしは軟弱だろう。なんだか歩くだけでお腹がいっぱいになってしまう感じ。

そして、この喧騒で子どもたちもナーバスになってきたので、そろそろ移動のタイミング。予定にはなかったけれど、海沿いの街、マハーバリプラムまで、Uberを頼んで向かった。

ハマーバリプラムまでは約2時間。Uberのドライバーはとても無口でシャイな人、だったような。途中、ドライヴインも寄らず、ぴゅーっと目的地まで飛ばしたような。窓の外の牧歌的な風景に気を取られて、あまり車内のことは覚えていない。

宿には、GPSで迷うことなく到着。海岸まで3分のこじんまりした宿の部屋は白で統一されていて、とても清潔感があった。子どもたちは二段ベッドに大喜びし、そんな姿を見て、こちらまで荷ほどきする手が緩む。わたしはここで、意を決して断食決行。入院中の膨大な抗生物質の影響だろうか、体内の常在菌のバランスが大きく変わったのか、東南アジアに行ってもお腹ひとつ壊さなかった自慢の胃腸がここにきてギブ。梅肉エキス舐めながら、ひたすら読書に耽る。「南洋通信」中島敦。

次の日、「復活!」とはいかずとも、食べたい気持ちが自然と膨らんできたので、夕飯は潤ちゃんたちが前の晩に行ったmessで小玉ねぎのパチャディとイカのフライと魚のカレー。魚はスズキのような青黒っぽいものと、赤い鯛のようなものの2種類から選ぶ。ちょっとだけ迷って、like a スズキに。待っているあいだ、店のご主人が気を遣ってラジオ(なのかな)をかけてくれた。聞こえてきたのはクラシックのピアノ。オフシーズンのひとけない海辺の街で、お客さんはわたしたちしかいない。こんなふうに海風にふうわりと当たりながら、誰かのピアノに耳を澄ますのもわるくない。いや、むしろ最高。

奥さんが作ってくれたカレーはドーンと鍋ごとやってきた。使い込んだステンレスの鍋に、たっぷりのぶつ切りの魚がごろり。具らしいものは魚とカレーリーフ以外見当たらない、グレービーもさらっとしたタイプのカレーだ。子どもたちが一口食べて、「あれ?このカレーの味、お母さんが作るのとちょっと似てる」と言った。長男が「このカレー食べてると、旅行に来てるって感じがしないなぁ」と。あら、そうかもね。嬉しいな。でも、あなたたちはインドに来てからというもの、「手」で食べている。だから、家とはちょっとばかし違うよね。

「右手」で食べるのが当たり前の国。水もジュースもほぼほぼぬるくって、首を横に振るのが「YES」の合図。トイレにトイレットペーパーもないし、人々は物珍しげにじっとわたしたちを臆せず見る。

これまでの「当たり前」のことが、ここではそうではないってこと。

 そうそう、チェンナイで待ち合わせをしたタエちゃんは、奈良でインドのアンティークやカディのお店をパートナーの藤島くんと営んでいる。藤島くんは、年に3、4回インドに行っては仕入れをする、さながらインドのエキスパート。でも今回は、奥さんのタエちゃんが仕入れを任せられた。ふたりの子どもがいるタエちゃん、子どもが生まれてから初のインド、それもひとり旅である。5年ぶりに会うタエちゃんとごはんを食べながら、いろいろ積もる話をしたなかで、印象に残ったエピソードがある。それは「ヒロ(藤島くん)くんが、最近はインドにいる方が気持ちがラクだ、って言うんだよね」

「ええ?」わたしは耳を疑った。人がいーーーっぱいで何するんでも一筋縄では行かないこのtoo muchなインドの方が日本より「ラク」ってどういうこと?その理由は、「感情をストレートに表に出せるから。」嫌だったら「NO!」と突っぱねればいい。

「だから、インドのチューニングのままで日本に帰ってくると、言い方がきつくてさ。『ここはインドじゃないんだよ!』って注意するの」とタエちゃん。「まぁ、いいんだけどね~」と笑った。

さて、そのステージまで行き着くにはいったい何年掛かるんだろう。人との距離がぐっと近いと、コミュニケーション方法も削ぎ落とされてシンプルになるのかも知れない。

「怒る」という感情がときに否定的に捉えられる日本。それでいいこともあるし、回りくどくなることもあるような。

インドやネパールの雑貨や衣料を扱う「Chahat」のボス、大竹さんは、インドで仕事がスムーズに行くとなんだか物足りないのだそう。そんな人もいるのだな。

面白いな、人って。

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