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「餃子のあたらしさ」

通常の喫茶営業のほかに、「第三水曜日は水餃子の日」という夜の営業を始めて丸三年が経った。
前日、子どもたちと餃子を四百個ほど包むのだけれど、その時間がなかなかよい♡

均等に分けた生地を綿棒で丸め、粉を打ってのばす。
竹ベラですくった肉餡を皮に収まりよく置き、手のひらと指先を使って餃子の口をキュッと結ぶ。
延々とその動きの繰り返し。だけど、疲れることはあっても不思議と飽きることはない。餃子のぷっくりとした形、すべすべの赤ちゃんの肌のような生地の感触。
ひとつひとつがいちいちあたらしく、包むごとに整われる感じがする。

合わせて、作業中のおしゃべりは実にたわいない。

長女は言う。
「ふたりでいるときに、シーンて沈黙しちゃうと気まずいのはなんで?」
長男が、「でもさ、こっちだけがそう思っているだけで(気まずいと)相手はなーんにも思ってないのかも知れないよ」
「いや、きっと思ってる」
「じゃあどうする?」
「どっちが先にしゃべるか問題」
「だな」

おもいおもいに、順繰りしゃべる。
そうじゃなくともとにかくうちは普段からよく話すのだ。
車のなかや外食先、焼き鳥屋、焼肉屋、インドカレー屋。

うちの子は、三人とも公学校に通っておらず、馬の牧場にお世話になっている。
なので、わたしが経験したことのない歩みをしているから、ついもの珍しくていろいろ聞いてしまう。
「かつて、わたしが産んだにんげん」は、今いったいなにを考えているのか?と。素朴な疑問です。
同じ屋根の下に暮らし、同じごはんを食べたから当たり前にわかることはあるけど、それでもわからないこと、わかりえないこともある。

自分の若い頃は、公学校の教育の不自由さに、「侵食されてたまるかーっ」と、校則を軽く破ったり、授業をさぼったりして自分を守っていた。
まぁ、わたしがそのころ抱いていた「自由」とは、「放縦(好き放題やりたい放題)」に近いものだったんだけど。
「不自由」の反発&反抗としてのカウンター、二項対立の片側のようなもの。

子どもたちには、「(牧場に)行く行かないを決めるのは君たち」と託しているが、体調がすぐれないとき以外は、「行きたくない」と言ったためしがない。せっせと足繁く、長男は十二年、長女は九年、末っ子はもうすぐ三年が経つ。

なぜだろう、って思った。なぜ、あなたたちは頼まれもしないのに今日も行くの?と。親としてみたら、行ってもらったほうがいいに決まってる。でも、「行く行かない」の自由があるなか、なぜ、「行く」を継続しているのか?と。

長女が、「同じようで毎日違うからたのしい」と言った。

その違いはとても微細だろう。
餃子も、百個包んだら百個の形が微妙にある。
その微妙は自分のもの。自分しか感じられないもの。それは誰かに与えてもらうことではなくて、自ら見出すもの、てことだな。








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