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推しを勝手に好きになって勝手に萎えた話

アウトプットが大事だとわかりつつ、できる限り、文章にしたくないと思うことがある。
文章にする、そこに記すということは「それで形を確定する」ということだ。曖昧で、もやもやとした、不定形のものが書き記すことで形を得る。感情であれ、思考であれ、その状態で固着する。
もちろん自分の意識にのみ作用することだから、いくらでも撤回すればいいのだけど、私の意思は極端かつ頑固なので、一度「これ」と思ってしまうとなかなか覆らない。私はそれが恐い。
敢えて「箱の中の猫の生死は不明」の状態のままにしていることがいろいろとある。
とはいえ、見て見ぬふりもそろそろできないかもしれないなあと思っていることも、ある。

私には推している俳優がいる。
私が推しを明確に個人として推しはじめたのは、5年前だ。書いてびっくりした。5年て。
当初は好きな作品の好きなキャラクターを演じてくれている、という理由から推し始めたのだが、中のひと個人のイベントや現場に足を運ぶようになって、中のひとのことも好きになった。
黙って立っていればしゅっとしたスタイルの良いお兄ちゃんなのに、口を開くとすごく面白くて、イベントに行けば笑い疲れて帰ってくる。
お酒とバイクが大好きで、運動神経がよくて、料理がすごく上手。良くも悪くも昭和の男で、後輩にも慕われている陽気なお兄ちゃん。
そういうところが好きだなと思ったし、今でも好きだ。
何年もイベントのたびに顔を見せていたので、相手もいい加減顔を覚えてくれたのか「久しぶり」「今日はあのアクセつけてないの?」とか声をかけてくれるようになった。
嬉しかった。めちゃくちゃ嬉しかった。認知って都市伝説じゃないんだって思った。
ただまーーーーーーうん、最近ちょっとどうかな、と思うのだ。推しの姿勢について。

もともとは多分、小さいことの積み重ねだったんだと思う。
例えば、定期配信毎月やりますって言って、ファンに配信番組タイトルを募集までしたのにやらない。仕事が忙しいなら別にやらなくても構わないんだけど『今月はお休みです』の告知もない。
インスタ、公式HP、twitter、ファンクラブアプリといろいろと発信媒体があるのに告知をちゃんとしてくれない。イベントのチケ発や、出演番組の連絡がされなかったり、事後だったりする。
出演作を見に行った時に、推しの目の前でペンラを振っているのにこちらにちらとも視線をむけない。こっちの顔がわかる距離なので、私が自分を推している女であることは気づいているはずなのにだ。別に毎回絶対ファンサをくれとは言わないし、応援は気持ちなんだから見返りを求めるなと言われたら「それはそう」なのだけど、明らかに視界に入る位置で頑張っているのに毎度毎度視線すらもらえず、他の誰かにファンサを投げているのを見せられると流石に心が折れてくる(同担で認知されている友人も同じことをされると言っているので、多分気のせいではない。私らのこと嫌いなんだろうか)(お前が個人的に干されてんだよっていうならそれはそれで納得するし、こちらもそのつもりで接するのでいいのだけど)
こういうことが積み重なって小さな不満の種になっていた。それが無視できなくなってきたのは、課金誘導がここ最近とても激しいからだ。
悲しい。金の切れ目が縁の切れ目、という言葉が頭をよぎる。

別に「課金の機会がある」のは構わない。私の出したお金が、多少なりとも役に立つなら嬉しいし、こっちも出したお金でグッズや推しとの時間を買っているのだから関係性はwin-winだ。
ただ、その要求される金額に対して、等しい価値のバックがないんじゃないか? と最近思う。
発売します! と案内が来るのがぶっちゃけいらない、というグッズであったり、乱発されるスクラッチくじ(景品は写真データや短い動画が主)であったり、ちょっとこれ言うと身バレしそうなんだけど、推しがちょっと手を加えたワークマン的作業服のオークションやります! とか言い出したときはどうしようかと思った。落札者にはそこそこ長い推しとの通話時間が特典でついてくるらしいのだが、作業服はすごくいらない。それ、ファンが喜ぶと思ってやってる?
役者の仕事も目に見えて減っている。解禁のタイミングというものがあるので、まだ言えない、というお仕事があるのかもしれないけど、数年前は毎月何かの舞台やイベントに出る推しを追いかけて飛び回っていたことを考えると、コロナ禍を経ているとはいえ明らかに大きく減っている。
私は「俳優」の推しが好きなので、俳優業や個人のイベントにはできる限り、自分が行きたいと思ったら惜しまずお金を払いたいと思うけれど、私の好みとは違うグッズを作っている推しにはあまりお金を払いたくない。それならそのお金で自分の好きな雑貨や服を買うし(好みドンピシャならそれでも買う! となったかもしれないが、びっくりするほど推しと趣味嗜好があわない)
今の推しは「仕事がないからお金ちょうだい」と言っているように思えてならない。湧いてくるのはあなた、なにがしたいの? という気持ちだ。

ファニコンで、他のファンの声や様子がダイレクトに見えてしまうのも、萎えてしまう理由だと思う。
ファニコンって何? って人に雑に説明すると、推しの投稿・配信やスクラッチくじの販売、ファンも推しも投稿できるグループチャットや、推しへのDM機能なんかがある有料制のコミュニティアプリだ。
私は同担拒否というわけではないが、別に「みんななかよし」をしたいわけでもない。同担の友人はごく少数価値観の合う相手がいればラッキーだし、基本的には適度な距離を保って、お互いの存在には関知せず。それが同担との理想の距離感なのだが、ファニコンというアプリは推しのアップした画像や動画、言葉に対して他のファンの反応が一緒に見えてしまう。
ある日推しが左手の薬指に指輪を付けた写真をアップした。「じいちゃんの形見なのでつけててもいじらないでね」とわざわざ言い置いた投稿に「家族思いですね♡」「オシャレなおじい様ですね^^」とつくコメント。コメントしてるひとたち、本当にそう思ってる??? というか、本当であったとしてもそんな誤解されそうな位置にわざわざつけなくてもよくない??? 私は事実かどうかより「家族を免罪符にしてファンに誤解される恐れがあるとわかっていることをやろうとする」ってこと自体が嫌なのだが??? そんな「推し」と「ファン」の間でかわされる「茶番」を見ているのがしんどくて、私はファニコンから離れてしまった。7月に会員の期限が切れるのだが、多分更新しないと思う。

推しは数年前にフリーになったので、いろいろ大変なんだろうなと思う。内情は想像することしかできないのだけど、組織に属せず、自分だけの力で食べていくというのは簡単なことではないということはわかる。
なので、できるだけ応援したいなと思っていたのだが、最近それが義務感になっていることに気づいてしまった。
先日カレンダー発売イベントがあったのだが、翌日に別件で大きなイベントがあったこと、会場が個人的に大嫌いな場所だったことから迷った末に私は「いかない」ことを選択した。
どうしようもない用事がある以外では、推しの個人イベントは最優先にしてきたので「行ける」のに「行かない」ことを選択するのは初めてだった。
決断するまではすごく葛藤したし、今までやってきたことが全部なくなってしまうようで怖かった。友人と切れてしまったらどうしよう、とも思った。でも、実際にイベントの日が過ぎてみたらすごく楽になった。ソシャゲの課金のやめ時がわからず、続けていたら継続特典もあるし楽しいこともわかっているのでちょっと苦しいけどずるずる続けていたのを、覚悟して切った。その感覚に一番近い気がする。
推しのイベントに行かなくても友人とは切れていないし、私は生きているし、特に困っていない。悲しい。でも「楽になった」と思ったことは事実として変えられない。

完全に嫌になったとか、担降りしてやる!!!という勢いがあるわけではない。ただゆるゆると、ろうそくの火が弱くなっていくような、そういう感覚に近い。
どうだろう。もう、以前みたいな気持ちでイベントに行ったり、ペンライトを振ることはないのかもしれない。ペンライトについては振ったところでどうせこっち見ないでしょ、と思ってしまうので結構根に持っているっぽい。
推し個人を追わなくなったとしても、彼が私が好きなキャラを演じ続けていることに変わりは無いし、彼にキャーキャー言えなくなっても、キャラを演じている時はキャーキャー言ってしまうかもしれない。私はどこまで行っても2次元>3次元であることは自覚している。
もしかしたら、推し自身はもともと何も変わっていなくて、私がふっと我に返ってしまったのかもしれない。人は見たいもの、聞きたいものしか見ない、聞かない生き物なので、外から見たら「君の推し自身は何も変わってないよ。君が変わっただけだよ」ということなのかもしれない。だとしたら、何かあって、やっぱり推し自身もすき~~~!!離れられない!!ってなるかもしれない。それはそれで嬉しいと思う。そう思えたらいいのに。

ずっと二次元ばかり推してきた私にとって、推しはほぼ初めての「三次元の推し」だった。
ゴールデンウィークの間毎日劇場に通ったこと。舞台をマチソワして、ふらふらになりながら帰ってベッドに倒れ、朝早く起きて手紙を書いて、翌日の公演に持っていったこと。千秋楽が来てしまうのが嫌で休演日の朝ベッドの上で泣いたこと。深夜駅から歩いて帰ったときに眺めた月。しんどくてしんどくてしんどくて楽しかった。あれは確かに青春だった。
はじめてあげたプレゼントを背景に動画を撮ってアップしてくれたこと。初めての接触イベントでガチガチに緊張している私に話題を振ってくれたこと。私がしていたネックレスに昔飼っていたうさぎの名前をつけてくれたこと。コロナ禍中のイベントでマスクしているうえに髪型も変わっているのに「ひさしぶり」と声をかけてくれたこと。ぜんぶぜんぶ楽しかった。書いてて涙が出てくるくらいキラキラした時間だった。この時間のことを、きっと私はこの先何度も反芻しては「幸せだった」と思うのだろう。それは変わらない。
青春とはいくつになっても、何回でも訪れるものだと推しは教えてくれた。それが消えてしまうわけではない。この先推し以上に好きになれる「三次元の推し」が現れる想像もできない。
推さなくなるわけではない。ただ、今までと同じ気持ちではもういられないだろう。私は書いてしまった。

こんな、ごくありふれた、個人的な話にここまで付き合ってくれてありがとう。勝手に好きになって勝手に萎えてるんだから、オタクというのは始末に負えないし、推しも多分そう思ってると思う。それについては申し訳ない。ままならないね。
誰かを今推している人は、その人とずっといい関係でいられるといいなと心から思う。
坂本真綾の「紅茶」が染みる。

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