綾門優季『圧倒的に正しくない』
◎逆鱗の四月
私は野田秀樹の意見書を読み、声を大にして叫ばねばならぬと感じた。
演劇よ、死ね。家に籠ろう。私の妻と妻のお腹にいる子どものために。観客ともども家にとどまり、感染拡大の可能性を少しでもよいから減らしてくれ。
(川崎昌平『コロナ禍日記2020』10ページより引用、春秋社、2020年)
私が吉祥寺シアターの制作部とまだ慣れないZoomというアプリでの打ち合わせで、昨年度に企画していた演劇祭については一度、白紙撤回させていただきたい旨をお伝えしていた頃、演劇の存在そのものが世間の逆鱗に触れていた。野田秀樹氏の意見書がTwitter上で炎上したのを端緒として、次から次に、私が舞台を何度も観に行ったことのある劇作家・演出家たちが見るも無残に燃えていった。各々の意見の正しさは慎重に審議されておらず、とにかくただただ逆鱗に触れて燃えていった。呆然としてその様子を眺めていた。恐ろしい状態は濃霧のように晴れず、スマホを数秒間、開いただけで、傷ついて、閉じて眠ってしまう日もあった。まだ劇場はそこまで感染リスクの少ない場所だというエビデンスもほとんどなく、的確な反論を導き出せず、「でも演劇やりたい」程度のお気持ちしか表明出来ないのが苦しい。人々は感覚で話し、激昂していた。空理空論が交わされているだけで、どちら側にもつけず、肉体に耐え難いむず痒さを覚えた。私も感覚的に、劇場から少しだけ足が遠のいていたことは否定出来ない(それでも3月中旬の段階で1週間に10本観ていたことを思えば、演劇に馴染みのない人からみれば「足が遠のいたとは?」と首を傾げるかもしれないが…)。私は思いつくことをなんでもかんでもべらべらと喋る性分だけれども、これほどまでに、言葉を飲み込んだ時期はそうそうない。今後の人生にもなるべく訪れてほしくない。演劇が結局危険なのかどうなのかはっきりしないまま、新しいフェスティバルをこれから立ち上げると決断したことは、いま思い返しても、あまりに楽観的すぎる、と責められて仕方がない。圧倒的に正しくない行為を遂行しているような疚しさが、妖怪のように、背中にびたっと貼り付いていた。ただ「多分まあなんとかなるでしょう」という姿勢でいなかったことだけは、演劇の神様に誓っていい(演劇の神様がもし本当にいるのであれば、もう少し救われても良さそうなものではあるけれど)。私も吉祥寺シアターの制作部も、マスク越しに顔がこわばっているように思えてならなかった。相当の綱渡りを覚悟せねばならない。綱から落ちることは、すなわちフェスティバルの中止を意味する。事実上、企画がからっぽとなったこの時点で、「吉祥寺からっぽの劇場祭」開幕まで、あと約3か月。
◎構想の五月
五月上旬、劇場に行って観られる演劇はゼロに等しい(映像演劇はいくつか存在していて、仕事の合間に観ていた)。一千万人超の人間が住んでいる場所であるにも関わらず、この未曾有の事態は、人生の中で体験したことがない。私のもとには演劇を実施していないにも関わらず、クソリプや迷惑メールが直接届き始めていたが、この人たちは、自らの仕事も未来で偶然、脅かされることを想像しているのだろうかと、無表情に画面をスクロールしながら不思議に思っていた。私は、五月の段階では海外のニュースを積極的に摂取するように心がけていたので、これが人の集まる場所はすべからく駄目だ的な、単純な災害ではなく、ほとんどの仕事が高確率で凄まじい打撃を被ることを知った。少なくとも私は私自身の言葉が最も深く突き刺さるので、この人たちはこの人たち自身の言葉によって、人生を追い詰められるのかも知れなかったが、それも人生だし、SNS越しでは何もわかるはずがない、と突き放した。あなたはあなたが応援している人たちを、予想だにしないルートで間接的に殺すかも知れない。それもまた、あなたがこの人生の中で、選択したことだから、あなたがこの人生の中で、責任を取る他ないだろう。それは私も同じだ。
フェスティバルのステイトメントをぽつぽつと書き始めたのはこの頃からだった。そもそも吉祥寺シアターの中に一歩も入れないまま書いているからなのか、いま読み返しても抽象性が高すぎる文章ではあるが、あの頃からあまり意見は変わっていないのも、また事実だ。いまの私の思考も、非常に抽象性が高い。現実の細々としたことは盛んに議論されているが、このだらだらと長く続く災害が、現実の認識にどのような変容を齎すのかのほうに興味がある。
感染者数が下がり、楽観的なムードが漂い始めたこの時点でもまだ、通常の形式での演劇祭を実行することは、中止リスクが高く、なるべくなら避けたい、と考えていた私は、舞台だけではなく、劇場全体を使うこと、外の空間も使うことで、人が密にならないようにして、フェスティバルを組むことは出来ないか、提案した(そこに至るまでに、数々の知人・友人のアドバイスから刺激をもらった。大変な時期に相談に乗ってくれて本当にありがとうございました)。そこから逆算して、これまで作品を観たことのあるアーティストのなかで、劇場全体を使うことを念頭に置いた場合、独自のアプローチで作品を構想していただけそうであると踏んだ、福井さん、額田さん、山下さんにオファーをする。アーティスト数を比較的長めのフェスティバルであるにも関わらず、三名に絞ったのは、予算の問題もあるが、劇場空間がごちゃごちゃし過ぎないように、それぞれの作品が干渉しすぎないように、という配慮の部分が最も大きかった。
Zoomで何度も打ち合わせを重ねるが、さすがに、劇場の空間に入ってみないことには、これ以上話してもぴんとこないな、というところまでいく。オンラインの限界はこのあたりか、と思う。
◎一撃の六月
六月三十日に東京都の新宿で幕を開けたある芝居で、大規模なクラスター感染が発生する。この一撃の影響ははかりしれないものがあった。ニュースで連日報道され、世間の目がまた四月に逆戻りしたかのような切迫した恐怖を感じる。どこの現場も混乱しており、もちろん私もまた混乱している。この忌まわしい事件がなければ、「吉祥寺からっぽの劇場祭」が現在のような形式を選んでいなかったのは明らかである。とてもではないが、この流れで満席のお客さまは望めないと思ったし、率直なことを言えば、私自身が望んでいなかった。すべての演目を無観客配信にするかどうかの話し合いが行われる。この方向性の大きな変更が、福井さんや額田さんや山下さん、映像の和久井さんをはじめ、関係者にどれくらいの負担を強いるのか想像するだけで申し訳なさに胸が痛くなるが、しかし、私は最優先事項を「フェスティバルを中止にしないこと」にしていたから、どうにもならない窮地に追い込まれる前に、この話し合いはしなければならなかった。本来であれば、公演日程などの詳細が発表されていておかしくない時期だが、やはりそこはそれぞれの意見が微妙にズレており、調整は難航を極める。特に額田さんは、一貫して「観客は呼ぶべきだ」というスタンスを崩さず、その理由も納得出来るものであったために、揺らぐ。最善の選択は何なのか、私も絶対的な確信をもって喋ることが出来ない。この時点で、東京都の感染者は増え始めており、開幕のタイミングでは第2波が直撃する可能性がある、という噂が飛び交い始める。そしてそれは噂ではなく、逃げられない現実として、目の前に現れる。
◎混乱の七月
ところで、こうして当時の思考の経緯を追っていくと、「いくらなんでもコロナのことを考えすぎじゃないのか」と思われる向きがあるかもしれない。現在の私の目にも若干そのように映るが、考えすぎるにこしたことはない(メンタルを崩してしまわない程度に)。実際問題として、第2波のピークと実施期間が完全に重なってしまった「吉祥寺からっぽの劇場祭」の裏では、東京都の公演が続々と中止・延期になっていった。「劇場祭に来たいというより、なにか観たいと思って調べたら、今やっているものがこれしかなかった」と、お客さまのひとりに伝えられたこともあった。
これは私が免疫の持病を持っており最初からずっと敏感に反応し続けていることで(例えば私はエチレングリコールにアレルギーを持っているから、ファイザーのワクチンに含まれるポリエチレングリコールとエチレングリコールのアレルギーの発生の差について先日まで念のため調べていた)ひとつひとつの企画の立案に物凄く慎重になっていた結果、ぎりぎり実施出来るものになった、という側面があった。これは良かったことのひとつだった。緊急事態宣言下で、今夏に公演を控えている主宰の友人たちと意見交換の場を何度かZoomで持ったが、その中で、七月に実際に公演をすることが出来たのは、屋根裏ハイツ主宰の中村大地さんだけだった。私は笑われるほど悲観的な予測をあちこちで喋っていたが、恐らく、笑っている場合ではなかった。
ただし、今でも悔いが残るのは、アーティストとの対話の場を充分に確保することがままならなかったことだ。何もこの緊迫した事態の中、自宅でのんべんだらりと過ごしていたわけではない。これまで私が携わった公演の中で、最もミーティングの多かった企画だと言っても過言ではない。それでも、その一定数の時間が、コロナの状況の移り変わりによる対応をどうするかといくつかの場当たり的な問題に割かれ、アーティストと作品の内容の詳細を、実現可能性も含めて、満足の行くところまで、細かく詰めていけたかと言えば、それは100%達成出来た、とはおよそ言い難い。特に福井さんの作品は、当初の打ち合わせとは全く異なる企画に差し替える形となり、なおかつ、京都在住であるが、東京都に招くことが憚られるためにリモートでの作品作りが決まった時点で、事前に念には念を入れた綿密な打ち合わせを行わなければならなかった。しかし、それは不十分なまま初日を迎えてしまい、予定していた企画をこちらが実現出来ない、という痛ましい事態が、現地で起こってしまった。この場を借りて改めてお詫びを申しあげたい。
誠に申し訳ございませんでした。
最初のコンセプトにこだわり過ぎると実現が出来ない。内容を変えすぎると今度は企画の趣旨を見失う。その間を彷徨っていたのが七月だった。何かを諦めながら何かを新たに提案することの繰り返しで、しばらくはあのときの判断をああすれば良かった、と実際に夢に見ていた。そのときはそのときで全力で思考しながら話しているのだが、はじめてのキュレーターの仕事に、はじめての災害が重なったため、経験不足が招く、ネガティブな要素も少なくはなかった。これまで何度もキュレーターを務めてきたひとでさえ、これほどまでに手を焼いた年はないとも後で聞いた。そのような体験談が、内輪の反省会ではなく、今回はこうして、世に出ることを祝福したい。願わくば、すべてのフェスティバルのコロナ禍における反省会に伺って、今後の活動の参考とさせていただきたいところだ。これだけ時間が経っても、正解が何だったのか、バキッとわかっていない部分もある。
◎思考の八月
何かが終わった感触はなく、思考の始まる種を複数植え付けられた状態で、千秋楽を迎えた。というのも、このフェスティバルの期間は、第2波の影響もあって、劇場からほとんど出ておらず、実際に来ていただいたお客さまから直接感想を伺う機会がなかった(その意味では『からっぽの劇場の中身ツアー』で「実際に来ていただいたお客さま」が感想を声で吹き込む場所が設置されていたことはありがたかった。一定数のお客さまが戸惑われたけれども、キュレーターとしては是非を問わず、とても参考になる録音だった。考えが古いのかもしれないが、SNSで感想を聞くこと、アンケートで感想を聞くこと、直接に劇場のロビーなどで感想を聞くことがちょうどよいバランスで存在していてほしくて、今はやはり新しいバランスを作り手と受け手が模索中で、決定打が未だに出ていないのではないか。山下さんの作品がTwitterをフル活用したものであったことでよりいっそう、達成度とは別に、その疑問は、深い海の底に沈んでいった)。客観視することが不可能に近く、私は様々なひとたちに意見を伺って、何度も頷いていた。
「キュレーターは作品を発表すべきではなく、キュレーターの職務に専念すべきである」という意見は、書いてみれば当たり前のように映るが、当時は愚かだったので気づいていなかった。コロナ禍が訪れなければ、そういう提案も行わなかったはずだが、少人数で短くはない期間の現場を回すために私がフル稼働しなければいけない、と思い込んでいたところがある。自分に出来ないことを誰かに頼むのも演出家の仕事のうちのひとつだと、オリザさんとの個人面接の際に言われたことを、数年ぶりに噛み締めて思い出す。
「若手の実験の場が公共劇場によって齎されたことは良かったと、もっとしっかり発信していかなければならない」は先輩からの俯瞰的な言葉だが、実験の場だと私があまり思っていなかったことはともかくとして、これはむしろ八月より、今の私のほうが勢いよく、首を縦にふる。そして危機感も覚える。海外でも国によっては近い現象が起こっていると伺ったが、若手の発表の場は経済的に余裕がないときにまず真っ先に潰れていき、劇作家・演出家がある一定程度のキャリアがあり、有名であることが企画を立てる必須条件となっていく。そうしたときに、若手の大幅な離脱は数年かけて起こるので、今は良くても、未来のある時期にある世代がごっそりと抜け落ちている可能性がある。そしてそれは、コロナ禍になって1年、各劇場の自助努力によって齎されたり齎されなかったりしていて、ここの是正措置は今後も考えないといけないところだ。若手を叱咤激励してどうにかなるような段階では既になく、劇場が単独で頑張ってどうにかなることなのかも疑問で、根本的には、大きな環境の整備の問題へと辿り着く。
緊急事態宣言の前に、福井さんが『インテリア』という作品の上演で使う「もの」を募集していたことがあって、私は壊れたポットを京都に送った。上演後に手紙を添えて、壊れたポットが送り返されてきた。そのときの手紙は、そのときより、今の私のほうが、何が書かれているのか理解出来るような気がする。錯覚かもしれない。それでもそこにある言葉との対話は続けなければならないし、考え続けなければならない。目の前のひとと目の前のことについて対話をしながら、遠くのひとと遠くのことについて対話をしなければならない。私は私の愚かさを、そのようにして、緩やかに変えていかなければならない。
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