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カジュアルな回心体験

 1年前から仏教の学校の通信教育に通っています。年度末に「宗教についてこの1年学んで思ったことを述べよ」という大きなテーマでレポートの課題が出たので、何とか苦しみながら提出しました。

 提出したレポートは返ってこないらしいですから、僕としては頑張ったのに何だかもったいない。ですのでここに載せることにします。

 回心経験について触れている章があるが、私にもそれがあったと言って良いのだろうか。少々の紆余曲折はあったが、平々凡々と生きてきたつもりである。しかし、自分なりに仏道を志すきっかけがあった時期ははっきりしているので、回心経験がある前提で、自分が回心する前後で何がどう違っているのかを述べたい。

 10年ほど前に試験勉強の一環で宗教の簡単な解説書を読んだ。色々な宗教の歴史や思想を知っていく中で、今まで社会や自身に対する不安・疑問に対する、自分の考え方の癖のようなものが仏教の影響を強く受けていたことに衝撃を受けた。当時は禅宗系への憧れが強く、近所にある寺の坐禅会に参加した後は、独学で仏道の実践めいたものを自分なりに始めた。 

 この体験を回心とした時、その後の私の変化として例を挙げるならば先ず、ものの見方が変わったように思う。今まで親しんだ音楽や小説、漫画などにも仏教との共通点また仏教そのものがあることを味わい、逆に今まで関心がなかった分野に関して、仏教的な何かを感じて新たに興味や共感を覚えるようになった。「どこにでも仏陀の教えが活きている」と感じた事を覚えている。

 思考パターンも変化があった。今まで悩んでいたものがそうでもなくなることもあったが、代わりに今まで即決出来た選択には足踏みするようになる。例えば五戒や十善戒に触れるような自他の言動に抵抗を感じたり、日課にしてる座禅や掃除が出来ないと落ち着かないし後ろめたかった。戒や日課を守れたとして、生活が好転してるかというとそうでもない。執着の対象が変わった、もしくは迷い方が変わったというのが正しいのかもしれない。これに関しては「仏に常に見られている」ような感覚さえする。

 仏教と向き合う姿勢はあの頃と比べ変わってはいるが、この先も仏道への興味や憧れ、後ろめたさと付き合っていく人生だと思う。そう考えると私にも回心という現象は起きていると言っていいかもしれない。 了

 
という内容でした。
 回心(信仰心の劇的な転換)や発心(仏になりたいと志を持つこと)と書くと大袈裟なことに思えますが、何かに対して衝撃を受けたり事件に遭遇して今までいた世界の見え方、感じ方が変わるという体験は、宗教の用語を引っ張ってくるまでもなく起こり得るものではないでしょうか。

 初めて体験した音楽、文学、ゲーム、スポーツに触れて、憧れて自分もあんな風になりたい、やりたいと思い、行動に移したという人がいらっしゃればそれは、僕に言わせれば立派な回心であり、発心です。(最愛の人に出会えた!っという体験も近しいものがあります。あるカトリックの神父さんは、イエスとの関係は親子というよりも婚姻の関係に近いと仰っていました。)

 こう書くと、宗教者からは「世俗の事象に対する執着と純粋で神聖なる宗教体験を同一視するものではない」という批判があるかもしれません。

 しかし、神と共に生きる道も仏を目指し精進する道も、共に世俗のものと見なされる執着の別の形だと言えます。愛された記憶や、今いる家族・友人他者からの評価・趣味・表現・主義・思想・愛された記憶……、何でも結構ですが我々人間は最低どれか1つでも土台にないと生きられない愚かな生き物です。その土台を【信仰心】と読んでも良いのではないかと僕は考えています。

 そこまで言うと、なら宗教なんてまともに信仰する必要などないのではないか?と思った方もいるでしょうか。僕はそうではないと伝えたい。伝えたいですが、それはまた別の機会に。


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