答えが知りたい

中央仏教大学の通信教育学習コースで願書を郵送したがまだ合否が分からない。

9月から授業が始まるとHPには記載されているが、もう7月も半分を過ぎてしまった。入学案内のパンフレットを家の中で紛失してるので返答のルールを明確に把握してないので何とも言えないが、連絡が来ないというのは不合格だということだろうか。

そもそも通信教育の資格も何も得る学習内容でもないのに合否判定があるというのがすごくモヤモヤしている。入学希望の申請用紙はハガキ3枚分ていどの用紙に個人情報と顔写真、2~3行ほどしか書くスペースのない志望動機の項目がある程度だった。通信教育も何人も生徒がいると採点だったりが負担だからだろうか。あ、あれか。誤字脱字とか、最低限の書類を書く時のマナーがあるかないかでも篩にかけているのかもしれない。それではお手上げだ。この品のなさは書面でも誤魔化せない。ただ、仮にも浄土真宗の学舎であるならば愚かでうっかりしてるようなぼくにこそ入学の権利はあるのではないかということは申し上げたい。

出来るかどうかも分からない入学に先駆けて、七高祖の入門的書物や正信偈の解説本、そしてようやく先日〈顕浄土真実教行証文類〉の上巻までだが読み終える。とてつもなく体力を使う。下巻も同様のボリュームだと思うと憂鬱だが買うしかない。上巻の涅槃経を多く引用した所や法然の理論を強く奨めつつ、ときおり差し込まれる親鸞の悪人としての告白めいた所が面白い。下巻はどうなっているのだろう。

阿弥陀如来に対する実感は念仏のおかげ(他力回向ととるべき?)なのか強まりつつあると言っていいのかもしれない。しかしぼくの阿弥陀仏に対する信心たいうか信じ方は、果たして一般の真宗の人々とズレていたりしないのだろうかと不安にはなっている。

最近、遠藤周作の〈深い河(ディープリバー)〉を読んだ。その登場人物に不器用で敬虔な大津というクリスチャンが出てくるのだが、彼の語るキリスト教や霊性の捉え方は親鸞が語る阿弥陀如来への信仰と肉迫しているのではないかという所が多くあった。

作者の遠藤自身もカトリックの信徒である。彼の作品で語られるキリスト教と欧米式のいわゆる一般的なキリスト教とではズレがある。切り口が違うというのが正しいのかもしれない。

1つだけ例を挙げる。大津は生活に染み付いた自身のクリスチャンの習慣の意味を問い質された時、棄教を迫られるのだが、その時彼は「でも‥‥‥僕が神を棄てようとしても、神は僕を棄てないのです。」泣き出すように答えた。

これを読んだ時に法蔵菩薩(修行中の阿弥陀如来のこと)の四十八願な中の「全ての人々が心から信じて私の国に生まれたいと願い、わずか10回でも念仏してもし生まれる事が出来ないようなら、私は決してさとりを開きません。」という言葉が思い出された。親鸞によれば、阿弥陀仏から逃げても逃げても如来はぼくのような凡夫を包み込むように迎えにきてくれるというのである(話は逸れるが欧米のカトリックは同性婚やLGBTQに対して許容しない判断をすることも少なくないらしい。神の意思はどこまで人の子に及んでいると考えているのか興味がある)。

遠藤周作や同じくカトリックの来住英俊神父(〈キリスト教は役に立つか〉の著者)、「深い河」の考察本(注:筆者の独断の解釈)の著者である若松英輔氏も語るキリスト教観は共通してるものがあるように思う。

論理では割り切れない悲劇や奇跡にも思える偶然の出来事に、ある人は神仏や精霊の働きかけを、ある人は宇宙の法則を、またある人は魂の業を感じてしまう。それぞれがそれぞれの様式で超越した何かを語り畏れ敬うが、〈深い河〉で語られるように、宗教というのはそのそれぞれがそれぞれの生き辛さを背負って大きな深い河に祈りを捧げる様相そのものであるような気がしてくるのである。

これ以上は何かうまく言えない。というか結局何も言えてない気がする。信じるという事に対してどこまでも疑いの目を向けつつ、それでも信じようとする自分を受け止め続けた遠藤周作と親鸞上人に共通点を見出したのは遅すぎた。中央仏教大学はお願いだから早く結果を教えてください。

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