日本盲教育の独自性と普遍性

  2013年にパリで行った発言の原稿です。

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 1 日本の古代にあたる西暦701年、法律に按摩師、鍼師の制度が置かれた。723年、皇太子妃(後の光明皇后)がハンセン病患者や盲人も対象とする慈恵的な救貧施設「悲田院」を設けた。その頃、盲人の僧侶が現れた。中世期には、弦楽器(琵琶)の演奏に合わせて歴史的叙事詩を語る盲人集団が活躍し、ギルドに当たる「当道座」を結成した。近世期には、琴・三味線の演奏や鍼灸按摩に従事する盲人が広範な市民から好評を得た。
江戸時代に、当道座は徳川幕府から自治権を認められ、高位の者は金貸し業を営むほど富んだ。鍼医師、音楽家、政治顧問などとして幕府に登用された盲人もいた。学問分野では、盲目の塙保己一が「日本の歴史と文学」に関する膨大な叢書『群書類従』を編纂した。鍼治療の技法を革新し、それを盲人の適職として定着させた盲人・杉山和一は、徳川政権の公認を得て、1683年頃に「鍼治講習所」を開設した。それは盲人や晴眼者に鍼・按摩の教授を行う学校であった。教育方法としては、口述と実技指導が中心であったが、鍼・按摩各3年の教育課程を整え、教科書も作った。この史実を強調したい。
 近代以前の日本には、障害は「前世の因縁」によって発生するという迷信が根深く、障害者は差別されがちであった。近代は明治維新‐不徹底な市民革命-によって始まった。封建制を否定したい政府は、1871年に当道座を廃止した。「鍼治講習所」も閉鎖を余儀なくされた。徴兵基準が盲人などを「兵士になれない」と定めたことも、一般の人々の障害観に影響を及ぼした。国家に貢献できない者としてさげすむ見方が広がったのだ。

 2 近代日本の教育制度の基本は明治期に設計された。公的な学校は1872年の「学制」発布に始まる。その時点で障害児のための「学校アルベシ」と定め、教育の一構成部分として規定したのは評価できるが、実際には障害者を「廃人」とみなした国家が率先して学校建設を具体化することはなかった。
 明治の初期に、知識人によって、西欧の盲院・唖院に関する情報が啓蒙的に紹介されるようになった。まず、東京と京都で盲院・唖院の創設が構想されたが、政府の無理解や財政基盤の乏しさのため、1878年に京都で創立された最初の学校は盲唖院として始まり、2年後に成立した東京の訓盲院も間もなく盲唖学校にならざるをえなかった。創立の当事者はそれを「便宜的な」措置であったと説明している。注目すべきは、校名に『院』とはあったが、両校ともに福祉的な施設としてではなく、明確に文部省管轄の教育機関としてスタートしたことである。
 その後、盲唖学校、盲学校、聾唖学校は、全国各地で、宣教師・クリスチャン、仏教徒、教育者などによって私学として続々と創始された。創立者中、京都盲唖院や東京盲唖学校を卒業した視覚障害者が10数名に上るのも重要な特徴である。学校数は、1906年に40校を超えた。しかし、1912年に在籍した盲生徒は全国で1600人であった。1922年になっても学齢盲・聾児の就学率はわずか12パーセントにとどまっていた。
現存する盲学校のうち、創立当初もしくはその後に盲・聾唖並置型だった経験をもつケースは3分の2にも及ぶ。盲と聾唖との障害の違い、指導法の相違などに着目して「盲教育と聾唖教育の分離」をめざす全国規模の運動が1906年に勃興した。このとき、盲・聾唖教育の義務制実施も要求された。以後、毎年、教員団体や盲人団体などが国にその実施を求める要請を重ねた。東京盲唖学校は1909年に、京都市立盲唖院は1913年に、盲と聾唖の校舎を分けることに成功した。 
 1923年に「盲唖教育令」が公布され、「義務化」・「盲と聾唖の分離」規定が盛り込まれたが、国レベルでの予算は配当されなかった。地方自治体の努力によって「盲学校」「聾唖学校」への分離が若干実現したのみであった。長く続いた国家主義と対外侵略の間、この課題は等閑視され、「義務化」と「分離」が本格的に実施されたのは、軍国主義が敗北し た後の1948年以降であった。

 3 日本の近代盲教育は、「自助・自活」を目的とし、一般教科の上に職業教育(鍼灸按摩や音楽)を積む編成であった。1884年のLondon Health Exhibitionには、京都盲唖院が製作した按摩器などを出品して金賞を得た。以後、盲学校に於ける職業教育は、限られた職種に傾いた面があるものの、鍼灸按摩や音楽を通じての専門職の資格の取得、それに基づく社会的インテグレーションと人間的自立を促して、大きな役割を担ってきた。鍼や按摩(マッサージ)については、西欧諸国に向けた伝播も図られてきた。

 4 京都盲唖院も東京盲唖学校も、創立時にはBrailleを導入しなかった。その存在と有意性を知らなかったのだ。盲人教育用の文字としては、独自に開発した木製・土製の凸字や洋式に学んだエンボス凸字を利用した。その後、1890年11月1日に、ルイ・ブライユの方式を応用して日本語を表現する「日本訓盲点字」を確立させた。それに至る研究には、英国T. R. Armitageの著書『The Education and Employment of the Blind』の初版(第2版には、点字導入以前の日本盲人史が略述されている)及び英国製の点字器を参考にした。以来、点字を駆使する教育と文化が着実に広がった。
 1896~1898年の間、東京盲唖学校の小西信八校長が、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツの障害児教育を視察した。帰国後の小西は“教育を受ける権利”の必要を唱えた。私が勤務している京都府立盲学校には、小西が持ち帰った仏語版『SOURDS‐MUETS DE CHAMBÈRY RÉGLEMENT』が今も保存されている。


 5 日本では、盲教育の対象として、徐々に、弱視者や重複障害者を加えてきた。幼児教育と大学進学が盛んになるのは1945年以後である。国際障害者年前後から教育的インクルージョンも広がり、就学先の決定に保護者の要望が反映されるようになりつつある。視覚に加えて聴覚、肢体、知的方面などの障害を併せ有する子どもたちに対する教育の歩みも60年を超える。西欧各国で、重複障害児はどう処遇されているのかに関心がある。
6 2007年、新自由主義思潮を背景に、国の障害児教育施策が「特殊教育」から「特別支援教育」に変わった。それは、学習障害や高機能自閉症などを特別なニーズ教育の対象に加えるとともに、既存の盲・聾・養護学校を再編した「特別支援学校」に、通常校に在籍する「特別なニーズを持つ子ら」への支援を行わせようとするものである。ごく一部ではあるが、盲学校と聾学校の再併置も行われた。この新しい状況に対応して、障害への専門的な支援を行う力量を担保する工夫が求められ、研修や人事の改革が進行中である。
 文部科学省の統計によれば、2012年5月時点での従来型の盲学校数は国公私立で合計66校、在籍者数は計3336名である。新しい制度に改変して「視覚障害にも対応する」学校数は4校。全国の6歳から18歳までの学齢児童・生徒で「弱視など」は6825名とする近年の調査もある。各盲学校は自校に在籍する生徒の教育に責任を負いながら、視覚に障害のある子が在籍している通常校への専門的な支援にも努めている。
 イギリスのインクルージョンに過ちがあったと、主唱者ウォーノック自身が反省した論文が『イギリス特別なニーズ教育の新たな視点』というタイトルで日本語訳・出版され、インクルーシブの在り方に一石を投じている。 
最後に、障害観をめぐって紹介したい。「盲目は不自由なれど、不幸にあらず」―これは、京都ライトハウスの創始者で、日本の点字を磨いた鳥居篤治郎が残した名言である。

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