震記浪~東日本大震災毎分記録簿~

東日本大震災から明日で10年。私は地震発生時から約1か月間、分刻みの記録を取っておりましたので、ここに公開いたします。震災とは、災害とは何なのかを考えるきっかけの一つになれば幸いです。

※当時の表現をほぼ変更せず個人名のみ匿名化しました。


2011年3月11日
14時46分 地震発生。

 
当時僕は山田町大沢の隣の宮古市の高校に通っていた。

かたかたと教室が揺れ始めた。女子生徒が「先生、地震!」と言った。
 先生は 気づいていなかったようだ。鈍感だな~。年取るとそうなるのかなあ~と思った。僕はこの地震は9日の余震だと思った。気象庁は 一週間以内は最大震度5ぐらいの余震はあると言っていたからだ。
 揺れはどんどん大きくなる。1と思えば 2、2と思えば3、いや4、いやもっと大きい!いままでにない揺れだ!やばい!! やばい!!学校が壊れる。 長い!長い!・・・・・・・・・・・・

 揺れが収まり始め、先生が「携帯で情報見て」という。
 そのときはまだ平穏な空気が流れていた。ても携帯を見ると

<最大震度7、大津波警報発令!釜石市で車が流される映像・・・>
やばい。来る。と思った。
校舎は川沿い。テラスに出れば津波が見えると思い、出た。みんな「来ねぇーだろ」って言っていた。しかし、来た。下流からとんでもない逆流が。

15:21
サッカーゴールやラグビーのゴールポストが流された。堤防のぎりぎりまで波が来たが 溢れなかった。約4.0mと発売されたがそれは後にあまりに津波の威力が凄まじく、計測機器が壊れたためと判明した。テレビで見たポロロッカの比ではなかった。

まるで映画を見ているようだった。


16:00
いつまで学校待機になるか分からないと、担任から言われた。
電気スイッチを押してみると点かなかった。
暗くなってしまう・・・・・・・・・・・・・・。
部室に行ってヘッドライトをとっこないと・・・。
もしかしたら泊まるかもしれない・・・。
だんだん不安になってきた。

16:25
ここの震度が震度6弱であることを確認した。
先の見えない不安がつのり始める。

16:30
強めの余震。トイレに行った。5分おきに余震が来ていた。

17:41
部室から物を取ってきていいというので登山部部室に行った。銀マット十数枚、ヘッドライト、カイロ、寝袋などを取ってきた。津波が来るので早くしろという先生の声に焦りながら取ってきた。余震は絶え間なく続いていた。

18:20頃
男子は3階(2学年教室階)に、女子は4階(1学年教室階)に分けられた。机を教室の後ろに下げ、暗幕を2人に1つもらった。いよいよ泊まる準備が始まった。不安が高まる。今まで普通のテンションだった男子も「家族と連絡が取れず心配だ」と言い始めた。

18:30~19:00
様々な情報がワンセグTV、 ラジオにより入る。
震源は牡鹿半島沖、M.8.8 (後にM9.0に変更)

19:12
1人の男子生徒が言った。
「これはやべえぞ」
何が起きたのかと思った。「L君の家が無いって・・・
本当に驚いた。これは大変なことになってしまったと思った。

20:00
もう一人の生徒が家を流されたというのか分かった。宮古市赤前地区は壊滅的な状態であることが分かった。小さいおにぎり(直径5cm)を一つ食べる。

20:00~21:00
山田町の時報が入った。大沢、大浦、北浜が水没。大沢、柳沢、長崎県が山火事。
(後にこの情報はかなり誤りがあることが分かった。大沢は店舗一つが燃えたのみであった。そして、山火事ではなく、山田町中心市街地の大規模火災であった。ほぼ全焼で二日間夜通し燃えた。消すすべもなく・・・・)
また、鉄道の鉄橋が落橋。

山火事という情報を聞いてしまったので家が心配になった。
(自宅は高台、山の近くにある。)
情報は人をより心配させた。

21:30~1:00
寝れない夜。寒い。空腹。

3月12日(土)
1:00~4:00
睡眠。

4:10~6:20
起床。廊下のストーブで暖まる。長野で地震。

6:20~6:50
点呼

6:50
机を2A、2Bに移動し、1A、1B、1Cの 男子を2Cに集めストーブを入れる。(1台)

7:20
朝食のおにぎり配られる。(タ食と同じ大きさ)
「列車17:43に代行バス、19:20復旧予定 」という訳の分からない張り紙が落ちてた。

昨夜から続々と親の迎えにより帰宅していった。今日は山田町豊間根・宮古市津軽石方面を中心に帰宅していく。

7:20~10:30
トランプをした。腹が減った。津波が来ると消防団の人が外で騒いでいたが、来なかった。
福島第一原発が大変なことになっているらしい。
学校の公衆電話は使えなかった。携帯もつながらなかった。171も録音できない。
疲れがどんどんつのる。

10:30~11:30
横になって休む。

11:30~12:00
昼食はおにぎり、あたたかい味噌汁。教師や生徒がつくった。

12:00~13:00
疲れからか多数が寝る。

13:00~13:30
登山部部室に行く。コッヘル、ガス缶、登山靴、ガムテープ、ガスヘッド、 残りの銀マットと寝袋を持ってくる。

13:30~14:00
再び横になる、早く大津波警報が解除されてほしい。そうすれば帰れるから。
あー。2泊するのかなぁ――。

14:00~ 15:00
睡眠

15:00~16:20
テラスでくつろぐ。帰りてえーーーーーーー。

16:20~17:00
2-Eに残った1年男子20名を移動。暗幕と段ボールを組み合わせて寝やすさがUPした。
ストーブ2台を入れた。
警報が解除されても迎えに来れないだろうから、歩いて帰ろうかなぁーーーーーー。

ラジオでニュースを聞いていると、野外にいる人もいるらしい。そのまま夜を迎えるが救助か来ないので自ら対処していかなければならないらしい。
サバイバルだなぁと思った。

17:00~17:30
夕食(うどん1.5杯、おにぎリ2つ) 久しぶりのしっかりした飯だった。
人が少なくなったからなのか。

17:30
畳を武道場から1人1枚分運び出す。快適に寝れそうだ。
床は固く、冷たい。やはり畳が必要だった。

17:30~19:00 お茶が支給される

19:00~6:00
この問にチョコや2Lのジュースが3本支給された。学校の電気は回復したようだ。

3月13日(日)
6:00
起床。11時間も寝てしまった。

7:25
朝食。おにぎり1個、 ミネストローネ1杯、みそ汁1杯、フルーツ、おじや、ポテトサラダ。

8:00
社会科教室で指示。2年男子は水くみへ行き、その他の人は片づけ、掃除をしようという指示。また女子には別の指示があった。
その後体育館が開放されたという。この日のうちに全員が学校から出たという。どうしても帰れない人は友人宅へ行ったという。

僕は8:00に友人Sがおばの迎えで帰るというので車に乗せてもらうことにした。
帰れると思った時はとてもうれしかった。


友人のおばとおじの車に乗せられていった。途中、 コンビニに寄り、日持ちしそうな物を買った。宮古市の山側の集落をまわり豊間根へ出る道を進み、いよいよ大沢が近づいてきた。
「見たら驚くぞ、今までの大沢はもう無え」
おじさんはそう言った。パチンコ屋の駐車場に停まると、そこは別世界だった。

がれき、がれき、がれき・・・・・
建物が無いため海が近くに見える。
これが俺たちがが長年住んでいた街なのか・・・・・
通学路はがれきと化していた。
「あれがG君の家だよ」
おばさんがそう言った。驚いた。信じられられなかった。G君の家はそこから数百メートルも離れていた。 いったいどんだけ高く、強い津波が来たのか・・・・・
できればこの目でここで津波を見ていたかった。

10:00
歩いて自宅へ向かった、 坂を下りると隣のおじさんが下の方を指さして、
「あそこで作業してるよ。」
という。なぜ?と思い、よく見てみるとうちの小屋だった。
「こんなところまで・・・」
やはりすごく流されていた。 僕はすぐさまそこにかけよった。
すると全員無事であることが分かった。弟は中学校から近くの高校に避難しているという。みんな心配していたらしい。

10:00~11:30
小屋の片づけを手伝った。小屋の隣に住んでいる親戚の家の犬が床と壁の間に挟まっていた。
なんとかバールでこじ開けて助け出したがもう硬直していた。
死んでいた。・・・・・・。
もっとショッキングな出来事があった。妹が死体を見つけたという。
最初、長靴が落ちていると思ったら、ズホンと繋がっていて、膨らんでいるからびっくりしたとしいう。
僕もブルーシートをかけられた2人の死体を見た。手足は硬直しブルーシートからはみ出ていた。これは事実なのかと目を疑った。

11:30~12:00
昼食(カップラーメン)

12:00~13:00
道路か町の中心街につながっていることを確認。
地元テレビ局の取材を受ける。また大沢(特に川向地区)の被害が甚大であることを確認した。 (堤防が低いからか?)

13:00~15:00
弟を迎え高校へ。 (山沿いの集落をまわって)
町の中心街は焼け野原となってた。煙がくすぶっていた。
まるで戦争のあとのようだった。

15:00
弟および、迎えにいった自分、祖父、母帰宅。

15:00~16:25
米をガスで炊く①

16:25~17:00
休息

17:00~17:20
夕飯(チャーハン2杯、温かい味噌汁、大人は白飯)

17:20~17:30
これを書く。

17:30~17:40
休息

17:40~17:50
自衛隊から水の供給(1人1L)

17:50~18:00
休息

15 :00~20:00
ラジオを聴く。津波注意報全て解除。 この震災の名前はNHKでは「東北・関東大震災」ということが分かった。
宮城県死者1万人単位の予測

20:00
就寝

3月14日(月)
6:00~7:00
起床。ガスで米を炊く②

7:00~8:00
朝食(白飯、塩辛、味噌汁)

8:00~10:30
小屋のあった場所で流された機械探し。

10:30~12:00
津波か来るだの、放射線が来るだのデマの嵐。やめてほしい。

12:00~12:30
昼食(白米、酢だこ)

12:30~ 13:30
昼寝

13:30~15:00
大沢を歩いてみた。(かれきを越えて進んだ) 自分がどこを歩いているのか分からなかった。 どこがどこやら・・・・・・
かつての面影はほとんどない。 自衛隊が、がれきをよけて道路を復旧させてくれていた。

15:00~15:30
水くみ(自衛隊がくれた10L飲料水の袋は何度も使えるようだ。)

15:30~16:15
米炊き③

16:15 ~16:20
これを書く

16:20~16:30
休憩

16:30 - 17:00
タ食(とうろろかけご飯、味噌汁、ほたて)

17:00~17:30
片づけ

17:30~20:00
電気のない夜である。テーブルのまん中にろうそくを置き、一部屋に集まる。そしてラジオを聴く。ラジオからは安否情報が流れる・・・・・

20:00
就寝。

3月15日(火)
6:00
起床

6:00~6:45
米炊き④

6:45~7:00
朝食(卵焼き、白飯、味噌汁)

7:00~7:30
片づけ

7:30~8:00
休息

8:00~8:30
小学校(避難所)に衣服を届けようと思い、使っていない衣服を集めた。
そこに内陸に住んでいるおばが、食料等を買ってきてくれた。 宮古市田老の親戚の家は流されたそうだ。

8:30~9:30
小学校に衣服を届ける。

9:30~9:40
米をとぐ

9:40~9:50
これを書く

9:50~10:25
数字(勉強)

10:25~11:05
米炊き⑤

11:05~11:15
国語(勉強)

11:15~11:30
昼食(おにぎり又は白飯といかの酢づけ)

11:30~13:00
昼寝

13:00~14:40
国語。ラジオによると原発はいよいよ深刻な状況らしい。

14:40~14:45
井戸水で頭を洗った。とても気持ちよかった。

14:45~15:15
小学校へ妹の筆箱を取りに行く。 コミュニティーセンター(避難所)に秋田テレビの中継車来る。
役場に衛星電話10台設置されたらしい。

15:15~16:00
ベニヤを運ぶ。小屋にあった車を発見。

16:00~16:05
これを書く。

16:05~16:30
休息

16:30~17:00
夕飯 (白飯とそば。)

17:00~17:30
片付け

17:30~20:00
ラジオを聴く。.

20:00
就寝

3月16日(水)
6:00
起床。雪が降っている。積雪約3cm

6:00~6:40
米炊き⑥(祖母は井戸水で手洗い洗濯 )

6:40~6:50
カレー作りを手伝う。

6:50~6:55
これを書く。

6:55~7:00
休息

7:00~7:20
朝食(目玉焼き、白飯、味噌汁、焼鮭)
7:20~ 7:30
片づけ

7:30~9:20
お湯をやかんで沸かし頭と体を洗う。

9:20~9:30
水くみ(飲み水と井戸水(使い水)に分けてくむ)

9:30~9:45
休息

9:45~10:30
衛星電話が設置されたと聞き、小学校に行くが、無かった。

10:30~11:00
英語(勉強)

11:00~11:30
昼食(おじやor白飯等)

11:30~11:40
休息


11:40~14:30
山田町役場へ電話しにいく。
新聞を読むことができ、やっと他地域の被害状況を確認できた。電話をかけることができた。街を歩いてみると、どうやら火元は駅周辺。思い出の駅は燃えてボロボロだった。まだ焦げ臭かった。思い出の街はもう無かった。
思い出したことが一つある。それはあの日、いつもなら駅に自転車で行くのに、車で行ったため自転車が助かったことだ。奇跡だと思った。

14:30~15:00
小屋周辺の見回り。

15:00~15:40
米炊き⑦

15:40 ~16:00
休息

16:00~16:30
タ飯 (カレー・味噌汁)

16:30~ 17:10
休息

17:00~17:20
自衛隊から水と食料をもらう。(おにぎり2個×8パック)

17:20~20:00
ラジオを聴く。

20:00
就寝

3月17日(木)
6:30
起床

6:30~7:00
朝食

7:00~11:00
小屋を解体し木材を運ぶ。

11:00~11:30
昼食

11:30~12:30
休息

12:30~13:00
情報を収集するため小学校へ行く。すると小学校時代の同級生1人が行方不明ということを知る。 驚きを隠せなかった。16歳で…….。夢や希望もあっただろうに…….
生き残った者が精一杯生きなければならないことを強く痛感した。

13:30~15:30
小屋を解体し、木材を運ぶ。

15:30~16:00
米炊き⑧

16:00~16:30
休息

16:30~17:00
タ飯

17:00~17:50
水くみ&コミュニティーセンターへ食料調達 。

17:50~20:00
ラジオを聴く。

20:00
就寝


3月18日(金)
6:00
起床

6:00~7:00
米炊き⑨

7:00~8:00
朝食(おじや)

8:00~11:30
近所のOさんから木材をもらい、それをリヤカーで運んだ。 (弟、母はコミュニティーセンターから物資をもらう。)

11:30~12:00
昼食( 配給されたおにぎりとそば)

12:00~14:00
昼寝

14:00~15:00
休憩

15:00~16:30
木材整理

16:30~17:00
タ飯(おじや、かぼちゃのスープ、サバの味噌煮)

17:00~20:00
ラジオを聴く

20:00就寝

今日で一週間になるが、未だにライフライン復旧のめどが立たない。
日常生活がこんなに欲しくなるとは・・・ ・・・
「何でもないようなことが幸せだったと思う」ロードの歌詞のようだ。

3月19日(土)
7:00
起床

7:00~7:30
朝食(おじや・味噌汁)

7:30~9:00
ナイフを洗う。

9:00~10:00
小学校へ情報収集をしに行く。高校の情報は無かった。同級生が多数避難していることが分かった。

10:00~11:30
散歩

11:30~12:00
昼食(おにぎり、酢だこ、酢イカ、麦茶)
コミュニティーセンターまで電気が来ているようだ。

12:00~12:20
拾ったUNOを整理する。

12:20~12:25
これを書く。

12:25~15:00
ゲームをする。

15:00~16:00
休息

16:00~17:00
米炊き⑩

17: 00~17:30
夕飯(麻婆大根、白飯)

17:30~20:00
ラジオを聴く。

20:00~22:00
ゲームをする

22:00
就寝

3月20日(日)
6:00
起床

6:00~6:40
米炊き⑪

6:40~7:00
休息

7:00~7:30
朝飯(白飯・麻婆大根)

7:30~11:30
木材運び

11:30~12:00
昼食(ラーメン(親戚から)、白飯)

12:00~13:00
UNO

13:00~14:00
CD復旧

14:00~16:00
木材探し&運び

16:00~17:00
米炊き⑫

17:00~17:30
支援物資を貰いにふるさとセンターへ

17:30~18:00
夕食(チャーハン、白飯、野菜炒め)

18.00~19:00
UNO

19:00~20:00
ラジオを聴く

20:00~21:00
ゲームをする

21:00
就寝

3月21日(月)
6:00
起床

6:00~7:00
米炊き⑬

7:00~7:30
朝食(目玉焼き、白飯、味噌汁)

7:30~8:00
休息

8:00~9:00
日本赤十字社和歌山支部へ(小学校校長室)
右目が少し荒れた。弟は足に釘を1ミリ程は刺した。

9:00~10:00
散策。おじと従兄弟一家来る。

10:00~11:45
洗濯。

11:45~12:00
休息

12:00~12:45
昼食(カップラーメン(従兄弟一家が持ってきてくれた)

12:45~15:30
小屋の屋根ばらし

15:30~16:00 米炊き⑭

16:00~16:30 水くみ等

16:30~ 17:00
夕食(白飯・大根の煮つけ(甘みそ)、味噌汁、冷凍庫に残ってた鮑)

17:00~17:30
片付け

17:30~17:40
UNO

17:40~19:30
ラジオを聴く

19:30
就寝

3月22日(火)
6:15
起床

6:15~6:20
準備

6:20~6:40
米炊き⑮

6:40~7:03
これを書く。

7:03~7:30
休息

7:30~8:00
朝食

8:00~ 8:20
体と頭を洗う

8:20~8:27
あたたまり

8:27~8:30
これを書く。

8:30~9:00
学校へ妹を送る.。理料室でテレビ見る。 テレビのテロップで高校の情報入る。
3月25日 10:00~終業式

9:00~11:30
屋根運び

11:30~12:00
昼食(カップラーメン)

12:30~14:00
屋根運び

14:00~15:00
新聞を読む

15:00~16:00
屋根運び

16:00~17:00
米炊き⑯

17:00~17:30
夕食 (手作りパスタと白飯。)

17:30~18:00
片付け

18:00~20:00
ラジオを聴く

20:00
就寝

3月23日(水)
6:00
起床

6:00~6.30
米炊き⑰

6:30~ 7:00
休息

7:00~7:30
朝食( 白飯、焼鮭)

7:30~7:30
水くみ


7:40~9:00
寝袋のほつれ直し

9:00~11:30
資材運び

11:30~12:30
昼食(そば)

12:30~13:00
休息

13:00~15:00
近所の温泉へ行く。(従兄の運転)

15:00~16:00
水くみ

16:00~ 17:00
米炊き⑱

17:00~17:30
夕食(鶏めし)

17:30~18:00
片付け

18:00~20:00
ラジオを聴く。(山田町災害FM開局)

20:00就寝

3月24日(木)
6:30
起床

6:30~7:00
米炊き⑲

7:00~7:30
朝食

7:30~8:00
水くみ

8:00~11:30
資材運び

11:30~12:00
昼食(カップラーメン)

12:00~13:00
休息

13:00~15:00
自転車整備

15:00~15:30
米炊き⑳

15:30~16:00
これを書く&明日の準備

16:00~16:30
夕食(カレー)

16:30~17:00
片付け

17:00~20:00
ラジオを聴く

20:00
就寝


3月25日(金)
5:00
起床

今日で2週目。ライフライン復旧のめどはまだない。しかし今後の学校の予定が立った。

5:00~5:30
頭・体を洗う。

5:30~6:15
朝食(おにぎり)

6:15~9:30
自転車登校(初) 山田町から宮古市まで25kmあるが交通機関はまだ復旧しておらず、ガソリンも貴重なため自家用車で送ってもらうのも憚られたためママチャリでいった。時折、自衛隊の装甲車みたいなのとすれ違った。峠がきつくて歩いた。

7:30~9:20
時間が余ったので高台の宮古病院まで行ってみた。宮古もすごい被害だったことが分かった。

9:20~10:00
友人と会話する。久しぶりに日常に触れた気がした。

10:00~12:00
終業式等。
ボランティア活動を学習活動よりも優先しなさい、と言われた。(3/25~4/6までの期間)

12:00~13:00
買い物

13:00~15:00
自転車下校。荷物が重く、向い風だったので、とっても疲れた。全然前に進まなかった。
帰りは全てゆるい上り坂だということを知らなかった。また、峠は前半部は帰りも上り坂だということを知らなかった。

15:00~15:30
休息

15:30~16:00
米炊き(21)

16:00~16:30
夕食(おにぎり、ハンバーグ, 白飯)

16:30~17:00
片付け

17:00~19:50
ラジオを聴く

19:50
就寝

3月26日(土)
6:45
起床

6:45~7:15
米炊き(22)

7:15~7:30
休息

7:30~8:00
朝食

8:00~10:15
これを書いたり、新聞を読んだりする。

10:15~11:30
物理(勉強)

11:30~ 12:00
昼食(うどん2杯、白飯)

12:00~13:00
おえかき(妹と)

13:00~13:10
水くみ

13:10~14:00
物理(この間に従兄弟が水を届けに来る)


14:00~15:30
通電通水通瓦斯祈願書く

15:30~15:50
米炊き(23)

15:50~16:00
これを書く

16:00~16:30
通電通水通瓦斯祈願を書く

16:30~17:00
夕食(白飯・おでん)

17:00~ 17:30
休息

17:30~ 20:00
ラジオを聴く&通電通水通瓦斯祈願を書く

20:00
就寝

3月27日(日)
7:00
起床

7:00~7:30
朝食(白飯・ゆで卵・味噌汁)

7:30~8:00
休息

8:00~10:30
一輪車(物を配ぶほう<俗にネコ>)のペンキ塗りと、垣のコンクリートが寄りれたのでそれの修理。

10:30~11:30
米炊き等(24)

11:30~1200
昼食(カップラーメン・白飯)

12:00~14:00
We pray recovering life line.等を書く。(※今思うとライフラインは和製英語なので間違ってる)


14:00~15:00
山田町大沢の浜川目地区に行く。(弟と)ここもすごい被害だった。
何も無かった。海に屋根やたたみが浮いていた。堤防が低いため。引き波で全てが海に流されたため、他地域よりがれきが少ない。
家に赤ペンキで書かれた「撤去OK」「解体可」「破壊OK」などの文字・・・・・・・・

15:00~16:00
おじや従兄弟が来る。
(母と弟は物資の配給に行ったが、今日は配給が遅くなりそうなので、弟だけ帰宅し、母が配給の列に残った。)

16:00~17:00
味噌汁、焼肉づくり( 母帰宅、物資届く)

17:00~17:30
夕食(にんにく焼肉キャベツ付き、白飯、味噌汁)

17:30~20:00
ラジオを聴く。

20:00
就寝

3月28日(月)
6:10
起床

6:10~ 6:50
米炊き(25)

6:50~7:10
朝食(目玉焼き・ラー油ふりかけ・白飯・味噌汁)

7:10~7:20
これを書く。

7:20~8:00
休息。

8:00~8:30
頭・体を洗う

8:30 ~10:00
学校へ行き、情報収集。 水くみ100L

10:00~10:30
見回り

10:30~11:00
空気入れ、自転車の鍵整備。

11:00~11:30
小屋の残骸の釘抜きの手伝い。

11:30~12:00
昼食(うどん・白飯・梅干し・沢庵)

12:00~13:00
キャンプ用ガスコンロ整備

13:00~15:40
釘抜き

15:40~16:00
米炊き(26)

16:00~16:07
これを書く。

16:07~16:30
ガスコンロ整備

6:30~ 17:00
タ食

17:00~17:30
ガスコンロ整備

17:30~20:00
ラジオを聴く。

20:00
就寝

3月29日(火)
7:00
起床

7:00~7:30
朝食

7:30~8:00
休息

8:00~11:30
釘抜き等の手伝い。
11:30~12:00
昼食(α米五目ご飯、そうめん焼豚入り)

12:00~13:00
なぞの支援物復「MRE」の解読。
Meal Ready to Eat の略。アメリカ国防総省が米軍に向けて開発した非常食らしい。(※正確には戦闘糧食)日本人の口には少し合わないかもしれない。

13:30~ 14:00
散歩

14:00~15:30
自転車修理

15:30~15:55
米炊き(27)

15:55~16:00
これを書く

16:00~16:30
散歩

16:30~17:00
夕食(ソーセージ2本、冷奴、白飯、味噌汁)

17:00~17:10
新聞を読む。

17:10~17:15
これを書く

17:15~ 20:00
ラジオを聴く。

20:00
就寝

3月30日(水)
7:00
起床

7:00~7:30
朝食(白飯、味噌汁、サバ缶)


7:30~8:15
休息

8:15~11:30
釘抜きの手伝い。

11:30 ~12:00
昼食(カップラーメンと、たこ焼き)
たこ焼き、リンゴゼリー、わたあめが無料で配られた。

12:00~13:00
休息

13:00~14:00
おばと従姉妹と父が泊まりに来て、遊ぶ。(被災者(我々)の元気な様子に驚く)

14:00~15:30
散歩

15:30~16:00
米炊き(28)

11:00~16:30 休息

16:30~17:00
夕食

17:00~20:00
テレビ(ワンセグ)を見たり、ラジオを聴いたり、被災地の様子を話した。
地震発生当時、母はきんぴらごぼうを作っていて、祖父母は散歩帰宅直前、僕たち兄弟は学校にいて、父は高所作業をしており、速報を聞いて梯子で降りたという。曽祖母は冷静に部屋にいたという。

津波は海の水かさが一気に増して、溢れてくるように感じだったという。そして堤防から水が溢れ、家々かおもちゃの様にに流れたという。母は流れる自宅を見て、隣で泣く妹の友人の母を慰めていたという。

20:00
就寝


3月31日 (木)
6:15
起床

6:15~6:35
米炊き(29)


6:35~7:00
休息

7:00~7.30
朝飯(白飯、玉子焼き、味噌汁、カニ缶、沢庵、納豆)

7:30~8.00
休息

8:00~8:45
水くみ

8:45~8:50
これを書く

8:50~10:00
浜川目に行く。

10:00~11:00
米炊き(30)

11:00~12:00
昼食(カップラーメン)

12:00~13:00
休息

13:00~15:00
温泉に行く

15:00~16:00
米炊き(31)

16:00~17:00
休息

17:00~17:30
夕食(フランクフルト、白飯、味噌汁)

17:30~20:00
UNO&ラジオを聴く。

20:00
就寝


4月1日(金)
本来、今日から新年度であるが、このような新年度の迎え方は初めてだった。エイプリルフールの報道は一つも無い。デマ防止のためであろう。
日本中に広がる自粛ムード ・・・・・・・
花見も、祭も中止。経済を動かすためには、もっと活発にしたほうがよいのに・・・・・。今日で3週間。明後日には電気がつくらしい。また本日この震災の名称を「東日本大震災」にすることが閣議決定した。

6:00
起床

6:00~7:00
米炊き(32)

7:00~8:00
朝食

8:00~9:00
水くみ

9:00~11:00
電気がどこまで来ているか見る。そろそろ来そうだ。 電柱を立て始めている。

11:00~11:30
米炊き(33)

11:30~12:00
お好み焼き

12:00~14:00
遊ぶ(従姉妹と)

14:00~16:00
散歩

16:00~16:30
散歩

看護師のおばが変わり果てた故郷を見て「思うものがある。」といっていた。
道の両サイドに高く積まれたがれき。その1つ1つが思い出の詰まった物だったのろう。机、アルバム、卒業証書、ランドセル、 バッグ 、スーツ、タンス・・・・・・・・・・
どれだけの人を、ものを、思い出を、我々は失ったのか・・・・・・・・・

16:30~17:00
夕食(カレー)

17:00~18:00
ラジオを聴く
18:00~19:00
頭・体を洗う。

19:00~ 20:00
ラジオを聴く。

20:00
就寝

4月2日(土)
6:40
起床

6:40~7:00
米炊き(34)

7:00~8:00
水くみ

8:00~10:00
遊ぶ

10:00~11:00
これをまとめる。

11:00~11:30
米炊き(35)

11:30~12:00
昼飯(白飯、塩ラーメン)

12:00~13:00
父とおばと従姉妹帰る

13:00~15:00
掃除

15:00~16:00
休息

16:00~16:30
米炊き(36)

16:30~17:00
夕食(白飯、天ぷら、味噌汁)

17:00~18:00
電気がどこきで来ているかを見る。どうやら電線はつながったらしいが、通電は明日。

4月3日(日)
6:00
起床

6:00~7:00
FINAL米炊き(37)

7:00~7:30
朝食 (卵&とろろかけご飯)

7:30~8:00
片付け

8:00~9:00
水くみ

9:00~11:30
小屋をジャッキで上げる

11:30~12:00
昼飯(焼きそば)

12:00~14:00
ゲームをする。

14:00
電気かつく。

停電期間 2011年3月11日14:46~ 同年4月3日 14:00まで
22日と23時間14分
(551時間14分)

今だに他地域の約3万戸では停電が続いている。また未だに我が家でも断水は続いている。

日常とは電気だった。電気かつくと、一気に日常へもどった。
また電気がついて2~3日は慣れないためか頭痛がした。テレビに違和感を感じたがそれも2~3日のことで、すぐに16年間染みついたほうの習慣に戻るのだった。
電気かついたとき、この上なく幸せを気持ちになった。

14:00~19:00
二層式洗濯機設置。これで手洗いをしなくて済むようになった。

17:00~17:30
夕食(からあげ、白飯、味噌汁)


17:30~ 20:00
居間でTVを見る

20:00~ 23:30
部屋でTVを見る。

23:30
就寝

4月4日(月)
7:10
起床

7:10~7:20
休息

7:20~7:50
朝飯(白飯、天ぷら、納豆、味噌汁)

7:50~8:00
片付け

8:00~8:15
TVを見る

8:15~9:30
バリカンを直す

9:30~11:00
水くみ&ストーブ磨き

11:00~1120
休息

11:20~12:00
昼食(ケチャップライス、カップラーメン)

12:00~14:00
休息

14:00~16:00
砂利取り

16:00~17:00
休息

17:00~17:30
タ飯(おでん・スパゲティサラダ)

17:30~19:00
TVを見る

19:00~ 20:00
学習(数学)

20:00~ 21:00
仮眠

21:00~ 24:00
ラジオを聴く

24:00
就寝


4月5日(火)
7:50
起床

7:50~8:15
朝食

8:15~8:30
休息

8:30~11:30
学習(数学)

11:30~12:00
昼食

12 00~14:00
休息

14:00~17:00
学習(数学)

17:00~19:00
TVを見る

19:00~21:00
学習(数学)

21:00
就寝  明日から学習支援活動(任意登校)が始まる。またチャリで行こうと思う。

※祖母が常日頃から備蓄していたため食料は比較的ありました。備蓄大事です。

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