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陰陽師と因習

TVを点けていたら、朝のNHK「おはよう日本」で、羽生結弦くんの使用曲として知られた「陰陽師」のメロディーが流れており、久しぶりに聞いた気がした。
それで昔のことを様々思い出したので、つらつらと書いてみる。

私が幼い頃に亡くなった祖父は、農民として生まれ、あまり他人と深く関わることなく生涯を終えた人だった。
規律や思想とは無縁の人生だったと思うが、日々の生活を送るに当たって何かと参照していたのが、「神宮館高島暦」。
調べてみたらこの冊子、発行元の「株式会社 神宮館」は今もあって、ホームページのオンラインショップでは、私が子供の頃に祖父が読んでいたものを覗き見したのと同じような表紙の暦を販売している。
その内容は九星術の体系を元にしているとはいうものの、古代から続く陰陽道の系譜に直接連なるというわけではなく、既存の神道や宗教法人とも一線を画しているらしい。

最近の高島暦は見たことがないが、私が覚えているそれは、謎と不思議に満ちた異界の書だった。
生年月日と方角やその日の運勢との関係を事細かに分類し記している占術書としての部分以外に、古式の礼儀作法、自然界の表徴に拠る吉凶の判定、「食べ合わせ」(有名なものだけじゃなくて数十種類もあった)とか、人の行動を良しとしたり駄目出しをしたりする規範の数々が記されていた。

現在ではそのほとんどが迷信として一蹴されるようなものだけど、かつてはそこに記された合理性の無い内容を因習として強要され、苦しんだ人も少なからずいたのではないかと思う。

私の祖父は(黒縁の眼鏡を掛けて縁側などで)高島暦を度々見ていたが、それに従って生活を精緻に組み立てていたわけではなく、巷ではこんなことが言われているようだぞ、と言うぐらいのつもりだったようだ。
父母は迷信とは無縁の人たちだったが、祖父がそうやって見ている占術の本についてことさらに糾弾するようなことはなく、互いの遠慮により家庭は平穏を保っていた。

占術や暦道は古来、選択肢を伴う意思決定において、リスクを負うという心理上の負担を軽減するために発生したのだと私は思う。
しかし、その内容が体系として複雑怪奇なものになり、細かく生活や行動を規制・強制する典拠とされるに至って、人が人の自由な選択を奪うための道具と化するような本末転倒な結果を招くのは、どこの地域、いつの時代にも見られたことかもしれない。
占術に限らず宗教や国家の儀礼的な部分、例えば教会キリスト教の典礼やイスラムのコーラン、慣習に基づく現行の民法等にもそういう側面があるのではないだろうか。

久し振りに「陰陽師」のメロディーを聞いて、そんなことを考えた。

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