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フィールドワーク論

料理研究家の人がコーカサスの北側にあるロシアの各共和国を歩いた旅行記。エネルギッシュで強烈だけど、以下の文を見て考え込んでしまった。

「(取材先で出会った様子が)『インターネットと違う』と思う発想が少しでもある私が馬鹿なのだ。『インターネットが違う』」。
旅に出ます。秘境、北カフカスへ。|世界の料理NDISH(エヌディッシュ)

この考え方、現実(現場)と再構成現実(記事、ネット情報等)とが縄綯う如くあるのがこの世界だ、という私の主張とは相容れないのだろうか。
この件について改めてよく考えてみる。

それは、何故フィールドに出て調査をするのか、という根本的な理由に帰着すると思う。
生のフィールドと情報化されたフィールドとは「違うのが当たり前」。
素の現実である生のフィールドは、あらゆる位相にわたる情報を保有しているが、そこに入り観察する私たちは、その一部しか受容することができない。
地域の文化についていえば、こういうことだ。
例えば、連続する山脈の麓に住まう人々の生活は、マクロな視点で見たときには共通点があるにしても、その中のある水域、ある盆地、ある集落という具合に視点を絞っていけば、それぞれ固有の特徴が浮き彫りになってくるはず。
個別の事例を深く掘り下げていくならば、全体を一律に語ることは難しくなるかもしれない。

(対象と捉えるもののスケールによって差が生じると考えてもよい。
海岸線の長さを精細に測定しようとすると無限大に発散する、と言われている『海岸線のパラドックス』とのアナロジーが成り立つかも?)

現地に関わろうとする私たちが、どういう目的で、どういう視点から見るかによって「現実」の姿は変わってくる。スケールの大小についても同様。
つまり、フィールドワークの結果として得られた情報は、フィールドワーカーの目的や視点が変われば千差万別となり得る。
これが、存在としての現実が豊穣だと言われる所以。

それ故、現実が間違っている、情報が誤っているという問答は無意味だと思う(嘘をつく場合は別)。
現場を詳しく識るほどその構造への理解が深まり、構造への理解が築かれてゆくほど現場の実情が見えてくる、という双方向の交流が、真に実りあるフィールドワークの在り方じゃないだろうか。

「山、山にして山に非ず。是を山と云ふ。如何なるか。」
個と全体との関係性の理が、完全に繋がった。これは、砂漠に湧き出す尽きぬ泉だ。

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