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言葉がなくなる日を見据えて綴る言葉 世界2.0読書前感想文

佐藤航陽氏の著書世界2.0を購入しました。
テクノロジーには全く詳しくないのですが、たまたま見たテレ東のYouTubeでの彼の話がとても興味深かったので読んでみたくなりました。
読んだ後、どの程度理解できるのか、どんなことを考えさせられるのかが楽しみですが、あえて、読む前の勝手な先入観で今考えていること、メタバースへのイメージなどを残しておきたいと思いました。

まず、この記事のタイトル「言葉がなくなる日を見据えて」という部分。
これはけっこう前から思っていたのだけど、これからもずっと人間が絶滅しないのであれば、どこかの段階で言葉というのはなくなるのではないかなと私は考えています。

子供の頃から家族には、ああ言えばこう言うだとか、屁理屈だとか言われてきた私にとっては言葉はすごく大きなツールで、語尾とか言い回し一つで与える印象を考えて悩んだり、逆に余計に勘ぐったりしてその細部にこだわってきた部分が少なからずあったかと思います。
だからこそ、英語という自分の不自由な言語環境の中で暮らしていると、やり取りの中で大筋を追うだけで必死で細部にまで手が届かないために、思惑を伝えるのも読み取るのも難しく、会話自体にコンプレックスを抱えて、接触を避けるから上達もしないという悪循環に陥っています。(それをカバーできるようなソーシャルスキルが不足していることも大きいですが)

言葉に頼って生活してはいるのですが、やっぱり言葉がある限り手に届かないこともたくさんあるなというのは昔から考えていました。
高校生の頃国語の教科書で読んだ唐木順三氏の「鳥と名と」という随筆で、名前をつけることとはその個体を他と切り離して分けることだという内容にすごく感銘を受けたのがきっかけだったと思います。

異質なものが排除の対象とされてきた時代では、それぞれに名前を与えて主張することで尊重されるべき存在であることを認めるのは重要でしたが、多様化が叫ばれて久しい今、それぞれが違うことが当たり前となる風潮で、その違いに都度都度名前をつけていたらキリがないことになってしまいます。
極端な話をすれば、今目の前で餌をついばむ雀と、通りの向こうの電線に留まる雀は別物だし、同じ雀でも今と一分後では違うのですが、それをいちいち分けて表現しますかということになります。

差別的なことに関して言えば、まだまだ特定の存在や、少数派、曖昧な属性に対して批判的な意見を持つ人はたくさんいるでしょうが、今生きている全ての人に浸透させるのは無理なのではと思います。自然淘汰で将来的にはほぼなくなるのではないでしょうか。いわゆる「古い考え」のままで他者を批判する人たちの声はスピーカーに載せられることはないだろうし、そうなれば世代が進むごとに同様の声は減り、自然に退化していくのだと思います。

この流れの中で違いを示すために役立ってきた言葉が役目を終えて統合されてくるのではないかと思います。
でもそれは違いが尊重されなくなるのではなく、違いが自明のものとして、言葉を通してではなく、肌感覚で理解しているという形になるのだと思います。今の私たちが、昨日の雀と今日の雀が厳密には同じでないというのがわかるような感覚で。

さあ、ここでようやくメタバースの話です。ちなみに私メタバース未経験なのはもちろんなこと、その他のSNSについてもノータッチに近いです。なのであえて本を読む前にど素人感覚で語ります。事前知識はこちらの動画のみです。

現実とは何ら一致しない存在としても在ることができるメタバースの中で生活を完結できる人が増えてくるとどうなっていくか考えてみます。

まず、見た目への執着は自他共に薄れるかと思います。誰でも好きなイメージで存在し得る世界なので、ビジュアルよりも中身、何を考えているのか、何を為すのかが評価の軸となっていきます。

当然リアルの世界でもビジュアルへのこだわりは薄れていくでしょう。
それだけではなく、メタバース内での生活循環がうまく回れば回るほど、物理的な体は軽視されていくかと思います。
大きな家などなくても快適な接続環境が整っていればいいわけです。

でも肉体的に養分を補給しなければ生きてはいけません。そこで脳科学が進めば、必要な栄養素をサプリメントで摂取しながらメタバースに接続することで、脳神経を刺激してごちそうを食べているような味覚刺激を得ることもできてくるかと思います。

さらにその先には、腕や脚、体全体をこのサイズで維持することの非効率さに注目が集まり、肉体は極限までサイズダウンして脳に特化するのではないでしょうか。

そしてここで言葉の話につなげます。
言葉の統合が進みある程度の差異が肌感覚で共通認識される世の中になっただけでは言葉の必要性は消えないかと思います。
しかし、メタバースの普及が進み、機能が脳に集約されていく過程で思考の直接的理解が進むのではないかと思うのです。
言葉というのは結局は思考の上に被せた表現手段に他ならないのですから、脳を読み取ることができれば、それが一番の本質のはずです。

佐藤氏の話を聞くまでは、大昔、言葉を持つ前の人々が行っていたでろう、動物的というか、本能的というか、インスピレーション的というか、そんな方法へ回帰していく未来というのも在るのかななんてちょっと考えていたりもしたのだけど、彼の話を聞いて、テクノロジーを通して、言葉がなくなる世界が迫ってくるのではないかという風に感じました。

御伽噺みたいなことを想像で並べてみたけど、読後には違う考えがもっと出てくるのか、楽しみにしながら読みたいと思います。


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