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しんせかい

今更だけど、北の国からって素晴らしい。
いろんな人たちがこのドラマの良さを語っているのを見聞きしたことはあったけどが、四十近くなるこの年まできちんと見たことはなかった。

私は今国外に住んでいて、こちらのテレビで放映されてるのを夫が気に入り、私も見るようになった。
今では毎週火曜日が楽しみで仕方ない。

北の国からにはまったことをきっかけに山下澄人さんの『しんせかい』を読んでみた。

独特な書き方だなと感じながら読み始めた。

私は読むのが遅いので、『しんせかい』を三日に分けて、もう一話の『率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか』も含めて、一冊読むのに四日かかった。読後思ったのは、まとまった時間をとって、間を開けずに一気に読みたかったということ。

『しんせかい』の最後の六行、『率直に言って…』の終わりから五ページ前の五行、これがたまらなかった。

ぼくは外へ出た。外へ出て空を見上げると大きな月が確かに出ていた。満月に見える。少し欠けているよにも見えた。月など出ていなかったかもしれない。夜ですらなかったかもしれない。

どちらでも良い。すべては作り話だ。遠くて薄いそのときのほんとうが、ぼくによって作り話に置きかえられてしまった。

しんせかい

できることなら建物の一つ一つ、電信柱、道の全部を記憶しておきたいと思うが無理だ。わたし、と呼ぶこれには無理だ。何時間か前のことすらあやふやなのだ。しかしこのからだ、この装置は違う。これまでの全てを記憶している。そのことをわたしが、ぼくが、思い出さないだけだ。思い出さないものがなかったことにはならない。そんなわたしやぼくの都合で世界が歪められてたまるか。こうして歩くこのからだをどこかから何かしらの生き物が見てるかもしれない。人間を含めどの生きものにも感知できない、されない何かしらによって、刻印されているかもしれない。これまでの全部が。

率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか

真実とはなんなんだろう、真実があるはず、でもそれを説明しようと言葉を使えば、その度、真実との隙間を認識せざるを得ないと思ってきた。

だからこそ、角度の違いで生じる見え方の差を利用して、うまく言語化できるかどうかで結果や勝敗が変わることのある実社会にスッキリしない感覚を抱くことも多かった。
それらの小手先のテクニックを越えた先に絶対的な真実があるんじゃないかと思っていたから。

でも今回この作品を読んで、そんなものなど、なんの意味もないんじゃないかと思い始めた。

絶対的な真実というものはあると思う。
でもそれに面した人たちの処理の仕方は千差万別でその分だけ、彼らの中にそれぞれの形の’真実’として存在し続けて、その人たちがその’真実’を抱えたまま社会を動かしていく。つまり社会も人も絶対的な真実ではなく、実社会に生きる人たちの中に存在する’真実’によってのみ影響を受けるのではないか。

これを具体的に当てはめれば、悩みを解消できるかもしれない。

いまの私の悩みは人見知りだ。狭いコミュニティでの生活なので出かければ名前は分からずとも見知った人たちがたくさんいる。
ここ1年以上は情けないことに、買い物でレジの人に会うのも心的負担を感じて頻繁に出かけたくないし、大型スーパーでは当然セルフレジ、会話が生じるファーマーズマーケットにはすっかり行けなくなってしまった。

これに対する自分の中での解釈はこうだ。

昔から友達付き合いが得意な方ではなかった。

学校生活では遠足などのバスの席決めをするときに困ったり、歌のテストで二人組を組めなくて一人で歌った記憶がある。
宴会などの際、自分が隣にきては嫌がられるのではないかと最初に座った位置から動けず、周囲の人には会話が盛り上がらず申し訳ないと感じていた。
コロナ流行以来、外出が減って人と合わないことに慣れてしまった。
英語の理解力が低いので、劣等感を感じる、かつ英語話者は自分と話してもつまらないだろうと思い、接点を避けたくなる。

これらは全て嘘ではない。ということは真実なのだと思う。

この真実に影響を受けて、現に私は外出後はすごく疲れるし、買い物も億劫だ。たくさんの知人に会った日などは帰りの車でひとり奇声を上げることもあるし、思い出して眠れないこともある。

でも真実はこれだけではない。
思い出せない学校の遠足もたくさんある。多分楽しかったんだと思う。
高校以来ずっと仲良くしてくれる友人もいるし、彼女たちとばかみたいに笑い転げたことも数え切れないほどある。
数年前は買い物に行くのに緊張しなかったし、ファーマーズマーケットに出店して接客してたことすらあった。
ここにも友達はいるし、出かけて楽しく帰ってくることももちろんある。

子供が幼稚園に入って以来、自主的に選んだわけではないコミュニケーションの場が増え、勝手がわからなかったり、うまくいかなかったり、恥ずかしかったりする経験が日々進行形で蓄積されている。

その羞恥心と過去から選出された私のうまくいかなかった人間関係の記憶が人見知りの私を作り出したのかもしれない。

それと同じように、体という装置、あるいは何かによって刻印された全ての中から選び出された一部の記憶によって固定された’真実’が人々の数だけ存在し、みな、それをもとに考え、動き、生きている。
いや、生きているということすら、誰かの何かの’真実’なだけで、本当かどうかわからないかもしれない。

なんて考えると少し、気楽になれるような気がした。

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