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文字を鎮痛剤にするということ

言いづらいこととか、自分の中で飲み込みきれていないことを相手に伝える時とか、『自分で納得できていないことを他人に伝えること』が苦手だ。
責任を負いたくないから。

相手も自分も不確かな情報で、間違っていても笑い話にできるならば、すすんで話す。
けれど、間違った時の”責”が、自分に来るのは別。
自分で納得できて間違っていたならば文句は言わない。間違ったのは自分で、あの時こう思ったことが違って、というフィードバックができるから。
フィードバックのできない感情を、どこにやればいいか分からないから、自分は、『いずれ自分に来るであろう”責”』を避けて生きる。

自分の一言で、全てのスケジュールがひっくり返るかもしれない。
今はただ、そのことが怖い。
そんなわけないのだ。自分のことを買い被りすぎるな。

そういった焦燥感を抑えるために活字を眺める。
他人の思考や脳内を、自分の焦燥感に上塗りして、現実から目を離す。
今、そういう使い方をしている。

他人の人生や感情を、ただの読み物として消費してしまうことに、時代を感じる。
だけど、自分の人生は、誰にも読まれずとも、そうあってほしいと思う。少しでも他人を引き込めるような物語だったら、それってすごいことだから。

そうして自分の感情を塗りつぶして安寧を得るのは、さすがにどうかしていると思うけど。

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