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雑記 吸入と排出

体験の話。

要するに、インプットとかアウトプットという話なのだが、単純に翻訳すると、「入力」と「出力」になる。
でも、それってどちらも、意識してやることだな、と感じる。

「出力」に関しては、間違っていないと思う。自分に何かがあって、それを別の形か何かにして出す。それは、自分の持ち得るパワーを使っている。そのうえ、意識して使っていることだろうから。

じゃあ、インプットが何かというと、自分の解釈では「吸入」とか「受動」だと思う。そこにいるだけで、自然と入ってくるもの。
でもそれだと、<インプット>という言葉ではなくなってしまうんだろうな。別の言葉では、どう表したらいいんだろう。

というのも、自分は、インプットするぞ!と意気込んだことはない。でも、アウトプットしないと死ぬかも、と感じることは、よくある。
それはきっと、自分が勝手に吸入してしまっているのだ。何かを。その何かを、別の何かに変えて出さないと、体がおかしくなる。
いや、体がおかしくなるという表現も変だ。脳?感情?とにかく、そういう、言語化の難しいところにピンと来る。

そういうことに気づいて、どう処理したら元に戻るか判断がつく、というのは、不思議なところだ。自分のことをよくわかっていると褒めるべきなんだろうか。

ともかく、自分は今日、映像作品を一本見た。日曜日の朝、9時とかそこらの、アレだ。
30分にも満たないソレが今、こうして私に「排出」を促している。

何か形にしなくちゃ、と思っても、創作話が書けるような日ではなかった。創作するより、感情の整理の方が先だ。

感情の整理を文字でするあたりは、昔から何も変わっていない。
話をする前に脳内で推敲するくらいなので、話しているのも文章にするのも、さして変わりがないのかもしれない。

勝手な何かの「吸入」は、途切れると多分、自分の何かが壊れると思う。
実際、自主的なインプット(=自分の場合は、舞台とかライブ。以下、現場)がないと、日常は急に平坦になる。色褪せはしないし、生活にメリハリがないわけでもないのに、どうしてか"平坦"に感じるのだ。

勝手な「吸入」が、その”平坦”を変えるかというとそうでもない。だけど、「吸入」を感知できて、「排出」できる術を知っているのは、いいことだ。

今度の「入力」が「出力」になるかはさておいて、その「入力」の中にも「吸入」があるかもしれない。
それはやっぱり楽しみなことで、素敵なこと。

今回の「吸入」はこういった「排出」になったわけなんだが、次回がどうなるかは、自分にもわからない。
また、自分の中にある<何か>の処理に困ったら、これを見返してみようと思った。

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