日本文学における張良のイメージ
義経の物語にはしばしば中国伝来の四十二巻の兵法書が登場するのですが、実はこの兵法書は実在し、「張良一巻書」「兵法秘術一巻書」「陰符経」「義経虎の巻」等の名称で各地に所蔵されています。
もちろんこの書を読んでも超人的な能力を身につけることは不可能ですが、兵法の秘伝書として戦国武将にも読まれ、中世の日本において一定の認知を得ていました。そうした現実世界での「四十二巻の兵法書」の受容が物語の世界に反映された結果、義経の兵法修行譚が成立しました。
その概要は、有馬成甫・石岡久夫編『諸流兵法(上)』(日本兵法全集六、新人物往来社、一九六七年)、梶原正昭『義経記』巻二補注(日本古典文学全集、小学館、一九八五年)、大谷節子『兵法秘術一巻書』(『日本古典偽書叢刊』第3巻所収、現代思潮社、二〇〇四年)等の解説をご覧ください。
ここでは先行研究で言及されていない点についていくつか述べてみたいと思います。
「四十二巻の兵法書」は「張良が黄石公から伝授された兵法書」という触れ込みで伝来してきましたが、そもそも日本文学において張良はどのように受容されてきたのでしょうか?最初から兵法の達人とみなされていたのでしょうか?
『史記』の記述
日本における張良のイメージを検討する前に、中国の史書における張良の伝を確認します。
張良の伝としては、『史記』巻五十五「留侯世家」と『漢書』巻四十「張良伝」がありますが、両者の内容は大同小異であり、ここでは『史記』の記述の概要を紹介します。
『史記』に記されている内容を場面ごとに分けると、
・張良の出身
・始皇帝暗殺未遂
・黄石公からの兵法伝授
・楚漢戦争における活躍
・恵帝擁立の動き
・晩年の神仙への憧れ
という六場面が描かれていると言えます。
平安漢文学における張良
平安時代の貴族にとって漢詩文に精通することは必須の教養であり、中国の古典に題材を取った作品が多数制作されました。そうした作品の中に張良を題材とするものがあります。
嵯峨天皇御製
この詩は嵯峨天皇の御前で『史記』の講読が行われ、竟宴の場で「張子房」を題として詠まれた五言詩です。基本的に『史記』「留侯世家」を踏まえ、その内容を詩に要約して表現したものです。
かつて京都の内裏の紫宸殿の母屋北面、天皇の座の後ろの柱間には『賢聖障子』という障子絵がはめられていました。この障子絵には殷から唐時代までの聖人、賢人、名臣など 三十二人の像を描き連ねたもので、その三十二人の中の一人が張良です。『賢聖障子』が初めて書かれた正確な時期は不明ですが、嵯峨天皇の弘仁年間に書画され、陽成天皇の時代に完成したとも伝わっており(『皇年代略』)、嵯峨天皇の趣味が反映されているかもしれません。
帝王の師
平安時代、漢詩や和歌の名句を楽器の伴奏に合わせて吟唱する「朗詠」という芸能が貴族の間で盛行した。朗詠は平安時代初期に発生したと考えられており、宴などの様々な機会に歌われました。 国風文化期における朗詠の盛行は、『源氏物語』『紫式部日記』『枕草子』など王朝文学の物語・日記文学・随筆にも記されています。『和漢朗詠集』は、十一世紀前半に藤原公任が朗詠するに足る秀句を集めて編纂したものです。
大江匡房の『江談抄』巻六に「件句雅材册文也。調和歌非後漢書句」という記述があり、この句は平安時代中期の貴族藤原雅材の作とされています。藤原雅材は漢学に優れ、天暦九年文章生試宣旨を受け、天徳元年文章得業生となり、天徳四年釈奠に際して作成した詩序が評価されて六位蔵人に任ぜられましたが、高位に登ることはできませんでした。この句には藤原氏であるものの出世の機会に恵まれなかった鬱屈した思いが張良に託され、張良のように学問により帝王の師になりたいとの願望が込められています。
『江吏部集』は平安時代中期の貴族大江匡衡の文集です。
匡衡の祖父大江維時は醍醐天皇の侍読や村上天皇の親王時代の東宮学士を勤めた儒学者で、村上天皇の学士を勤めた功績により公卿になりました。
維時は孫匡衡の才能に期待し、自身のように天皇の師として公卿になれるだろうと激励しました。匡衡は祖父の言葉を信じて学問に邁進し、文人として活躍するものの公卿になることはできませんでした。この詩には帝王の師として出世することができなかった自分の人生を残念がる気持ちが込められています。
『江吏部集』巻中 人倫部 述懐には匡衡の同様の内容の作品が多数収録されています。
神仙へのあこがれ
この作品は、院政期の学者大江匡房が、承保三年(一〇七六)に藤原師実のために代筆した辞表です。
これも大江匡房の作品です。
題の「忙校不如閑」は白居易の「閑忙」の一句であり、張良の故事や陶淵明の「帰去来」(『文選』巻四十五)を踏まえつつ、隠遁の志を述べています。
この二つの作品に登場する「赤松」「松子」とは、中国の代表的な仙人である赤松子のことです。
『楚辞』巻五「遠遊」の「聞赤松之清塵兮、願承風乎遺則」という句は、いにしえの神仙の登仙を賛美し、隠遁の志を述べたものであり、『戦国策』巻三「秦策」の「必有伯夷之廉、長為応侯、世世称孤、而有喬松之寿」は、赤松子や、王子喬という仙人のような寿命を得るためには、地位に拘泥するべきではないと勧めています。
『史記』「留侯世家」によると、晩年の張良は赤松子憧れ、神仙の術を身につけるための修行をしました。(「『願弃人閒事、欲從赤松子游耳。』乃学辟穀、道引軽身」)日本の神仙の伝をまとめた『本朝神仙伝』は匡房は晩年の作とされており、匡房は張良を神仙趣味の先駆者として位置づけていたようです。
教えへの随喜
『法華経』「随喜品」は「爾時、弥勒菩薩摩訶薩、白仏言、『世尊、若有善男子・善女人、聞是法華経、随喜者、得幾所福。』(爾の時に、弥勒菩薩摩訶薩、仏に白して言さく、『世尊、若し善男子・善女人有って、是の法華経を聞きたてまつりて、随喜せん者は、幾所の福をか得ん。 )」という弥勒菩薩の問いで始まる品で、『法華経』を聞いて随喜したことで得られる福徳を述べています。西行は、黄石公から張良への伝授を、仏が『法華経』を説いたことなぞらえ、黄石公の教えに従って修行したことで張良が得た福徳は限りないものであると詠みました。
武将としての張良
張良を武将の代表と見る作品の嚆矢は、平安時代初期に活躍した坂上田村麻呂の伝記である「田邑麻呂伝記」です。
坂上田村麻呂は四代の天皇に仕えた忠臣として名高く、征夷大将軍として蝦夷征討の功績を残したことが知られています。死後は嵯峨天皇の勅命により、東を向いて立ったまま埋葬された。後世「王城鎮護」「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称えられて、武神や軍神として信仰の対象となりました。
『日本後紀』弘仁二年五月壬子(十九日)条によると、坂上氏は渡来系の氏族であり、後漢の霊帝の子孫、すなわち劉邦の子孫を称していました。そのため「田邑麻呂伝記」の作者は田村麻呂の知勇を、劉邦の功業を支えた張良や蕭何に例えたのでしょう。
しかし、張良を武将とする作品は平安時代前期から中期には他に見当たらず、武将としての張良が広まるのは、平安時代末期から鎌倉時代にかけてと思われます。
源為朝は平安時代末期の武将で、父は源為義、母は摂津国江口の遊女で、源頼朝・義経兄弟の叔父にあたります。この場面では、為朝の勇壮な姿を鴻門の会で劉邦を項羽から守った樊噲に、智謀を張良や孫子・呉子に、そして巧みな弓術を中国の伝説上の弓の達人養由になぞらえています。
内裏に陣取る藤原信頼・源義朝をどのように攻めるべきか、六波羅の平清盛の邸宅で軍議をする場面で、清盛は春秋時代「臥薪嘗胆」の出典となった越王勾践のもとで謀をめぐらした范蠡および張良の故事を取り上げ、武略をめぐらして攻勢に出ることを進言しました。
新田義貞の軍勢に攻め寄せられて幕府勢が敗走する中、北条得宗家の被官長崎高重が奮戦しました。この高重の奮戦を高重の父高資が称賛して、陳平や張良でもなし難いことであると評します。陳平は、張良と同じく劉邦の軍師として活躍した功臣です。
以上、平安時代から室町時代初期にかけての文学作品において張良の故事がどのように引用されているか確認しました。
平安時代前期から中期にかけての作品で楚漢戦争時代の武将としてのイメージを引用するものは「田邑麻呂伝記」のみであり、それよりも漢王朝成立以降の帝王の師としてのイメージを引用するものが多く、平安時代末期から鎌倉時代にかけて軍記物が成立する中で武将としてのイメージが広がっていったようです。
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