能『鞍馬天狗』

近世以前の日本には、「剣術流派の開祖が天狗から兵法(剣術)を習った」という伝承が複数ありました。しかし、そうした伝承は江戸時代の知識人によって嫌悪され、それらの伝承が捏造であることを証明しようとする言説がしばしばありました。そうした江戸時代知識人の意見が本当に妥当なものなのかを確かめるために、義経の天狗伝説を中心に取り上げ、天狗伝説の生成と拡大の過程を検討したいと思います。

義経にまつわる伝説が広まった経緯については、古典文学研究の世界で成果が積み重ねられています。そこで、それらの成果を利用しつつ、古典文学において義経がどのように描かれてきたのかを検討し、それらが義経の天狗伝および剣術流派の開祖伝説にどのように影響を与えたのかを考えてみたいと思います。

現存する義経と天狗が交流する物語は室町時代以降に作られたものです。その中で代表的なものは、幸若舞『未来記』、謡曲『鞍馬天狗』、御伽草子『天狗の内裏』です。この三作品において義経と天狗の交流がどのように描かれているか検討してみたいと思います。

謡曲『鞍馬天狗』は、五番目物、天狗物、太鼓物に分類されます。大永四年(一五二四)成立の『能本作者註文』では宮増の作品とされています。ただ、資料がほとんど残されていないため、宮増についての詳しいことは分かりませんが、「宮増グループ」と称される宮増姓の役者集団に所属する役者の一人だろうと推測されています。宮増姓の役者の初見は、伊勢神宮内宮神官の荒木田氏経の日記『一禰宜氏経神事事』「永享十年(一四三八)六月一八日条」の

宮益(ママ)大夫之法楽猿楽等為見物也。

という記事です。この記事から、室町時代中期頃には伊勢神宮周辺で宮増グループが活動していただろうと推測されています。

『鞍馬天狗』が作られた正確な時期は不明ですが、その上限は『一禰宜氏経神事事』の記事から永享頃となります。下限は、足利義政政権期の政所代であった蜷川親元の『親元日記』「寛正六年(一四六五)三月九日条」に将軍院参に際して演じられた猿楽の曲名に「くらま天狗」とあることから、寛正六年となります。

『鞍馬天狗』の舞台は春の鞍馬山です。一人の山伏が花見の宴のあることを聞きつけ、見物に行きます。鞍馬寺では僧侶たちが稚児を伴って花見を楽しんでいました。しかし、山伏が登場すると、僧侶たちは場違いな者の同席を嫌がり、一人の稚児を残して去ってしまいます。

僧侶たちの狭量さを嘆く山伏に、稚児が優しく声をかけました。稚児の華やかな様子に恋心を抱いた山伏は、稚児が源義朝の子沙那王(牛若丸)であると察します。他の稚児が平家一門出身であり、寺から大事にされているのに対し、沙那王は自分がないがしろにされていると感じていました。山伏は沙那王の境遇に同情し、愛宕・高雄・比良・横川などの近隣の花見の名所を見せて沙那王を慰めます。山伏の正体が気になった沙那王が山伏に本名を尋ねると、山伏は

今は何をか包むべき、われこの山に年経たる、大天狗はわれなり。

と自分が鞍馬山の大天狗であることを語り、

君兵法の大事を伝へて、平家を滅し給ふべきなり、

と兵法を伝授することを約束します。

大天狗のもとで武芸の修練に励む沙那王は、師匠の許しがないからと、木の葉天狗との立ち合いを思い留まります。大天狗は沙那王の態度を褒め、同じように師匠に誠心誠意仕え、兵法の奥義を伝授された漢の張良の故事を語り聞かせます。

さやうに師匠を大事におぼしめすについて、さる物語の候語つて聞かせ申し候ふべし。
さても高祖の臣下張良といふ者、黄石公にこの一大事を相伝す。ある時馬上にて行き逢ひたりしに、何とかしたりけん左の沓を落し、いかに張良あの沓取つて履かせよと言ふ。安からずは思ひしかども沓を取りて履かせよと言ふ。またその後以前のごとく馬上にて行き逢ひたりしに今度は左右の沓を落し、やあいかに張良あの沓取つて履かせよと言ふ。なほ安からず、思ひしかども、よしよしこの一大事を相伝する上はと思ひ、落ちたる沓をおつ取つて、
張良沓を捧げつつ、張良沓を捧げつつ、馬の上なる石公に、履かせけるにぞ心解け、兵法の奥義を伝へける。

この張良の故事の出典は『史記』巻五十五「留侯世家」です。張良は韓の出身ですが、韓が秦に滅ぼされると、仇を討とうとするが失敗し、下邳という町に潜伏しました。

ある日、張良が下邳の橋を歩いていると、一人の老人と出会いました。張良と老人が近づくと、老人は靴を橋の下に落とし、靴を取ってくるよう張良に命じました。張良は老人の言葉に腹を立てて殴ろうとしますが、相手が高齢であることを考えて我慢し、靴を取って老人に履かせました。老人は張良と別れ際、五日後の明け方に再び来るよう言いました。張良は怪しみますが、跪いて承諾しました。五日後の明け方、張良が橋に到着すると、老人はすでにそこにいました。老人は張良が遅く来たことを怒り、五日後また来るよう言って去りました。五日後、張良は夜明け前に行くと、そこにはまた老人がおり、五日後もっと早く来るよう言って去りました。五日後、張良は夜中に行くと、まだ老人は来ていませんでした。しばらくして老人がやってくると、老人は張良の態度を喜び、一編の兵法書を張良に授けました。

『鞍馬天狗』において張良の故事は師匠に対する弟子の忠誠心の大事さを説くものとして解釈されており、それは『新当流兵法書』「新当流手継の序次第」(『日本武道大系』第一巻「剣術(一)」所収)の

縦雖㆑荷㆓千金㆒、莫㆓真実志、人努々不㆑可㆑授㆑之(たとえ千金を背負って来たとしても、真実の志が無ければ、絶対に授けてはならない)

という価値観と共通するものです。

そして、平氏打倒という目的のために粗野で荒々しい天狗を師匠と崇める沙那王の志を褒め、兵法の秘伝を残りなく伝えると、将来の平家一門との戦いで必ず力になると約束しました。

驕れる平家を、西海に追つ下し、煙波滄波の、浮雲に飛行の、自在を受けて、敵を平げ、会稽をすすがん、御身と守るべし、(中略)西海四海の、合戦といふとも、影身を離れず、弓矢の力を、添へ守るべし、

以上、室町時代に作られた三作品における義経と天狗の交流の様子を見てきました。これら三作品がいつ頃成立したのか踏めな点が多く、各作品の前後関係は明確ではありませんが、作品の描写が変化した経緯について私なりの推測を述べたいと思います。

まず、義経が鞍馬山僧正が谷で兵法を修行したことを語る「僧正が谷説話」と、義経が鬼一法眼から兵法書を盗み出す「鬼一法眼説話」は本来それぞれ独立した作品であり、別の時代、別の場所で成立したと考えられます。

その後、義経にまつわる説話群が人々に広く受容されるに伴って「僧正が谷説話」と「鬼一法眼説話」も人々に広く知られるようになりました。すると、「僧正が谷説話」を主、「鬼一法眼説話」を従とする形で統合しようとする動きが生まれました。この段階の作品が『未来記』であると考えられます。『未来記』では「鬼一法眼説話」の義経が鬼一法眼から兵法書を盗み出すくだりが削除された形で両説話が接続されています。ただ、『未来記』では両説話の統合は深化しておらず、単純に接続しているだけであり話の筋が十分に整理されているとはいえません。そのため、『未来記』において義経は中国に由来する「四十二帖の兵法書」と、天狗から伝授された「天狗の法」という二種類の兵法を習得します。

ついで、「四十二帖の兵法」と「天狗の法」を統合しようとし、古写本『天狗の内裏』はこの段階の作品です。古写本『天狗の内裏』では、「四十二巻の兵法書」の中国伝来のものとする由来を削除した上で「天狗の法」と統合され、「四十二巻の天狗の兵法」に変化します。

そして、最後の段階として天狗と師弟の盟約を強調する方向に発展します。もともとの「鬼一法眼説話」において、張良は過去に兵法書を習得した人物の一人として挙げられていますが、『鞍馬天狗』ではそうした兵法書由来譚よりも師匠に対する弟子の忠誠心の大事さを説くものとして張良の故事が引用されています。江戸時代以降に出版された『天狗の内裏』には師弟の契約の場面がありますが、古写本『天狗の内裏』にはこのような描写はありません。これは『天狗の内裏』が流布する過程で付加されたものと考えられます。

参考文献
『史記』巻五十五「留侯世家」中華書局本。
小山弘志等校注『謡曲集二』、日本古典文学全集、小学館、一九七五年。
石黒吉次郎「「鞍馬天狗」をめぐって」『能 研究と評論』八、月曜会、一九七九年。
竹本幹夫「能作者宮増の作品と作風(上)」『能楽研究』二十六号、法政大学能楽研究所、二〇〇二年。
横井清『室町時代の一皇族の生涯』講談社学術文庫、二〇〇二年。
「演目事典:鞍馬天狗(くらまてんぐ)」『the能ドットコム』https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_025.html

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