義経の天狗伝説の展開

義経の天狗伝説

剣術流派の開祖伝説の中には、「天狗から兵法を習う」という伝承がしばしば見られます。「天狗から兵法を習う」という伝説で最も有名なのは義経の天狗伝説でしょう。

林羅山の『本朝神社考』巻六「僧正谷」には、江戸時代初期に存在した義経の天狗伝説を次のように紹介しています。

鞍馬山与貴布祢之間有岩谷、名曰僧正谷。(割注 或云、不動明王示現之地也。)世伝、源牛弱、初名舎那王丸、遁平治之乱、入鞍馬山。一日、到僧正谷、逢異人。(割注 一云、山伏。)異人教牛弱、以剣術、且盟曰、我為舎那王之護神。其後、時時与異人遇于僧正谷。善習其刺撃之法。牛弱素好軽捷、至此益精。及十五歳、往奥州。寿永・元暦之際、与平氏合戦、其功居多。文治之始、再遊鞍馬山、不復得見異人。牛弱、即源廷尉義経、是也。
(鞍馬山と貴布祢との間に岩谷有り、名づけて僧正谷と曰う。(割注 或ひと云く、不動明王示現の地なり也。)世伝、源牛弱、初名舎那王丸、平治の乱を遁れ、鞍馬寺に入る。一日僧正が谷に到り、異人に逢う。(割注 一に云、山伏なりと。)異人牛弱に教うるに剣術をもってし、且つ盟じて曰く、「我舎那王の護神と為らん」と。其の後、時時異人と僧正が谷に遇う。其の刺撃の法を善く習う。牛弱素より軽捷を好み、此に至り、益ます精たり。十五歳に及び、奥州に往く。寿永・元暦の際、平氏と合戦し、其の功多に居る。文治の始め再び鞍馬山に遊ぶも、復た異人に見えるを得ず。牛弱は、即ち源廷尉義経、是れなり。)

歴史資料における義経


源義経の生涯については、鎌倉幕府の公的記録である『吾妻鏡』が最も正確と考えられます。『吾妻鏡』で義経が最初に登場するのは、治承四年十月二十一日の条、二十二歳の義経が黄瀬川の陣屋で初めて兄頼朝と対面する場面であり、以後衣川での自害までの記事が載っています。

治承四年十月二十一日の条には、義経の生い立ちが簡単に書かれています。

此の主者、去んぬる平治二年正月、襁褓の内において父の喪に逢うの後、継父一条大蔵卿〔長成〕の扶持に依て、出家のために鞍馬に登山す。成人に至るの時、頻りに会稽の思を催し、手づから首服を加へ、秀衡の猛勢を恃み、奥州に下向し、多年を歴るなり。

(『吾妻鏡』巻一)

治承四年十月二十一日の条によると、義経は平治二年正月、まだ赤子の時に父と死別し、義父である一条長成の援助を受けて、僧侶となるために鞍馬寺に入りました。しかし、長じて復讐の思いを抱き、自ら元服し、奥州藤原氏のところへ下向し、そこで長年過ごした、とのことです。

『吾妻鏡』には義経が鞍馬寺に入ったことは記されていますが、一方で、義経が剣術(あるいはその他の武芸)を修行したことは記されていません。

次いで、義経と同時代人の貴族である九条兼実の日記『玉葉』や、院政期から鎌倉時代初期の記録として確実な慈円の『愚管抄』、内大臣藤原忠親の日記『山槐記』、大納言藤原経房の日記『吉記』、そして鎌倉時代後期に公家の日記などに依拠して成立した『百錬抄』にも義経の記事が散見されます。
しかし、いずれも義経に関する記載は木曽義仲討伐のために上洛して以後のことであり、義経の幼少期に言及するものはありません。

このように、義経の幼少期から十代にかけての状況については極めて断片的な情報しか残されておらず、その具体的な様子は文献に記録されていません。そのため、「武勇と仁義に於ては後代の佳名を貽す歟、歎美すべし、歎美すべし」(『玉葉』文治元年十一月七日)、「彼の源延尉は、ただの勇士にあらざるなり。張良・三略・陳平・六奇、その芸を携え、その道を得るものか」(守覚法親王『左記』、『群書類従』巻第四百四十四、釈家部二十)などと人々から称賛された武勇をどのようにして身につけたのか、それを知るための信頼のできる資料は全く残されていません。

平家滅亡後、一転して頼朝の追討を受ける身となった義経は、近畿各地を転々と逃亡しました。その過程で、比叡山・仁和寺・園城寺・鞍馬寺・醍醐寺・興福寺・吉野山・多武峰に対して義経逃亡の協力の嫌疑により、頼朝によって徹底的な捜索が命令され、また多武峰の十字坊、興福寺の聖弘、比叡山の俊章・承意・仲教等に対して義経逃亡幇助の疑いがかけられました。これらの背景として、義経と寺院勢力、とりわけ僧兵集団との間に一定の関係性が構築されていたのではないかと想像されます。そのため、当時の僧兵集団が有していた武芸が義経へ伝授された可能性も考えられますが、その裏付けとなる資料は今の所確認されていないようです。

「僧正が谷説話」の成立と展開

次に、文学作品において義経の天狗伝説がどのように受容されたのかを検討してみます。

古典文学において義経が兵法を習得する過程を語る説話には、「僧正が谷説話」と「鬼一法眼説話」があります。

「僧正が谷説話」とは、鞍馬山の奥僧正が谷にて義経が天狗から兵法を習う、というものです。『本朝神社考』巻六「僧正谷」も「僧正が谷説話」に含まれます。

「鬼一法眼説話」とは、京都の一条堀河にすむ陰陽師鬼一法眼が秘蔵する兵法書を義経が盗み出す説話です。

『平治物語』巻下「牛若奥州下りの事」は、「僧正が谷説話」の代表的な作品で、鞍馬山の奥に所在する僧正が谷に義経が夜な夜な通ったことが語られています。しかし、その語られ方は諸本により異同があります。

『平治物語』の古い形を残す「古態本」の一つである学習院大学図書館蔵本には

僧正が谷にて、天狗・化の住むと云もおそろしげもなく、夜な〳〵越て、貴布禰に詣けり。

とあり、天狗や化け物が住むと言う僧正が谷に義経が通ったことが語られています。しかし、「義経が天狗から兵法を習った」とは語られておらず、また義経が僧正が谷で何をしていたのか述べられていません。

一方で、同じく古態本に分類される松本文庫蔵本・国文学研究資料館蔵本(宝玲文庫旧蔵)・彰考館文庫蔵京師本には

僧正か谷にて、天狗はけ物のなん(国文学研究資料館蔵本は「住」、彰考館文庫蔵京師本は「すむ」に作る)所へ夜な〳〵行て兵法をならひ、彼難所を(をも)夜る〳〵こえて貴布禰の社へそ参りける。

とあります。この箇所の詞章の相違は、学習院大学図書館蔵本の誤脱か、松本文庫蔵本等の後補か、判断が難しいです。仮に学習院大学図書館蔵本の誤脱だとしても、「兵法をならひ」という語句は、「天狗から兵法を習った」とも、「天狗が住む所で兵法を修練した」とも解釈することができます。
このため、古態本『平治物語』が成立した鎌倉時代中期において、義経と天狗の師弟関係は明確には語られていなかったのではないかと推測できます。

こうした義経と天狗の関係性の不明瞭さは南北朝時代から室町時代にかけて成立した『義経記』にも見られます。巻一「牛若貴船詣の事」には義経が僧正が谷に通ったことが語られており、僧正が谷は

偏へに天狗の住家となりて、

という異界として描写されています。しかし、義経が僧正が谷で行った修行とは

正面より未申にむかひて立ち給ふ。四方の草木をば平家の一類と名づけ、大木二本ありけるを一本をば清盛と名づけ、太刀を抜きて、散々に切り、ふところより毬杖の玉の様なる物をとり出し、木の枝にかけて、一つをば重盛が首と名づけ、一つをば清盛が首とて懸けられける。

というものであり、具体的な登場人物としての天狗は存在せず、天狗と義経との明確な師弟関係は成立していません。

しかし、室町時代末期から戦国時代にかけて成立した『平治物語』流布本では

僧正が谷にて、天狗と夜な〳〵兵法を習ふと云々。

と語られています。この「天狗と夜な〳〵兵法を習ふと」という句は、「義経が天狗から兵法を習った」と解釈してよいでしょう。

このように、鎌倉時代中期に成立した古態本『平治物語』、南北朝時代から室町時代頃に成立した『義経記』では義経と天狗の師弟関係が明確でないのに対して、室町時代末期から戦国時代にかけて成立した流布本『平治物語』では義経と天狗の師弟関係が明確になっており、義経の僧正が谷詣で説話の語られ方に変化が見られます。

足利義満の時代までに成立したと考えられている『太平記』の巻二十九「桃井四条河原合戦の事」では、京を占拠する桃井直常の軍と、彼を京から追い出そうとする足利尊氏・義詮父子の軍がにらみ合う場面が描かれています。今にも合戦が始まろうとする中、桃井方から一人の武者が進み出て、次のような名乗りをしました。

かかる処に、桃井が扇一揆の中より、長八尺ばかりなる男の、髭黒に血眼なるが、(中略)ただ一騎河原面に進み出でて、高声に申しけるは、「(中略)これは、清和源氏の後胤に、秋山九郎と申す者にて候ふ。王氏を出でて遠からずと雖も、身すでに武略の家に生れて数代、ただ弓箭を執つて、名を高くせん事を存ぜし間、幼稚の昔より長年の今に至るまで、兵法を弄び嗜む事隙なし。但し、黄石公が子房に授けし所は、天下のためにして匹夫の勇にあらざれば、われ(未だ)学ばず。鞍馬の奥、僧正谷にして、愛太子、高雄の天狗どもが、九郎判官義経に授け奉りし所の兵法に於ては、某、一つもこれを残さず伝へて得たる処なり。仁木、細川、高家の御中に、われと思はん人、名乗つてこれへ御出で候へ。華やかなる打物して、見物衆の居眠り醒さん。」と喚ばはつて、その勢ひ辺りを払ひ、西頭に馬をぞひかへたる。

桃井方から進み出た武者は秋山九郎と名乗りました。彼の家は武を生業とする清和源氏であり、代々弓箭の道を事としました。そのため、秋山も幼い頃から名を上げることのみを考えて武芸を磨いてきました。ただし、黄石公が張良に授けたという兵法は、天下国家の用に当てるものであり、彼のような武者に適したものではないため学びませんでした。そのため、彼は「鞍馬の奥、僧正谷にて愛太子(愛宕)・高雄の天狗どもが、九郎判官義経に授け奉りし所の兵法」を残らず会得した、と九郎は語ります。このように、『太平記』では「義経が天狗から兵法を習った」ことが明確に語られています。

鎌倉時代中期に成立した古態本『平治物語』では「義経は天狗から兵法を習った」と明確には語られていないのに対して、足利義満の時代までに成立した『太平記』にはそれが明確に語られています。このことから、島津基久氏がすでに指摘しているように、「義経が天狗から兵法を学んだ」という説話が成立したのは、鎌倉時代後期から南北朝時代の間ではないかと推測できます。

最古の「鬼一法眼説話」


現存する最古の「鬼一法眼説話」は、『義経記』巻二「義経鬼一法眼が所へ御出の事」です。

自身が源氏の御曹司であることを知った義経は、奥州に下り藤原秀衡を頼ります。しかし奥州では特にすることもなく、無聊をかこっていました。そこで、「都にだにもあるならば、学問をもし、見たき事をも見るべきに、かくても叶ふまじ、都へ上らばや」(巻一「義経秀衡にはじめて対面の事」)と思い立ち、京に舞い戻りました。

当時、京の一条堀河に「鬼一法眼」という陰陽師法師が住んでいました。彼は中国から伝来した兵法書をを所持していました。

この書には不思議な力があり、周の武王を助けた太公望や、漢の高祖劉邦の功業を支えた張良・樊噲は、この書を読むことで「八尺の壁に上り、天に上る」「三尺の竹にのぼりて、虚空を翔ける」「甲冑をよろひ、弓箭を取つて、敵に向ひて怒れば、頭のかぶとの鉢を通す」といった超人的な能力を身に着けました。日本では坂上田村麻呂、平将門、藤原秀郷らに読まれ、彼らの偉業の糧となりました。

この不思議な力を秘めた書は、秀郷以後読む者もなく、帝の宝蔵に代々秘蔵されていました。鬼一法眼は文武の道に通じており、「天下=(=殿下)」と称される為政者のために祈祷をし、その対価としてこの書を賜りました。
義経はこの書の話を聞きつけると、それを見ようと鬼一法眼の屋敷を訪問しました。義経と対面した鬼一法眼が用向きを問うと、義経は次のように回答しました。

誠が御坊は異朝の書、将門が伝へし六韜兵法といふ文、天上より給(賜)はりて秘蔵して持ち給ふとな。その文私ならぬものぞ。御坊持ちたればとて読知らずは、教へ伝へべき事もあるまじ。理を抂げてそれがしにその文見せ給へ。一日のうちに読みて、御辺にも知らせ教へて返さんぞ。

(巻二「義経鬼一法眼が所へ御出の事」)

義経の回答から、鬼一法眼が所持する「十六巻の書」の名前が「六韜兵法」であると判明します。六韜兵法は私物化してよいものではないため、自分に貸してほしい、と義経が申し出ました。しかし、この申し出は鬼一法眼によって言下に拒否されてしまいます。そこで、義経は鬼一法眼の娘である幸寿と男女の仲になり、幸寿に六韜兵法を盗み出すよう頼み込みます。

幸寿を具して、父の秘蔵しける宝蔵に入(り)て、重々の巻物の中に鉄巻したる唐櫃に入(り)たる六韜兵法一巻の書を取出して奉る。御曹司悦び給ひて、引擴げて御覧じて、昼は終日に書き給ふ。夜は夜もすがらこれを服し給ひ、七月上旬の頃より是を読み始めて、十一月十日頃になりければ、十六巻を一字も残さず、覚えさせ給ひて

(巻二「義経鬼一法眼が所へ御出の事」)

鬼一法眼の宝蔵から盗み出した六韜兵法を幸寿から受け取った義経は、昼間はそれを筆写し、夜はそれを学習しました。そうして七月上旬から学び始め、十一月十日頃に学び終えました。

古態本『平治物語』では、義経の並外れた身体能力を

追もはやく逃もはやく、築地・端板を躍越るも相違なし。

と語っていますが、どのようにしてこのような能力を身に着けたのか、古態本『平治物語』では語られていません。流布本『平治物語』では

夜は夜もすがら武芸を稽古せられたり。僧正が谷にて、天狗と夜な〳〵兵法を習ふと云々。されば早足、飛越、人間の業とは思へず。

と語られ、僧正が谷で天狗から兵法を習った結果とされています。

それに対して、『義経記』では巻三「弁慶洛中にて人の太刀を奪ひ取る事」で

大国の穆王は六韜を読み、八尺の壁を踏んで天に上りしをこそ上古の不思議と思ひしに、末代といへ共(ども)九郎御曹子は六韜を読みて、九尺の築地を一飛びの中に宙より飛び返り給ふ。

と語るように、鬼一法眼が秘蔵する六韜兵法を読んだ結果であるとします。

室町時代における「僧正が谷説話」と「鬼一法眼説話」の融合

義経が鞍馬山僧正が谷で兵法を修行したことを語る「僧正が谷説話」と、義経が鬼一法眼から兵法書を盗み出す「鬼一法眼説話」は本来それぞれ独立した作品であり、別の時代、別の場所で成立したと考えられます。義経にまつわる説話群が人々に広く受容されるに伴って「僧正が谷説話」と「鬼一法眼説話」も人々に広く知られるようになりました。すると、「僧正が谷説話」を主、「鬼一法眼説話」を従とする形で統合しようとする動きが生まれました。

室町時代から江戸時代にかけて隆盛した芸能である幸若舞の『未来記』は、義経の活躍を題材とする「判官物」の作品で、僧正が谷で兵法の修業をする義経に、天狗が義経の未来を語るものです。この作品で、中国伝来の兵法書は次のように語られています。

去間牛若殿。鞍馬の奥そうしやうかかけといふ所へ。夜な〳〵通ひ給ひけり。天下をおさめん其ために。兵法けいこのたしなみなり。抑兵法と申は。三略のじつしよたり。昔大唐しやうざんの。そうけいが伝へしひしよなり。吉備の大臣入唐。し八拾四巻の中より。も四十二帖にぬき書て。我朝へわたされしを。坂のうへのりじん九年三月にならひ。敵をしつめたまひけり。扨其後に田村丸。十二年三月にならひ。ならさか山のかなつむて。鈴鹿山の盗人。かゝるげきとをたいらげ。天下をまほり給ひけり。扨其後にすたりゑいざんにこめられしを白河いんぢのこのかうべ。ならふとは申せ共。さしたるゆうはなかりけり。さる間牛若殿。唯さんがくをはしりまはり。枯木の枝を伝ひ。御身をかろめ給ひけり。

(笹野堅編『幸若舞曲集』所収内閣文庫本『未来記』、第一書房、一九四三年。)

牛若は鞍馬山の奥僧正が谷(『未来記』では崖とする)に夜な夜な通い、天下を治めるために兵法の稽古をしていました。『未来記』において兵法とは唐(中国)の「しやうざん」に住む「そうけい」という者が伝えた「三略」という書物が原型であるとされています。「三略」は全八十四巻ですが、遣唐使として唐に渡った吉備真備が八十四巻から抜書きして四十二帖にし、日本にもたらしました。この四十二帖の兵法書は、「坂のうへのりじん」や「田村丸」によって学ばれ、彼らの功績の基礎になりました。後にこの書は「ゑいざん(=比叡山)」に奉納され、白河の印地の大将によって学ばれましたが、彼らはこの書を十分に活用できませんでした。牛若は山中を走り回り、枯れ木を伝って飛び、軽業を身に着けました。

この「吉備真備が中国がもたらし坂のうへのりじん・田村丸らが継承した兵法」とは、『義経記』鬼一法眼が所持した兵法書と同一のものです。

しかし、『未来記』で語られる兵法の伝来譚と『義経記』のそれとの間にはいくつかの差異があります。

まず、『義経記』では太公望・張良・樊噲に由来する兵法とされていますが、『未来記』では「しやうざん」の「そうけい」なる人物が伝えたものとされています。また、『義経記』では兵法の書名は「六韜兵法」とされていますが、『未来記』では「三略」となっています。そして、『義経記』では兵法の巻数は「十六巻」とされていますが、『未来記』は「八拾四巻」より抜書きした「四十二帖」となっています。さらに、『義経記』の鬼一法眼に相当する人物は、『未来記』では「白河いんぢのこのかうべ」、すなわち「白川の印地の大将」と称されています。これらの差異は、中国伝来の兵法書に関する伝承そのものが変化したことを示しています。

物語の大筋に大きく影響を与えているのは、藤原利仁・坂上田村丸以降の伝来についてです。

『義経記』では

それより後は絶えて久しかりけるを、下野の住人相馬の小次郎将門これを読み伝へて、わが身のせいたんむしやなるによつて朝敵となる。されども天命をそむく者の、やゝもすれば世を保つ者すくなし。当国の住人田原藤太秀鄕は勅宣を先として将門を追討のために東国に下る。相馬の小二郎防ぎ戦ふといへ共(ども)、四年に味方滅びにけり。最後の時威力を修してこそ一張の弓に八の矢を矧げて、一度に是を放つに八人の敵をば射たりけり。それより後は又絶えて久しく読む人もなし。たゞいたづらに代々の帝の宝蔵に籠め置かれたりけるを、その比(ころ)一条堀河に陰陽師法師に鬼一法眼とて文武に道の達者あり。天下の御祈禱して有(り)けるが、これを給(賜)はりて秘蔵してぞ持ちたりける。

とあるように、坂上田村丸以後久しく読む者がいなかったが、平将門がこの兵法書を読み、その後帝の宝蔵に籠め置かれ、鬼一法眼に下賜されました。この伝来の流れを図にすると次のようになります。

これに対して、『未来記』では坂上田村丸・藤原利仁以後この兵法書は比叡山に籠め置かれ、白川印地の大将に伝授され、また義経は僧正が谷で修行しました。この伝来の流れを図にすると次のようになります。

この伝来系統だと、白川印地の大将と義経は比叡山に籠め置かれていた兵法書を別個に入手したと解釈することができ、義経と白川印地の大将の間に師弟関係は成立しないことになります。

さて、僧正が谷で兵法の修業をする牛若の様子を見て、天狗たちが集まり話し合いを行います。最初は牛若を懲らしめようという意見がありましたが、父母への孝行のための兵法の修行には必ず天道の加護があるため罰するべきではないという意見が出たため、牛若に「天狗の法」を伝授することにしました。

爰に天狗共さしあつまり。内儀ひやうちやうするやうは。抑当山は。じかく大師の秘所として。行人ならでは此山へ通ふものもなかりしに。鞍馬寺の牛若が。我等がすみかをあざける事。其いわれなき物を。いざや天狗のほうばつを。あてんなんどゝ申けり。愛宕の山の大天狗。太郎坊申やう。抑此見ふようにて。親にも師にも不孝ならば天狗の。ほうばつあつべけれ共。父母けうやうの其ために。兵法けいこのたしなみなり。父母のけうやう有者は。かならず天道の加護を蒙に。ばつしたまはんせんぎこそ。しかるべくもなしといふ。ひらの山の次郎坊。進出て申やう。抑我等が異名を天狗といふはいはれあり。むかしは人にてさふらひしが。仏法を能習ひ我より外に智者なしと。大まんじんをおこすゆへ。仏にはならずして天狗道へおつるなり。たとへまんじんおゝくして。此だうへおつる共。情をいかでしらざるべき。いさや牛若合力し。天狗のほうをゆるし。親の敵をうたせん。尤然べしとて。むねとの天狗七八人。若山伏の出たち。牛若殿の前にゆき。いかに小人きこしめせ。(中略)是迄しやうじまいらせて。対面申しるしには。天狗のほうをゆるすなり。是をまぼりにかけよとてくろがねの玉をと取出し。牛若殿にまいらせて。かきけすやうにうせければ。有し所はうちうせて。そうじやうがかけなる。松の枝にぞおはしける。扨は天狗がうしわかを。かどへけるよと思召。東光坊にかへらるゝ。

(笹野堅編『幸若舞曲集』所収内閣文庫本『未来記』、第一書房、一九四三年。)

『未来記』では「鬼一法眼説話」の義経が鬼一法眼から兵法書を盗み出すくだりが削除された形で両説話が接続されています。ただ、『未来記』では両説話の統合は深化しておらず、単純に接続しているだけであり話の筋が十分に整理されているとはいえません。そのため、『未来記』において義経は中国に由来する「四十二帖の兵法書」と、天狗から伝授された「天狗の法」という二種類の兵法を習得します。

去間牛若殿。鞍馬の奥そうしやうかかけといふ所へ。夜な〳〵通ひ給ひけり。天下をおさめん其ために。兵法けいこのたしなみなり。抑兵法と申は。三略のじつしよたり。昔大唐しやうざんの。そうけいが伝へしひしよなり。(中略)いさや牛若合力し。天狗のほうをゆるし。親の敵をうたせん。

ついで、古写本『天狗の内裏』では、中国伝来の兵法書と「天狗の法」が統合され、「四十二巻の天狗の兵法」に変化します。

さて、たいてんくは、座敷をたち、五人のてんくの、たもとをひかへ、いかに申さん、かた〳〵たち、御みたちの、御もてなしには、せんそにつたわる、ひやうほう、ひとつと、このまれたかしこまるとて、しらすをさいて、とんてをおり、ちやうるいすかたに、さまをかへ、かすみに、のつて、とひあかり、四十二くわんの、てんくのひやうはう 、つゝいて、御めに、かけらるゝみなもと様は、ひやうはう、のそみの事なれは、はるかにゆるき出させ、たまいつゝ、よろこひ、たまふは、かぎりなし

謡曲『鞍馬天狗』は、五番目物、天狗物、太鼓物に分類されます。舞台は春の鞍馬山です。一人の山伏が花見の宴のあることを聞きつけ、見物に行きます。鞍馬寺では僧侶たちが稚児を伴って花見を楽しんでいました。しかし、山伏が登場すると、僧侶たちは場違いな者の同席を嫌がり、一人の稚児を残して去ってしまいます。

僧侶たちの狭量さを嘆く山伏に、稚児が優しく声をかけました。稚児の華やかな様子に恋心を抱いた山伏は、稚児が源義朝の子沙那王(牛若丸)であると察します。他の稚児が平家一門出身であり、寺から大事にされているのに対し、沙那王は自分がないがしろにされていると感じていました。山伏は沙那王の境遇に同情し、愛宕・高雄・比良・横川などの近隣の花見の名所を見せて沙那王を慰めます。山伏の正体が気になった沙那王が山伏に本名を尋ねると、山伏は

今は何をか包むべき、われこの山に年経たる、大天狗はわれなり。

と自分が鞍馬山の大天狗であることを語り、

君兵法の大事を伝へて、平家を滅し給ふべきなり、

と兵法を伝授することを約束します。

大天狗のもとで武芸の修練に励む沙那王は、師匠の許しがないからと、木の葉天狗との立ち合いを思い留まります。大天狗は沙那王の態度を褒め、同じように師匠に誠心誠意仕え、兵法の奥義を伝授された漢の張良の故事を語り聞かせます。

さやうに師匠を大事におぼしめすについて、さる物語の候語つて聞かせ申し候ふべし。
さても高祖の臣下張良といふ者、黄石公にこの一大事を相伝す。ある時馬上にて行き逢ひたりしに、何とかしたりけん左の沓を落し、いかに張良あの沓取つて履かせよと言ふ。安からずは思ひしかども沓を取りて履かせよと言ふ。またその後以前のごとく馬上にて行き逢ひたりしに今度は左右の沓を落し、やあいかに張良あの沓取つて履かせよと言ふ。なほ安からず、思ひしかども、よしよしこの一大事を相伝する上はと思ひ、落ちたる沓をおつ取つて、
張良沓を捧げつつ、張良沓を捧げつつ、馬の上なる石公に、履かせけるにぞ心解け、兵法の奥義を伝へける。

『鞍馬天狗』において張良の故事は師匠に対する弟子の忠誠心の大事さを説くものとして解釈されています。

そして、平氏打倒という目的のために粗野で荒々しい天狗を師匠と崇める沙那王の志を褒め、兵法の秘伝を残りなく伝えると、将来の平家一門との戦いで必ず力になると約束しました。

驕れる平家を、西海に追つ下し、煙波滄波の、浮雲に飛行の、自在を受けて、敵を平げ、会稽をすすがん、御身と守るべし、(中略)西海四海の、合戦といふとも、影身を離れず、弓矢の力を、添へ守るべし、

『鞍馬天狗』では天狗と師弟の盟約が強調されています。『義経記』の「鬼一法眼説話」において、張良は過去に兵法書を習得した人物の一人として挙げられていますが、『鞍馬天狗』ではそうした兵法書由来譚よりも師匠に対する弟子の忠誠心の大事さを説くものとして張良の故事が引用されています。江戸時代に出版された『天狗の内裏』でも師弟の契約の場面がありますが、古写本『天狗の内裏』にはこのような描写はありません。これは『天狗の内裏』が流布する過程で付加されたものと考えられます。

『異本義経記』における「僧正が谷説話」「鬼一法眼説話」の分離と変容
近世初期に成立した『異本義経記』は、『義経記」の構成にならいながら、その内容は『義経記』と大きく異なっており、『義経記』にみられない異伝・俗伝を多く採り入れられています。

「遮那王貴船詣」
遮那王、早足飛越なんどし給ふに、外の人よりも身軽く有りしぞ。十四歳の秋の頃より、悪僧など聚め、木太刀にて打合ひ給ふに、手利にて四五人を只一人して打勝ち給ふとにや。常に眦沙門堂へ参り給ひて、直に貴布禰へ詣うで給ふ事有り。何の頃よりか夜毎に潜と貴船へ参り給へり。或夜禅林房と同門葉、和泉律師と示し合せ、跡に付きて行きたるに、遮那王、先づ堂へ参り、其れより貴船へ詣うで給ふ。折節空掻暗り、最闇きに、人十人計りの声して、山の上かと思へば、谿の底にあり。又管絃の音聞ゆ。禅林房も和泉も魂を冷し、叢を漸々匍匐て寺に帰りしと云へり。遮那王、僧正が谿にて大天狗に兵法を習ひ給ふと寺中沙汰しあへり。或時覚日密に遮那王殿に此の事を尋ねしに、聊かも宣ふ事もなく、只貴船へ夜毎に詣すと計り答へられしとかや。

『異本義経記』の義経は、生来身軽で軽業を得意とし、悪僧らを相手に打ち太刀の稽古を行いました。『義経記』の義経は昼間は仏教の修行に精進しており、武芸の稽古を行うところを他のものに見せていません。「古態本」『平治物語』では隣の坊に住む稚児を誘って出かけ、市中にたむろする若者たちを小太刀や打刀で切りつけて追いかけ回すという乱暴な様が語られており、『異本義経記』の描写は「古態本」『平治物語』の描写に近いようです。「義経(遮那王)が天狗から兵法を習った」という伝説についてはは、貴船神社に詣でる義経の後をつけた僧侶の目撃談から派生した噂としています。

「鬼一法眼・義経上洛」
都一条堀河に陰陽師鬼一法眼と云ふ者有り。希代の軍書を持つ。是醍醐帝延長元年五月、従三位三位中納大江維時、遣唐使に大宋国へ遣はされ時、龍取将軍に逢ひて伝来の軍書也。黄石公、張良に伝ふる所の兵書と云々。維時七代の後、式部大輔匡時告げに依って鞍馬へ奉納有りし秘書也。鬼一、夢想を請け、奏聞を経、下し預ると云へり。義経是を聞き給ひ、甚だ執心し、都へ上り拵へて見ばやと思ひ立ち給ふとにや。(中略)義経、都一条大蔵卿長成朝臣の方へ上着有りて、後、四条の聖門房をして、一条堀河の鬼一法眼が方へ宣ひたりしそ。
鬼一法眼、生国伊予国吉岡の者とにや。都へ上り陰陽師にて有りしそ。宇治殿の諸大夫、式部大輔盛憲が所縁によりて、頼長公法眼になし給ひて、吉岡法眼憲海と云ひたるとにや。童名鬼一丸と云ひしゆゑに、宇治殿常に鬼一法師と召さる。是に依つて世人も鬼一法眼と呼びたると云へり。

『異本義経記』における「鬼一法眼説話」は『義経記』のそれといくつかの点で異なっています。

まず、『義経記』において軍書は代々帝の宝蔵に秘蔵されたものであり、鬼一法眼は天下と称される為政者のために祈祷をした対価としてこの書を賜りました。一方で、『異本義経記』において軍書は鞍馬寺に秘蔵され、鬼一法眼は夢のお告げを受けてこの軍書を入手しました。幸若舞『未来記』では比叡山に奉納された軍書は白河の印地の大将によって学ばれました。鞍馬寺を経由する『異本義経記』の入手経路は、『未来記』と類似しており、室町時代における「鬼一法眼説話」の変容が反映されていると考えられます。
次に、『義経記』では鬼一法眼の本名や出身地について何も語られていませんが、『異本義経記』では伊予国吉岡の出身で、幼名を鬼一丸といい、吉岡法眼憲海と称したと語られています。

「伊予国吉岡」が具体的にどこを指しているのか不明です。しかし、徳治元年(一三〇六)の院宣により伊予国桑村郡には泉涌寺領吉岡庄が存在したことが確認できますので、あるいはこの地を指しているのかもしれません。

万治二年刊『天狗の内裏』には「四国讃岐の国ほうげん」とあり、江戸時代初期において鬼一法眼を四国出身とする説が唱えられていたようです。

『異本義経記』の鬼一法眼伊予国出身説の典拠になったと考えられているのが、『異本義経記』の注記に引用されている「吉岡本」なる書物です。現在「吉岡本」は所在不明であり、どのような書物なのか判然としませんが、八木直子氏の研究により「吉岡本」は伊予河野氏の歴史・由来をまとめた『予章記』を典拠にしていることが明らかになっています。また、島津久基氏によると、『知緒記』頭註に、「吉岡本、吉岡又左衛門本。津田長俊写之。津田与左衛長俊尾州光義公御家人。」とあるようです。「尾州光義公」とは二代尾張藩主徳川光友のことでしょう。『知緒記』頭註が正しいとすると、「吉岡本」は寛永~元禄以前の成立となります。

『異本義経記』に引用された「吉岡本」には鬼一法眼の経歴が次のように述べられています。

吉岡本に、源頼義朝臣伊予守たりし時、彼の国にして七所に八幡を勧請あり。同じく七仏薬師の尊像を七所に安置し給ふ。其の頃宮傔杖と云ふ者あり。実方中将の子孫なり。予州桑原寺にて出家して、傔杖律師と云ふ。頼義此の律師をして湯月の八幡の社僧にし給ふ。又頼義の四男、伊予権介親清、河野新大夫親軽の聟として、其の家督を継ぐ。然れども子のなきことを親清室家歎きて自ら予州三嶋大明神に参籠通夜ありしに、 宮内に大蛇顕はる。是三嶋大明神なり。室家更に怖れずして、彼の大蛇と密通有りて懷妊、男子を産めり。河野通清是なり。通夜して儲けたるゆゑに、通の字を家の通り字とす。又律師祈祷の丹誠を抽んず。之に依つて河野の祈りの師として、親清夫婦信心あり。其の傔仗律師四代の孫、伊予の吉岡にて出生、鬼一丸と云う者、法師になりて吉岡憲海と云ふとあり。

この「吉岡本」からの引用の典拠となっている『予章記』の記事は、河野氏と源氏との関係性の由来を述べたものですが、「吉岡本」は鬼一法眼伊予国出身説に換骨奪胎しています。

一体「吉岡本」がどのようなもので、誰が書いたのか、今のところ正確なことは分かりませんが、鬼一法眼の本名とされる「吉岡憲海」という名は、代々足利将軍家の兵法指南役を務めたと『本朝武芸小伝』に記された吉岡家の「吉岡拳法」と極めて類似しており、島津久基氏が「吉岡氏のことが詳しいから、恐らく吉岡流の剣道家が偽作又は『義経記』に添加した作であろう。」と述べているように、吉岡氏の関係者が成立に関わっている可能性が高いです。

江戸時代初期における見解


江戸時代初期には「義経が天狗から兵法を習った」という伝説は事実ではないと主張する意見が出てきました。井沢蟠竜は『広益俗説弁』において、

俗説云、源義経鞍馬にありけるころ、鞍馬の奥に僧正が谷といふ天狗の栖なる故に名つけり。義経夜々此所にゆきて天狗に剣術をまなび、軽捷を得たりといふ。

という俗説について批判的意見を述べました。義経が天狗から剣術を習ったという説は、

「①世を憚ってひそかに師を求め、夜毎剣術を学んだ事を『天狗に習った』と表現した」

または

「②鞍馬寺に居住していた当時、平家を滅ぼして父の仇を討とうという憤気・高慢が胸中に満ちた様を『天狗に剣術を学んだ』と形容した」

のいずれかであろうと結論づけました。

毛利家出身であり、甲州流軍学を学んだ小早川能久は、「神武天皇が創始した七軍法」及び「中国から伝来した八陣法」こそが兵法の奥儀であるとの立場に立ち、八陣法の違法を得た鬼一法眼が鞍馬寺の僧侶に剣術を伝授し、鞍馬寺の僧侶から義経に剣術が伝授されのであると述べました。そして、義経が修行の場所として僧正谷を選んだ理由は鞍馬寺の僧侶から鬼一の剣術を習った事実を秘密にするためでしたが、世間の人はそのことを知らなかったため、「義経が天狗から剣術を習った」という噂が広まったのであると主張しました。

これらの主張を受けて、『本朝武芸小伝』巻五「大野将監」では小早川能久と井沢蟠龍の主張を引用し、

愚想ふに、当世の武術怪を好み、異成を尊む、古流はあしきとて、自流を建て、其師をかくし、其法を偸て妄偽をなし、愚成人をあさむき、我自得は飯篠・富田も不可及とのゝしり、邪智高慢胸中に充たるそ、実に天狗流といふへし。

と述べており、「天狗から剣術を習った」と自称する輩に対して批判的な態度をとり、

天狗と云は付会の説なるへし。

(『本朝武芸小伝』巻六「瀬戸口備前守」)

と主張します。

このように、江戸時代前期から中期の知識人の間では、義経が剣術を得意としていたことは認めるものの、「義経が天狗から剣術を習った」という伝説は否定する意見が主流になっていきました。これらの意見は一見合理的なようにも見えます。

一方で、小早川能久が八陣法の遺法を得た鬼一法眼が鞍馬寺の僧侶に剣術を伝授し、鞍馬寺の僧侶から義経に剣術が伝授されのであると述べ、『本朝武芸小伝』巻五「刀術」序にて

伊予守義経者、習刀術於鞍馬僧、顕名誉。

(伊予守義経は、刀術を鞍馬僧に習い、名誉を顕らかにす。)

とあるように、鬼一法眼に由来する剣術を義経が鞍馬僧から伝授されたことは事実であると認識しています。これは「僧正が谷説話」を「鬼一法眼説話」によって解釈しようとする態度と言えます。

しかしながら、前述したように義経がどのようにして人々から称賛された武勇を身につけたのか、それを知るための信頼のできる資料は全く残されておらず、また「鬼一法眼説話」による「僧正が谷説話」の解釈は、室町時代に両説話の融合が進んだ上で、吉岡流という由来不明の剣術流派の主張が付加された結果生まれたものであると考えられます。

そのため、結局のところ伊沢幡龍や日夏繁高の説は、島津久基氏の言うように、伝説的解釈を棄てようとして、かえってなんの証拠もないまま他の伝説的附会の説明に陥ってしまった通俗的な合理化であり、近世初期に新たに生まれた説話の一つと言えるでしょう。

参考文献:
成富なつみ「肥後熊本藩士井沢蟠竜の経歴とその仕事」『国文研究』五十九、熊本県立大学日本語日本文学会、二〇一四年。
八木直子「鬼一法眼譚の構造:「義経記」を中心に 」『甲南女子大学大学院論集』創刊号、甲南女子大学、二〇〇三年。
島津基久『義経伝説と文学』
岡見正雄『義経記』日本古典文学大系、一九五九年、岩波書店。
栃木孝惟等校注『保元物語 平治物語 承久記』新日本古典文学体系、岩波書店、一九九二年。
兵藤裕己校注『太平記』岩波書店、二〇一五年。
小井土守敏・滝沢みか『流布本平治物語 保元物語』武蔵野書院、二〇一九年。
渡辺保『源義経』一九六六年、吉川弘文館。
市古貞次等校注『室町物語集上』新日本古典文学体系、岩波書店、一九八九年。

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