鞍馬天狗伝説と魔仏一如思想
近世以前の日本には、「剣術流派の開祖が天狗から兵法(剣術)を習った」という伝承が複数ありました。しかし、そうした伝承は江戸時代の知識人によって嫌悪され、それらの伝承が捏造であることを証明しようとする言説がしばしばありました。そうした江戸時代知識人の意見が本当に妥当なものなのかを確かめるために、義経の天狗伝説を中心に取り上げ、天狗伝説の生成と拡大の過程を検討したいと思います。
義経にまつわる伝説が広まった経緯については、古典文学研究の世界で成果が積み重ねられています。そこで、それらの成果を利用しつつ、古典文学において義経がどのように描かれてきたのかを検討し、それらが義経の天狗伝および剣術流派の開祖伝説にどのように影響を与えたのかを考えてみたいと思います。
江戸時代初期、鞍馬山には「鞍馬山僧正坊」という天狗が住むと考えられていました。
しかし、鎌倉・室町時代に成立した義経関連の作品で「僧正坊」なる天狗が鞍馬山に住むと語るものは、私が調べた限りでは見つかりませんでした。
幼少期の義経を主人公とした物語としては現存最古のものとなる「古態本」『平治物語』「牛若奥州下りの事」には、
とあり、義経が夜な夜な通った僧正が谷は「天狗・化の住む」と言われている恐ろしい場所であると語られていますが、登場人物としての「天狗」は存在しません。
『義経記』でも僧正が谷は人がほとんど往来しない寂れた場所として描かれており、
と天狗の住処であると語られていますが、登場人物としての「天狗」はやはり存在しません。
このように、「古態本」『平治物語』『義経記』では、僧正が谷が天狗の住処であることは語られていますが、「鞍馬山僧正坊」という天狗は登場せず、また「天狗が義経に兵法を教えた」かどうかについて明確には語られていません。一方で、一四四六年から一五六〇年のどこかで成立した「流布本」『平治物語』では、
と語られており、「天狗が義経に兵法を教えた」という伝承が明確に語られています。このことから、「古態本」『平治物語』の成立時から「流布本」『平治物語』の成立時のどこかで伝承の内容が変化したと考えられます。
室町幕府三代将軍足利義満の時代までに成立した『太平記』の巻二十九「将軍上洛事付阿保秋山河原軍事」には、
とあり、僧正が谷で「天狗が義経に兵法を教えた」という伝承が明確に語られています。しかし、義経に兵法を教えた天狗は「鞍馬山僧正坊」ではなく「愛宕・高雄の天狗」とされています。「愛宕」とは京都の西側にある「愛宕山」のことであり、「高雄」とは「高尾山神護寺」のことでしょう。高尾山は愛宕山系を構成する山々の一つであり、「愛宕」と「高雄(尾)」は一体のものとみなすことができます。
御伽草子『弁慶物語』では、鞍馬の奥から夜な夜な天狗が出て来て人を切っている、という噂話が語られます。
弁慶はこの噂話に興味を持ち、仮に相手が「愛宕山の大天狗」であろうとも、手合わせしてみようと考えます。
実は、鞍馬の奥から出てきた天狗とは義経のことでした。『弁慶物語』での義経は愛宕山や比良山の天狗と慣れ親しみつつ、僧正が谷で兵法の奥義を極めました。
このように、『弁慶物語』でも義経が僧正が谷で兵法の修行を行ったと明確に語られていますが、鞍馬の奥に住むと噂される天狗とは義経のことであり、義経と親交があるのは愛宕山・比良山の天狗です。
なお、伏見宮貞成親王の『看聞日記』「永享六年(一四三四)十一月六日条」に「武蔵坊弁慶物語二巻」とあり、これが現存する『弁慶物語』と同一のものであるならば、『弁慶物語』は室町時代前期から中期頃の成立となります。
他に、幸若舞『未来記』では、僧正が谷で修業をする牛若(義経)を懲らしめるかどうかについて天狗たちが話し合いますが、愛宕山太郎坊と比良山次郎坊の二人が
と牛若を擁護する意見を述べます。
御伽草子『天狗の内裏』では、義経は鞍馬山の山中にあるとされる「天狗の内裏」を訪問します。「天狗の内裏」の紫宸殿の主は「大天狗」と呼ばれ、義経をもてなすために愛宕山太郎坊・比良山次郎坊等の天狗を呼び寄せます。
能『鞍馬天狗』では鞍馬山の「大天狗」が義経に兵法を教えますが、大天狗の「辺土(都周辺)」に住むお供の天狗として愛宕と高雄の天狗が挙げられています。
これらの作品の成立の前後関係は不明な点が多いですが、おそらく義経と愛宕山太郎坊が交流する話が原初の形であり、鞍馬山の「大天狗」は後出の作品で創造された登場人物だろうと推測できます。そして、「鞍馬山僧正坊」が出現したのはそれよりもさらに後の時代だと考えられます。
「鞍馬山僧正坊」という天狗との関連が推測される作品としては『ささやき竹』があります。『ささやき竹』では、悪行を行い天狗に殺された「西光僧正」は悪魔の眷属となりますが、僧侶たちによって神として祀られ、鞍馬山の守護神に変化します。そして、「西光僧正」の死体が発見されたことに因んで、その場所を「僧正が谷」と呼ぶようになった、と語られます。
『ささやき竹』と類似の説話は、古くは鎌倉時代の無住の『雑談集』巻五「古き物語,人ごとに知れる事」がありますが、『雑談集』には「僧正が谷」のくだりはありません。そのそも『真言伝』巻四「権僧正慈済」に
とあるように、「僧正が谷」という地名は「壱演僧正」に由来するものです。おそらく『ささやき竹』は「鞍馬山僧正坊」という天狗が一般的になった後に作られた説話で、それほど古いものではないでしょう。
このように、義経と愛宕山太郎坊との交流が鞍馬天狗伝説の原初の形ではないかと推測できるのですが、それではなぜ義経が交流する天狗として愛宕山太郎坊が選ばれたのでしょうか。
まず、髙雄山神護寺は和気清麻呂の子、真綱と仲世の上奏により、清麻呂が建立した神願寺の代わりの定額寺として成立しました。和気清麻呂は弓削道鏡失脚のきっかけとなった「宇佐八幡神の神託」で有名ですが、皿井舞氏によると神願寺は「仏力をもって神威を増す」という八幡神の要求を満たすために建立されたそうです。そのため、神護寺にも同様の役割が期待されていたと考えられます。
村上天皇の天徳四年(九六〇)九月二十三日の夜、平安京遷都以来はじめて内裏が焼失し、複数の刀剣が焼損してしまいました。朝廷は刀剣の再製作を企図し、当時の陰陽道の第一人者だった天文博士(前陰陽頭)賀茂保憲に鋳造を命じました。(『左大史小槻季継記』安貞二年正月十一日条所引『村上天皇御記』)安倍晴明の証言によると、鋳造は高雄山あるいは愛宕山で行われました。
藤原頼長の『台記』久寿二年(一一五五)八月二十七日条に次のような記事があります。
頼長のもとに親隆朝臣が来て言うには、崩御した近衛天皇の霊が巫に憑依し、「愛宕護山天公像の目に釘を打って呪った者がいるため失明して死んだのだ」と告白しました。これを聞いた法皇は人を確認に行かせると、確かに像に釘が刺さっていました。そこで愛宕の住僧を召し出して問いただすと、住僧は五・六年前の夜中に何かがあったことを述べました。美福門院と関白は忠実や頼長の仕業ではないかと疑いました。しかし、頼長自身は「愛宕護天公」の飛行の事は知っていましたが、「天公像」の存在は知らなかったため、自分が祈誓できるはずがない、と述べています。
この記事の「天公」という語は「天狗」の当て字と解釈されることが多く、平安末期における愛宕山の天狗信仰を示す資料と理解されています。しかし、愛宕山の天狗に言及した同時代の資料は他に確認されておらず、『台記』の「天公」を「天狗」と解釈してよいのか疑問が残ります。
しかし、藤原定家の『明月記』寛喜 三年(一二三一)七月二十七日条には、
とあり、また康政上人が延応元年(一二三九)に記した『比良山古人霊託』には刑部権大輔家盛の妻に憑依した天狗との問答が記されていますが、その中に
との問答があり、『愚管抄』の作者で嘉禄元年(一二二五)になくなったはずの慈円が実は天狗となって今も愛宕山に住んでいると天狗は答えています。こうした資料から、少なくとも鎌倉時代初期には愛宕山は天狗が住む地と認識されていたようです。
愛宕山太郎坊が登場する作品としては、『源平盛衰記』『天狗草紙』『是害坊絵』があります。
『源平盛衰記』「盲卜の事」では、安元三年に都を焼いた「安元の大火(太郎焼亡)」について、盲目の占い師に
と語らせており、愛宕山に住む天狗が火災を起こしたという伝承を載せています。同じ事件について、覚一本『平家物語』「内裏炎上」では、
と、火災は「山王権現のお咎」であると語ります。このように、安元の大火の原因を愛宕山の天狗に求めるのは『源平盛衰記』独自のものであり、『源平盛衰記』成立当時に存在した伝承が反映されたものではないかと思われます。京で発生した火災の原因を愛宕山の天狗に求めた他の例としては、『看聞日記』「永享八年三月六日条」の、京都で起きた火災は愛宕山の天狗が起こしたものではないか、という噂があります。
『天狗草紙』は鎌倉時代末ころの仏教諸大寺・諸宗派僧侶の慢心や行いの乱れを天狗にたとえて風刺し、その天狗らがついには発心成仏するという物語を描いたものです。現在は各地の博物館や美術館に分かれて所蔵されていますが、本来は一セットの作品だったと考えられています。巻七「伝三井寺巻」では、世の憂き事を知った天狗が我執と驕慢を捨てて仏教に帰依しようとする様が描かれます。浄土・天台・華厳・法相・禅・真言の諸天狗はつぎつぎに自宗の教義に従って成仏しようと述べると、最後に天狗の長老は「各自未だ我執が残っているので、急ぎ精進修行して、我が身の無常を観じ、生死の本源に達せよ」と述べました。この諸天狗の中に「愛宕護太郎坊」がいます。
『是害坊絵』は『今昔物語集』巻第二十「震旦天狗智羅永寿渡此朝語第二」を典拠として、大唐の天狗是害房が日本に渡来するが、日本僧との法力争いに敗れ帰るという説話を描いたものですが、愛宕山の「日羅坊」という天狗が是害坊を比叡山に案内します。
『天狗草紙』『是害坊絵』で注目すべきは「仏魔一如」の思想です。
森正人氏が述べているように、『今昔物語』では、「天狗」は仏や修行者を幻惑して成道をさまたげる「魔」と同一視され、仏法によって排斥される滑稽な反逆者として語られており、古代末から中世にかけて「反仏法的」な「魔」としての「天狗」像が広く浸透していました。
『今昔物語集』巻二十「天狗ヲ祭ル法師ノ男ニ此ノ術ヲ習ハサントスル語」では、仏教に敵対する天狗を祭ることは仏教に帰依するものが行ってはならない罪深い邪法であると位置づけ、天狗を祭るものを「人狗」と呼んでいます。
延慶本『平家物語』「法皇灌頂事」では、後白河法皇が園城寺で灌頂しようとしたのを延暦寺の大衆が妨害した事件に関して、住吉大明神が
と語るように、事件を引き起こしたのは大衆に入れ替わった天魔であるとしています。そして、その天魔の姿かたちについて、住吉大明神が
と語るように、ここで言う「天魔」とは実は「天狗」のことを指しています。
また、『天狗草紙』巻一「興福寺巻」では鎌倉時代末ころの仏教諸大寺・諸宗派僧侶の慢心し行いの乱れた僧侶を
と、「天魔外道の伴侶」と称し、『未来記』にて天狗たちが
と語るように、慢心した僧侶が天狗道に堕ちるとも考えられていたようです。
一方で、鎌倉時代までに日本で撰述された偽経『仏説延命地蔵菩薩経』では、この経典を唱えれば天狗・土公・大歳神宮などの悪鬼であっても、邪気を吐き出して空を悟り菩提を証すると説かれています。
また、前述したように、『天狗草紙』巻七「伝三井寺巻」では、世の憂き事を知った天狗が我執と驕慢を捨てて仏教に帰依しようとする様が描かれます。
『今昔物語』「震旦天狗智羅永寿渡此朝語第二」において、日本僧との法力争いに敗れた智羅永寿は、傷を癒やすために湯治を行います。『是害坊絵』でも、日本僧に敗れた是害坊は日羅坊に湯治を所望しますが、日羅坊は
と述べ、「湯治」という行為を「無始ノ罪障」を流して「護法」となるための儀式と規定しています。
降って室町時代に作られた謡曲『善界』では、山伏姿の愛宕太郎坊と善界坊が向き合い、「魔境」「鬼畜」の身の上のために、仏法に心を寄せながらも「仏敵」とならざるを得ない悲しみを訴えている。
これらの「仏の教えに帰依して菩提を証する天狗像」は、『今昔物語』における仏法を妨げる存在であり、また都・国家にとって排斥すべき存在である「反仏法的天狗像」と大きく異なっています。おそらく先に成立したのは「反仏法的天狗像」であり、「仏の教えに帰依して菩提を証する天狗像」は後の時代に成立したものと考えられます。そして、近年の研究によると、「仏の教えに帰依して菩提を証する天狗像」は、天台宗の本覚思想や良源信仰、「仏魔一如」の思想の影響を受けて成立したことが明らかにされました。
平安時代の天台宗の僧で第十八代天台座主の良源(慈恵大師)は、比叡山延暦寺の中興の祖として知られていますが、中世以降仏法擁護のため魔界の棟梁となったという伝説が生まれ、「角大師」という独特の図像が魔除けの護符として広く信仰を集めました。
『是害坊絵』において、是害坊を退けた日本僧の一人が良源なのですが、是害坊は良源を「仏法を護るために大天狗になった存在」であると評します。
なぜ天台宗の高僧が天狗になるのか、その理由を是害坊は天台宗の「諸法実相」という思想を用いて説明します。
是害坊は、天台宗の教えは「諸法実相」という語に集約されると解釈し、「諸法実相」の立場にたてばこの世界のあらゆる事柄が仏法の現れであり、魔界もまた仏の世界でり、魔と仏は一如であると主張しました。さらに、不動明王や毘沙門天のように、仏法に従わない者を調伏しようとする仏は往々にして恐ろしい姿として描かれているという事実に基づき、「天狗のように恐ろしい姿の者が善なる者を守護することは、仏性へ至る方便である」という論理を導き出しました。
良源は比叡山中興の祖として早くから重視されていましたが、その一方で『天狗草紙』では良源も天狗として描かれ、諷刺の対象となりました。原田正俊氏は、当時盛んだった大寺の強訴に、武力を肯定する論理としての良源信仰があったと論じています。
若林晴子氏は、護持僧としての実績を持つ良源が魔物調伏のイメージで信仰されると同時に、顕密体制への批判から諷刺の対象として天狗・魔王と見なされたこと、そして本覚思想の展開によって魔王良源が信仰の対象になり、崇められるようになったことなどを明らかにしています。
浅湫毅氏も、「調伏のかたちとしての元三大師像」にて、文永年間以降に良源像が増えることを踏まえ、蒙古襲来という具体的な異国の脅威に対して外敵調伏が期待されたと推測しています。
なお、『天狗草紙』に
という一文がありますが、私が調べた範囲では「仏説鞍馬毘沙門経」なる経典を確認できませんでした。おそらく毘沙門天信仰に関わる日本で撰述された偽経でしょう。
魔仏一如の思想が天狗のイメージにどのような影響を与えたのか見てきました。では、この魔仏一如の思想は鞍馬天狗伝説に何らかの影響は与えたのでしょうか。
私が調べた限りでは、鞍馬天狗伝説を題材とする説話において「魔仏一如」という語は見られませんでした。そのため、鞍馬天狗伝説が魔仏一如思想から直接の影響を受けたのかどうかは分かりません。しかし、鞍馬天狗伝説の変遷の過程が魔仏一如を示しているように思えます。
古態本『平治物語』「牛若奥州下りの事」にて義経は僧正が谷という「天狗・化の住む」と言われている恐ろしい場所に「夜な夜な」通いますが、昼間は
隣の坊に住む稚児を誘って出かけ、市中にたむろする若者たちを小太刀や打刀で切りつけて追いかけ回すという乱暴な様が語られます。その上築地・端板を自在に踊り超えるという人並み外れた身体能力を見せています。京都の人にとって、こうした振る舞いをする義経こそが天狗に見えたでしょう。『弁慶物語』にて
と人々に噂された天狗とは義経のことだったのですが、『弁慶物語』で描かれた「人々に害をなす天狗としての義経」は古態本『平治物語』の描写を引き継いだものと言えるでしょう。
それに対して、『義経記』巻一「牛若鞍馬入の事」では、自身の身分を知らなかった段階のものではあるが、
と、仏教の修業に精進するさまが描かれています。この仏道修行に精進するさまは流布本『平治物語』にも表現されており、
と、学問の修行と兵法の稽古を両立させており、文武両道の理想の武士として描かれており、人々に迷惑をかける天狗の如き姿は鳴りを潜めています。
鎌倉時代における鞍馬天狗伝説の天狗がどのような性格の者だったのか、作品が残されていないため論じることはできませんが、室町時代に成立した作品に登場する天狗たちは義経に好意的であり、魔物としての行動は見られません。
『未来記』では、僧正が谷で修業をする義経のことを快く思わない天狗たちは、義経を罰しようとしますが、父母の供養のために修行を行う義経の心持ちに感動した天狗たちは、義経に「天狗の法」を教えることにしました。
『未来記』において天狗は慢心を起こした僧侶が堕ちた存在であり、そして義経との別れ際に「くろがねの玉」を渡してお守りにさせました。この本来「魔」の存在が、父母の供養に励む「善」なる存在に「お守り」を与えるという行為は、魔仏一如に則った行動と言えるでしょう。
同様に、『鞍馬天狗』では、義経に兵法を伝授して師弟の契りを結んだ天狗は、平家一門との戦いでは義経の守護神となることを約束します。
参考文献
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