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剣術流派の開祖と天狗伝承

前回まで剣術の歴史を叙述する上で欠かせない要素である関東七流・京八流の伝承についての私の個人的見解を述べました。今回からは京八流の伝承の前提として存在する義経の天狗伝説について考察したいと思います。

剣術流派の開祖伝説の中には、「天狗から兵法を習う」という伝承がしばしば見られます。

その代表が「源義経が天狗から剣術を学んだ」というものですが、他にも様々な伝承がありました。

『本朝武芸小伝』巻五「諸岡一羽」が引く『北条記』には、諸岡一羽の弟子根岸兎角が諸岡の元を出奔して後小田原に居を定め、山伏のような格好をして魔法を行い、「夜な夜な愛宕山太郎坊から兵法の秘術を伝授されている」と称し、微塵流という流派を創始したことを伝えています。

『本朝武芸小伝』巻五「斉藤判官伝鬼坊」に次のような話が記されています。

斉藤判官伝鬼坊者、相州人也。(中略)自幼弱好刀槍之術、而参籠于鶴岡八幡宮。修験行者参籠、而与之同談刀槍之技術、既終夜為刺撃、試之味之。伝鬼坊自然悟其妙旨、耿然。将明、修験乃帰去時、伝鬼問行者曰、「君之術称何流。」修験不言、指曜霊去、終不知其行処。(下略)
(斉藤判官伝鬼坊は、相州の人なり。(中略)幼弱より刀槍の術を好みて、鶴岡八幡宮に参籠す。修験行者参籠して、之と同じく刀槍の技術を談じ、既に終夜刺撃を為して、之を試し之を味わう。伝鬼坊自然と其の妙旨を悟り、耿然たり。将に明けんとし、修験乃ち帰去する時、伝鬼行者に問いて曰く、「君の術は何流を称する。」と。修験言わず、曜霊を指して去り、終に其の行く処を知らず。(下略))

斉藤伝鬼が鶴岡八幡宮に参籠した時の不思議な出会いの話を伝えています。ある時、斉藤が鶴岡に参籠すると、たまたま同じ日に一人の修験者も参籠していました。二人は夜を徹して武芸談義をし、斉藤は剣術の妙旨を悟りました。翌朝、修験者は流派を尋ねる斉藤の問いに答えず、どこへともなく去って行ってしまいました。

修験者は、日本各地の霊山を修行の場とし、深山幽谷に分け入り厳しい修行を行うことによって功徳のしるしである「験力」を得ることを目指すため、天狗を信仰の対象としていました。そのため、この斉藤と修験者が武芸を語り合ったという逸話も、天狗伝承の一種ととらえてよいでしょう。『本朝武芸小伝』は天流を創始した後の斉藤の姿を

以羽毛、為衣服、其体、殆如天狗。
(羽毛を以って、衣服と為し、其の体、殆んど天狗の如し。)
(『本朝武芸小伝』巻五「斉藤判官伝鬼坊」)

と記しています。

東軍流を開いた川崎鑰之助は、上野国白雲山の神に祈って剣術に妙旨を悟った、と伝えられています。

甚好刀術、祈上州白雲山神、而悟其妙旨。潜号東軍流。
(甚だ刀術を好み、上州白雲山の神に祈りて、其の妙旨を悟る。潜かに東軍流と号す。)
(『本朝武芸小伝』巻六「川崎鑰之助者」)

実は江戸時代の白雲山は妙義坊(妙義法印)という天狗が住む山として信仰されており、林羅山の『本朝神社考』でも言及されています。

我邦自古称天狗者多矣。(中略)世之所称、鞍馬山僧正・愛宕山太郎(中略)上野妙義坊(中略)、此等類甚夥。
(我が邦古より天狗を称する者多し。(中略)世の称する所の、鞍馬山僧正・愛宕山太郎(中略)上野妙義坊(中略)、此れ等の類甚だ夥だし。)
(『本朝神社考』巻六「僧正谷」)

白雲山妙義法印より習ったという「天狗流」が存在していました。

或は、上野国白雲山妙義法印と云天狗流也と云、
(『本朝武芸小伝』巻六「大野将監」)

ただし、日夏の考えによると、白雲山の本来の神は「波己曽神」であり、妙義坊信仰は後世の俗説であると断じています。

或人曰、上州白雲山の神を波己曽神といふ。于今小祠あり。妙義坊を祭るは後世浮屠の所為也。
(『本朝武芸小伝』巻六「川崎鑰之助者」)

他に、遠州秋葉山の三尺坊という天狗から剣術を習ったというものや

遠州秋葉山三尺坊と云天狗より伝へし剣術也といひ
(『本朝武芸小伝』巻六「大野将監」)

薩摩島津家臣瀬戸口備前守が自源坊という天狗に逢って妙旨を悟ったというもの

自源流刀術者、瀬戸口備前刀術の妙旨をさとらんとて、伊王滝に籠居する事三日三夜于時、自源坊と云天狗飛来て、妙旨を授ると也。
(『本朝武芸小伝』巻六「瀬戸口備前守」)

等があります。

このように、「天狗から兵法(剣術)を習う」という伝承は近世以前の日本において広く存在したものでした。しかし、江戸時代の知識人の中にはこうした伝承を嫌悪し、これらの伝説が事実無根であることを証明しようとする言説がしばしばありました。

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