『陳氏太極拳図説』の序など

太極拳譜題詞 陳泮嶺(校閲・助刊者)

天地元始のとき、無極にして太極。太極は物を賦し、各おの一つの太極なり。
人は天を体し、本をたずね始めに返る。精・気と神、合わせて一理となる。
大の至り剛の至り、天地を塞ぐべし。それ玄にして測ること莫く、それ勇にして比ぶるもの無し。
吾が宗たる温人、天に英義をほしいままにす。実に拳宗をひらき、ことごとく太極を本とす。
その嗣これをさかんにし、推闡するに易をもってす。尽く人学ぶべく、内外一致す。
愚国術に耽り、見る所多けれども、功用の神、この極にしくは莫し。
潜玩して力追し、その旨を黙識し、その誣ならざることを知り、一幟を標すべし。
その書の成るを喜び、数語を用いて識し、もって欽仰を誌し、もって同志をはげます。

陳氏太極拳図説序 李時燦

拳法は古の兵家の支流である。『漢書』芸文志のいわゆる技巧がこれである。芸文志には『手搏』六篇、『蹴鞠』二十五篇、『剣道』三十八篇が列なっているが、その書は伝わっておらず、どのようなことが述べられているのか分からない。今の拳法を見てみるに、それはいかなるものだろうか。その手足を習い、機械を便にし、機関を積み、それにより攻守の勝を立てる。どうして今のものが古のものと異なると言えるだろうか。温県陳家溝の陳氏は、代々拳法をもって河南省で有名である。咸豐三年、粤寇李開方、十万の衆を率いて河を渡り、温県の南の柳林の中に潜んだ。時に李文清公は家居し、民団を率いてこれを撃とうした。しかし民団は烏合の衆であるため、敵わずに敗走した。陳英義先生仲甡と弟季甡は敵陣に突入し、その頭目楊輔清を陳家溝内に誘い出し、単独でこれを斃した。楊輔清は寇中で大頭王と号し、攻城を得意とすることで有名だった。しかしそれが斃されたことで寇の気は奪われ、衆は西に移っていった。今に至るまで父老が「英義柳林にて敵を殺す事」を談ずるに、得意満面となって口角に泡を飛ばす。大河の南北において拳法といえば必ず陳氏の名が挙がる。乙卯の歳、吾は『中州文献』を編纂するに、『陳氏家乗』を得たのでこの事績を義行伝に収録した。辛酉の歳、英義の哲嗣品三が吾友王子偉臣を介して、家伝を述べた『太極拳図説』四巻のために序を求めてきた。その書を読むに、易をもって経とし、礼をもって緯とし、黄老の学に出入しつつも一をもってこれを貫き、敬をもって内外を養い、深く儒家心身性命の学と合い、いたずらに進退撃刺をもってせず。陽開陰闔して変化無窮の妙を示すこと、古の兵家の述べる所のごとし。技も極めれば道となるのか。火器が出現してより殺人の道具はますます巧みになり、匹夫は寸鉄をもって数里の外から人を狙撃し、当たってしまうと拳法もたちまちに効能を失ってしまう。このに至って、浅識者はこれを無用のものとみなし捨て去ってしまい、その術は今に至るまで不振である。そもそも拳法を御侮制敵に用いるのは、その粗の要素である。粗が稚拙であることをもってその精を廃してしまうとは、なんと嘆かわしいことではないだろうか。吾が国の民は軽々しくこの長ずるところを捨てて、日々古いやり方を失ってしまう。なんと痛ましいことではないか。吾が中華人民すべてに衛身衛国の技を演習させれば、必ずや益があるだろう。中華民国十年小陽月、衛輝の人敏修李時燦識。

陳氏太極拳図説序 杜厳

天地の道は陰陽である。そして人身もまたそうである。人身の陰陽を顧みるに、往々にしてその平を得ないので、血気は滞り、疾病が生ずる。それゆえに錬気の術は尊いのである。中国の拳術は流転することすでに久しく、みなが武技を修練しているが、その精義はぼんやりとして論じられることがない。その一つ二つをわずかに知っているものは、それを珍重して人に示そうとせず、まことに遺憾なことである。品三陳先生は、英義先生の哲嗣であり、つとに拳術に精通し、また深く理を学び、数十年の心得を積み、『太極拳図説』の一書を著した。己巳の歳の初夏、先生は杖をついて余を訪ねてきたが、髪と髭を翻し、年齢はすでに八十一歳であった。余にこの書のことを語り、これを読んでみるに、その拳術における屈伸開合こそがすなわち陰陽闔闢の理であることを繰り返し明らかにし、詳しく説明するすることを厭わない。先人がいまだ明らかにしてこなかった秘密を初めて明らかにしたと言えよう。まさに今、国術が提唱され、国術館が開設されて人士に教えている。もしこの書を得て授業に資すれば、労少なくして事成り、一日に千里を駆けるほどの功績を成し遂げるだろう。その裨益することどうして浅いと言えようか。先生のこの書の拳術は骨肉の均整が取れている。思うに動静が交わり、陰陽を養うのは、平を得るための精義である。余は浅学非才であり、いまだその奥妙をうかがい知ることができないが、謹んで管見を記し、諸賢の指摘を待つ。中華民国十八年五月、杜厳敬識。

自序 陳鑫

古人曰く、先達の推薦が無ければ、たとえどれほどの才能を有していようとそれが発揮されることはない。後進による伝承がなければ、たとえどれほどの功績を挙げようとも次第に湮滅してしまう。これは伝と受が互いに資することを述べている。我が陳氏は古代陳国の支流であり、山左より河南に移り宅を定めた。明の洪武七年、始祖(諱)卜、耕読の余に陰陽開合をもって全身を運転し、子孫に消化飲食の法を教えた。その理は太極を根本としているため、太極拳と名付けた。伝えること十三世にして我が曽祖(諱)公兆に至り、文武の才を兼ねた。再伝して我が祖(諱)有恒、我が叔祖(諱)有本に至る。叔祖は学業が甚だ深く、しばしば薦められるも、合格することなく、ついに廩貢になる。技芸は精美で群を抜き、天下の知勇で尊ばぬものはいなかった。そこで拳術を我が先大人(諱)仲甡、我が先叔大人(諱)季甡に伝えた。先大人と先叔は同胞の兄弟であり、終生弛むことなく、神化に至る。もし先達がこれを伝えることがなければ、たとえ後進がいたとしても、どうしてそれを記述することができようか。先大人は我が兄(諱)垚に習武を命じ、愚に習文を命じた。習武については見るべきものが有るが、習文については成し遂げたことがなかった。これは誠に予の罪である。幸いなことに、幼い頃から側に侍って見聞きし、久しく薫陶を得て、この芸の一端を窺い知ることができた。いまだ法華三昧には至らず、わずかに枝葉を得るのみであるが、その中にも妙理循環し、時に趣を覚えることもある。今では年老いて七十余となった。吾の一知半解を後進に伝えなければ、さらに罪を重ねる結果にはなるまい。しかしながら、愚は時流の移り変わりが切迫していることを恐れ、また門戸が分かれ我が真伝が失われることを恐れる。そのため課読の余暇に秘されていた事柄を明らかにし、ことごとく述べ終わった。光緒戊申より民国己未まで、十二年にしてその書は初めてなった。また急いで簡冊を繕写した。六月の盛暑ではあったが、怠らなかった。説中の言が先人の立法の意と万に一つでも合っているかどうか吾には分からないが、先大人の六十年の苦心が湮滅せず、また祖宗十六世の家伝が吾の代で断絶しないことを乞い求めるばかりである。愚は詞章に疎く、風雅な文章を綴ることができないため、俗語を用いて大意を記した。読者がこの書を野卑な言葉であるとして唾棄することがなければ、昇堂して室に至るだろう。さすれば上は国家のために賊寇を防ぎ、、下は筋骨のために精神を強くする。光り輝く宝塔のごときこの拳術が代々相伝されて衰えることがなければ、なんと喜ばしいことではないだろうか。この書はすでに吾が家に伝わっているので、また世間に伝えようと思う。ただ専門家に一笑されることを恐れる。民国八年歳次己未九月九日、木欒店訓蒙学舎にて陳鑫序を書す。

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