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『平治物語』の成立年代について

近世以前の日本には、「剣術流派の開祖が天狗から兵法(剣術)を習った」という伝承が複数ありました。しかし、そうした伝承は江戸時代の知識人によって嫌悪され、それらの伝承が捏造であることを証明しようとする言説がしばしばありました。そうした江戸時代知識人の意見が本当に妥当なものなのかを確かめるために、義経の天狗伝説を中心に取り上げ、天狗伝説の生成と拡大の過程を検討したいと思います。

義経にまつわる伝説が広まった経緯については、古典文学研究の世界で成果が積み重ねられています。そこで、それらの成果を利用しつつ、古典文学において義経がどのように描かれてきたのかを検討し、それらが義経の天狗伝および剣術流派の開祖伝説にどのように影響を与えたのかを考えてみたいと思います。

前回は『平治物語』下巻「牛若奥州下りの事」の「古態本」と「流布本」における義経の描かれ方を比較しました。今回は『平治物語』の成立時期を検討します。

まず『平治物語』成立時期の下限についてですが、石井行雄氏の研究によると、東大寺の宗性上人編著『春花秋月抄草』の寛元四年(一二四六)の執筆箇所に、『平治物語』「古態本」と類似する文言が書きつけられた紙片が綴じ込められていました。このため、寛元四年(一二四六)閏四月が『平治物語』成立の下限とされています。

成立の上限は、物語中の次の二つの記述を根拠として推定が行われています。

一つ目は、「光頼卿参内の事並びに許由が事付けたり清盛六波羅上著の事」における信頼の服装です。緒戦に勝った信頼は「ひとへに天子」のようにふるまい、普段は「小袖に赤大口」を身につけ、冠には天皇のみが用いる巾子紙を用いた、と書かれています。

順徳天皇著『禁秘抄』「御装束事」には、天皇の本来の普段着姿は、上は白の練り絹の二衣(二枚重ねの衣)、下は赤の生絹の袴でしたが、後鳥羽天皇の建久年間(一一九〇-九九)以後、小袖と赤大口を用いるようになった、とあります。この『禁秘抄』の記述によると、信頼の姿は建久以降の服装が前提となるため、物語の成立は建久以後となります。

二つ目は、待賢門合戦の場面です。平重盛は五百余騎を率いて大内裏の待賢門から討ち入り、内裏紫宸殿前の大庭まで攻め込んだとあります。待賢門から大庭に至るためには、東雅院と大膳職の建物の間を通り、建礼門・承明門という内裏の二門を経るのが最短距離ですが、それでもおおよそ四百メートル以上あります。また、郁芳門にいた源義平が大庭に到着するには、重盛よりも二百メートル余り長く駆けなければなりません。しかし、『平治物語』では義平を「大庭に向てあゆませけり」という悠然とした姿として描いています。

また、陽明門・待賢門・郁芳門の三門に押し寄せた平氏軍が「門の内を見入たれば、承明・建礼両門をひらいて、大庭には鞍置き馬百疋ばかりひき立たり」という情景を見たと記されていますが、各門と大庭との位置関係から、実際にはこのようには見えないとるはずがありません。これらのおかしな叙述から類推すると、『平治物語』作者は大内裏の全体構造や正確な距離感を把握していなかったように思われます。

『皇居年表』によると、内裏は承久元年(一二一九)七月十三日、放火されて多くの建物を失い、翌年再建が始まるものの、四月二十七日には陽明門と左近衛府・左兵衛府などが火災にあい、そして嘉禄三年(一二二七)四月二十二日、鷹司室町辺より発した火事が東風にあおられて大内裏に波及、再建途中の殿舎を灰燼に帰せしめ、その後は遂に再建されませんでした。承久の罹災以前には、上皇や天皇が院御所や里内裏から内裏に赴く場合、待賢門を経て建礼門・承明門から入る順路が多く取られていましたが(『明月記』承玄二年(一二〇八)九月十四日条、『玉葉』建暦元年(一二一一)十月十九日条等)、罹災以後は内裏に行くこと自体が途絶えてしまい、大内裏の門と内裏の門との位置関係が人々の記憶から薄れていきました。

以上の点に基づき、日下力氏は新日本古典文学体系『保元物語・平治物語・承久記』の解説で、待賢門合戦の場面は内裏の構造が忘れられた時代の認識を反映していると考え、原『平治物語』の成立期を一二二〇年代から一二四六年の間と推定しました。

さらに弓削繁氏は、『保元物語』『平家物語』『承久記』が成立したのもこの期間であり、承久の乱における上皇方の敗北がこれらの軍記物語の成立の契機になった可能性を指摘しています。

そして、前回も述べたように、『平治物語』はは誕生後も後人の手により改作され続け、諸本によって内容にかなり異同があり、大きな改作は二段階あったと考えられています。第一の大きな改作が、原『平治物語』から「古態本」への改作であり、当時独立して通行していた作品群が『平治物語』に取り込まれました。下巻の大部分を占める源氏の後日譚が増補部分であると考えられています。

前回取り上げた「牛若奥州下りの事」も本来は独立した物語であったと考えられています。しかし、この段の原型となった物語は現存していません。そのため「古態本」『平治物語』「牛若奥州下りの事」は、幼少期の義経を主人公とした物語としては現存最古のものとなります。

参考文献

山本清「一類本平治物語の成立-「平治記」とその作者-」『論究日本文学』四十四、一九八一、立命館大学日本文学会。

栃木孝惟等校注『保元物語 平治物語 承久記』新日本古典文学体系、岩波書店、一九九二年。

谷口耕一「平治物語の虚構と物語-「待賢門の軍の事」の章段をめぐって-」『語文論叢』二十二、一九九四年、千葉大学文学部国語国文学会。

弓削繁「承久の乱と軍記物語の生成」『中世文学』四十二巻、一九九七、中世文学会。

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