大江匡衡と老子九変説

日本における老子九変説の受容の時期

前回までに、「四十二巻の兵法書」の一つ『兵法霊瑞書』および山王神道の教理書『耀天記』における老子九変説の受容について紹介しました。今回は、日本における老子九変説受容のもう一つの例を紹介します。

日本で老子変化説が受容されたのがいつ頃なのか、今のところその正確な時期は分かりませんが、『兵法霊瑞書』『耀天記』以前の例として、大江匡衡の次の詩の序があります。

頃年以累代侍読之苗胤、以『尚書』一部十三巻、『毛詩』一部廿巻、『文選』一部六十巻、及『礼記』文集、侍聖主御読。皆是莫不潤色鴻業、吹瑩王道之典文。又近侍『老子道徳経』御読、国王理政之法度爰顕、長生久視之道指掌。講竟之日、有所感悟。老子者、天地之魂精、神霊之総気、変化自在、何代無之。老子未生已前、化胡已來、変為代代帝王師。伏羲時出為師、居大野中、号欝華子、作『元陽経』。神農時出為師、居済陰、号太成子、作『太遊精経』。祝融時出為師、居恒山、号広寿子、説『案摩通精経』、教以安神之道。陶鑄為器、変生冷毒。黄帝時出為師、居崆峒、号広成子、説『道成経』、教以理身之道。帝行之、垂衣裳、立市利天下。時景星曜万人康。顓頊時出為師、居衡山、号赤精子、説『微言経』、教以忠順之道。帝行之、制礼楽、以和天下。帝嚳時出為師、居江濱、号録図子、説『黄帝経』、教以清和之道。帝行之、作鐘鼓管籥、暢風俗天下睦。堯時下為師、居姑射山、号務成子、説『政事離合経』、教以謙謹之道。景星見。舜時下為師、居河陽、号尹寿子、説『道徳経』、以孝悌之道。帝行之、先人後己、在鰥独、時景星耀人懽。夏禹時下為師、居南山、号真行子、説『徳戒経』、教以勤倹之道。禹行之、浴風雨決水、人安楽。殷湯時出為師、居潛山、号錫別子、説『長生経』、教以恭愛之道。湯行之、視人知己、恩及昆蟲、時華戎服。周文王時出為師、居岐山、号変邑子、為守蔵史、説『赤精経』、教以仁信之道。周行之、礼賢好義。武王時出為師、居楼観、号育成子、為柱下史、作『璇璣経』。成王時出為師、号経成子。康王時出為師、号郭叔子。成康時刑措四十余年。(下略)

(『江吏部集』巻中 人倫部 述懐)

この詩の序は匡衡が帝に『老子』を侍読して感じるところがあったので作ったものです。この序の中で、「老子未生已前、化胡已來、変為代代帝王師。」と述べており、匡衡が老子変化説を認識していたことが分かります。なお「化胡已來」とは、西域に去った老子が仏となり仏教を開いた、という「老子化胡説」のことです。

匡衡以前に老子変化説に言及した記録があるのか確認できていませんが、少なくともこの匡衡の序から、匡衡が没した長和元年(一〇一二年年)以前に老子九変説が日本に受容されていたことが確定します。

匡衡序の典拠

さて、匡衡は老子変化説を受容していたわけですが、匡衡の序で言及されている老子の名前は、前回紹介した後漢期の資料と部分的に一致するものの、多くは異なっています。おそらく、後漢以降老子九変説の内容に変化があったのでしょう。

そこで、匡衡序がいかなる資料に基づいているのか考えてみたいと思います。

まず、顓頊・帝嚳・堯らが赤精子・録図子・務成子等から学んだという説話は、前漢の劉向の『新序』に見えます。

魯哀公問子夏曰、「必学而後可以安国保民乎。」子夏曰、「不学而能安国保民者、未嘗聞也。」哀公曰、「然則五帝有師乎。」子夏曰、「有。臣聞黄帝学乎大真、顓頊学乎緑図、帝嚳・学乎赤松子、堯学乎尹寿、舜学乎務成跗、禹学乎西王国、湯学乎威子伯、文王学乎鉸時子斯、武王学乎郭叔、周公学乎太公、仲尼学乎老聃。此十一聖人、未遭此師、則功業不著乎天下、名号不伝乎千世。

(劉向『新序』「雑事五」)

ただし、この『新序』に記された説話は、古代の各時代の帝王それぞれに師がいたことのみを伝えるものであり、それぞれの師が老子が変化した姿であるとは述べていません。そのため、この『新序』の説話は、後世の老子九変説の素材の一つではあるものの、この説話が記録された前漢の時点では老子九変説の範疇に含まれていません。

次に、前回までに確認できた老子九変説の資料を時代順に並べると、次のようになります。

~後漢
辺韶『老子銘』
羲農(黄)以来、世為聖者作師。

『史記』巻五十五「留侯世家」太史公賛「索隠」引『詩緯』
風后、黄帝師
又化為老子、以書授張良。

応劭『風俗通義』「正失」
黄帝:風后
堯:務成子
周:老聃
越:范蠡
斉:鴟夷子皮
(前漢 武帝:東方朔)

西晋
葛洪 朱熹『資治通鑑綱目』巻四十二下「睿宗皇帝景雲二年十一月」引「葛稚川曰」
上三皇:玄中法師
下三皇:金闕帝君
黄帝:力黙子、広成子
周文王:支邑先生
周武王:郭叔子
漢初:黄石公
漢文帝:河上公。

~北魏
『太上老君開天経』
太初:為太初之師、口吐『開天経』
太始:為師、口吐『太始経』
太素:為師
混沌:為師
九宫:為師、口吐『乾坤経』
元皇:為師、口吐『元皇経』
天皇:為師
伏羲:号无化子、一名鬱華子、『元陽経』
神農:号曰大成子、作『太微経』
燧人:為師
祝融:号広寿子、作『按摩通精経』
黄帝:号曰広成子、『道戒経』
少昊:号曰随応子、作『玄蔵経』
顓頊:号曰赤精子、作『微言経』
帝堯:号曰務成子、作『政事経』
帝舜:号曰尹寿子、作『太清経』
夏禹:号曰直行子、作『徳誡経』
周初:号曰燮邑子、作『赤精経』

~隋
『辨正論』巻五 引『元皇暦』
清濁元年:下師伏羲
未分元年:下師神農
太元元年:下師𥙿(一本作松容)
凡経一十二代。変為一十七身。始自玄老。終乎方朔。

匡衡序
伏羲:欝華子、『元陽経』
神農:太成子、『太遊精経』
祝融:広寿子、『案摩通精経』
黄帝:広成子、『道成経』
顓頊:赤精子、『微言経』
帝嚳:録図子、『黄帝経』
堯:務成子、『政事離合経』
舜:尹寿子、『道徳経』
夏禹:真行子、『徳戒経』
殷湯:錫別子、『長生経』
周文王:変邑子、『赤精経』
武王:育成子、『璇璣経』
成王:経成子
康王:郭叔子

まず、後漢期において黄帝の師として老子が変化したのは風后とされていますが、西晋のころから広成子に入れ替わっています。

広成子は中国の代表的な仙人であり、『荘子』外篇「在宥篇」に、崆峒山の石室に住む広成子に黄帝が道を尋ねるという説話が記されています。

黄帝立為天子十九年、令行天下、聞広成子在於空同之上、故往見之。

(『荘子』外篇「在宥篇」)

『太上老君開天経』(『開天経』)は、天地開闢以来の歴史を述べつつ、太上老君たる老子が各時代に繰り返し現れ、人類に法を授けたことを述べます。『太上老君開天経』がいつ作られたのか正確な時期は不明ですが、『仏祖統紀』に、道士の姜斌が『太上老君開天経』を引用したことが記録されているため、正光四年(五二三)以前に成立したことは確実です。

帝曰、仏与老子同時否。道士姜斌曰、『開天経』云、老子定王三年生。」

(『仏祖統紀』巻第三十八「北魏孝明帝正光四年」)

「〇〇の時に老子が〇〇と号し、〇〇とい経典を作った」という形式が確立するのは『太上老君開天経』以降であり、『太上老君開天経』の号と経典名の多くが匡衡序と一致しています。しかし、一部異なっており、匡衡が典拠にしたのは『太上老君開天経』ではないでしょう。

楼観

残念ながら、匡衡がどの書物を直接の典拠としたのか明らかにすることはできませんでした。しかし、この問題を考えるうえで手がかりになりうるのが、匡衡序における周の武王の時に「居楼観(楼観に居)」たという一節です。

「楼観」とは、中国の陝西省終南山にあった道教の寺院(道観)、及びそこを拠点とする道教の宗派のことだと思われます。

終南山は古都西安の近くにある宗教的な聖地であり、多くの修行者が訪れました。

仏教においては南山律宗(開祖は道宣、道宣の曾孫弟子が鑑真)、華厳宗、三論宗の発祥の地であり、経典を多く翻訳した鳩摩羅什の墓地や、浄土宗の善導が修行したとされる悟真寺も終南山にあります。

盛唐の詩人王維には終南山における生活を詠んだ詩があります。

「終南別業」
中歳頗好道、晚家南山陲。
興来毎独往、勝事空自知。
行到水窮処、坐看雲起時。
偶然値林叟、談笑無還期。

道教においては「楼観道」という道教の宗派が終南山で活動しました。初唐の三大家の一人欧陽詢の「大唐宗聖観記」は楼観の歴史を記した碑ですが、この碑には楼観が老子を西域に見送った尹喜の旧宅であるという伝説が刻まれています。この伝承自体は楼観を権威付けるために作られたものでしょう。しかし、楼観には欧陽詢の碑以外にも、「唐宗聖観主尹文操碑」「唐老君顕見碑」「大唐聖祖玄元皇帝霊応碑」など、唐代の石碑が複数残されており、唐代における楼観の繁栄の様が想像されます。

この楼観の隆盛の原因として、李姓である唐王朝が老子(李姓)を始祖とする道教を尊崇したことにあるのは疑いようがなく、それは「唐老君顕見碑」に、夢に老子の姿を見た玄宗が、道士に命じて祀らせたことが記されていることからも分かります。

こうした楼観の繁栄を踏まえると、楼観の道士が『太上道君開天経』に「武王時出為師、居楼観、号育成子」という一節を付加し、何らかの経路で『太上道君開天経』ないしそれを抜書きしたものが日本に伝わり、それを匡衡が参照したのではないかと推測します。

老子変化説の資料原文:
朱熹『資治通鑑綱目』巻四十二下「睿宗皇帝景雲二年十一月」引「葛稚川曰」
老子無世不出、数易姓名。初出於上三皇時、号玄中法師。出於下三皇時、号金闕帝君。出黄帝時、号力黙子、又号広成子。出周文王時、為守蔵史、号支邑先生。出周武王時、為柱下史、号郭叔子。出於漢初、号黄石公。出於漢文帝時、号河上公。

『辨正論』巻五 引『元皇暦』「案道經元皇暦云、吾以清濁元年正月甲子。下師伏羲。治國太平白日昇天。又云。未分元年八月甲辰。下師神農。太元元年下師𥙿。一本作松容。凡經一十二代。變爲一十七身。始自玄老。終乎方朔。」

参考文献:
山城喜憲「河上公章句『老子道徳経』古活字版本文系統の考索(上)」『斯道文庫論集』慶應義塾大学附属研究所斯道文庫、一九九九年。

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