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幸若舞『未来記』

近世以前の日本には、「剣術流派の開祖が天狗から兵法(剣術)を習った」という伝承が複数ありました。しかし、そうした伝承は江戸時代の知識人によって嫌悪され、それらの伝承が捏造であることを証明しようとする言説がしばしばありました。そうした江戸時代知識人の意見が本当に妥当なものなのかを確かめるために、義経の天狗伝説を中心に取り上げ、天狗伝説の生成と拡大の過程を検討したいと思います。

義経にまつわる伝説が広まった経緯については、古典文学研究の世界で成果が積み重ねられています。そこで、それらの成果を利用しつつ、古典文学において義経がどのように描かれてきたのかを検討し、それらが義経の天狗伝および剣術流派の開祖伝説にどのように影響を与えたのかを考えてみたいと思います。

古態本『平治物語』下巻「牛若奥州下りの事」は幼少期の義経を主人公とした物語としては現存最古のものであり、「天狗・化の住むと云」う僧正が谷に夜な夜な通ったことが語られます。しかし、登場人物としての天狗は存在せず、「義経が天狗から兵法を習った」という伝承が鎌倉時代の時点ですでにあったのか、確実なことは言えません。

一方で、『太平記』巻二十九「将軍上洛事付阿保秋山河原軍事」では、僧正が谷で愛宕や高雄の天狗が義経に兵法を授けたという伝承が語られます。ことから、鎌倉時代後期から南北朝時代の間に「義経が天狗から兵法を学んだ」という説話が成立したのはないかと推測できます。ただし、そのような説話は現存しないため、本当にそのようなものがあったのか、仮にあったとしてどのようなものであったかは不明です。

現存する義経と天狗が交流する物語は室町時代以降に作られたものです。その中で代表的なものは、幸若舞『未来記』、謡曲『鞍馬天狗』、御伽草子『天狗の内裏』です。この三作品において義経と天狗の交流がどのように描かれているか検討してみたいと思います。

幸若舞は室町時代から江戸時代にかけて隆盛した芸能の一つです。言い伝えでは、南北朝時代の武将桃井直常の孫幸若丸直詮が創始したとされていますが、この説は伝説の域を出ておらず、正確なところは分かりません。『管見記』嘉吉二年(一四四二)の条に「幸若大夫」という言葉が見えるため、このころには幸若舞が行われていたと考えられます。

『未来記』は義経の活躍を題材とする「判官物」の一作品であり、僧正が谷で兵法の修業をする義経に、天狗が義経の未来を語るものです。兵法に関わる部分を抜粋します。

去間牛若殿。鞍馬の奥そうしやうかかけといふ所へ。夜な〳〵通ひ給ひけり。天下をおさめん其ために。兵法けいこのたしなみなり。抑兵法と申は。三略のじつしよたり。昔大唐しやうざんの。そうけいが伝へしひしよなり。吉備の大臣入唐。し八拾四巻の中より。も四十二帖にぬき書て。我朝へわたされしを。坂のうへのりじん九年三月にならひ。敵をしつめたまひけり。扨其後に田村丸。十二年三月にならひ。ならさか山のかなつむて。鈴鹿山の盗人。かゝるげきとをたいらげ。天下をまほり給ひけり。扨其後にすたりゑいざんにこめられしを白河いんぢのこのかうべ。ならふとは申せ共。さしたるゆうはなかりけり。さる間牛若殿。唯さんがくをはしりまはり。枯木の枝を伝ひ。御身をかろめ給ひけり。爰に天狗共さしあつまり。内儀ひやうちやうするやうは。抑当山は。じかく大師の秘所として。行人ならでは此山へ通ふものもなかりしに。鞍馬寺の牛若が。我等がすみかをあざける事。其いわれなき物を。いざや天狗のほうばつを。あてんなんどゝ申けり。愛宕の山の大天狗。太郎坊申やう。抑此見ふようにて。親にも師にも不孝ならば天狗の。ほうばつあつべけれ共。父母けうやうの其ために。兵法けいこのたしなみなり。父母のけうやう有者は。かならず天道の加護を蒙に。ばつしたまはんせんぎこそ。しかるべくもなしといふ。ひらの山の次郎坊。進出て申やう。抑我等が異名を天狗といふはいはれあり。むかしは人にてさふらひしが。仏法を能習ひ我より外に智者なしと。大まんじんをおこすゆへ。仏にはならずして天狗道へおつるなり。たとへまんじんおゝくして。此だうへおつる共。情をいかでしらざるべき。いさや牛若合力し。天狗のほうをゆるし。親の敵をうたせん。尤然べしとて。むねとの天狗七八人。若山伏の出たち。牛若殿の前にゆき。いかに小人きこしめせ。(中略)是迄しやうじまいらせて。対面申しるしには。天狗のほうをゆるすなり。是をまぼりにかけよとてくろがねの玉をと取出し。牛若殿にまいらせて。かきけすやうにうせければ。有し所はうちうせて。そうじやうがかけなる。松の枝にぞおはしける。扨は天狗がうしわかを。かどへけるよと思召。東光坊にかへらるゝ。

笹野堅編『幸若舞曲集』所収内閣文庫本『未来記』、第一書房、一九四三年。

牛若は鞍馬山の奥僧正が谷(『未来記』では崖とする)に夜な夜な通い、天下を治めるために兵法の稽古をしていました。『未来記』において兵法とは唐(中国)の「しやうざん」に住む「そうけい」という者が伝えた「三略」という書物が原型であるとされています。「三略」は全八十四巻ですが、遣唐使として唐に渡った吉備真備が八十四巻から抜書きして四十二帖にし、日本にもたらしました。この四十二帖の兵法書は、「坂のうへのりじん」や「田村丸」によって学ばれ、彼らの功績の基礎になりました。後にこの書は「ゑいざん(=比叡山)」に奉納され、白河の印地の大将によって学ばれましたが、彼らはこの書を十分に活用できませんでした。牛若は山中を走り回り、枯れ木を伝って飛び、軽業を身に着けました。僧正が谷で兵法の修業をする牛若の様子を見て、天狗たちが集まり話し合いを行います。最初は牛若を懲らしめようという意見がありましたが、父母への孝行のための兵法の修行には必ず天道の加護があるため罰するべきではないという意見が出たため、牛若に「天狗の法」を伝授することにしました。

『未来記』の冒頭で語られる「吉備真備が中国がもたらし坂のうへのりじん・田村丸らが継承した兵法」とは、『義経記』巻二「義経鬼一法眼が所へ御出の事」で

爰に代々の御門の御宝、天下に秘蔵せられたる十六巻の書有(り)。異朝にも我朝にも伝へし人一人として愚かなる事なり。異朝には大(太)公望これを読みて、八尺の壁に上り、天に上る徳を得たり。張良は一巻の書と名付(け)、是を読みて、三尺の竹にのぼりて、虚空を翔ける。樊噲是を伝へて甲冑をよろひ、弓箭を取つて、敵に向ひて怒れば、頭のかぶとの鉢を通す。本朝の武士には、坂上田村丸、これを読み伝へて、あくじ(悪事)の高丸を取り、藤原利仁これを読みて、赤頭の四郎将軍を取る。

と語られる兵法と同一のものです。『未来記』の「坂のうへのりじん・田村丸」とは藤原利仁と坂上田村丸の二人の名が混同されたものでしょう。

しかし、『未来記』で語られる兵法の伝来譚と『義経記』のそれとの間にはいくつかの差異があります。

まず、『義経記』では太公望・張良・樊噲に由来する兵法とされていますが、『未来記』では「しやうざん」の「そうけい」なる人物が伝えたものとされています。また、『義経記』では兵法の書名は「六韜兵法」とされていますが、『未来記』では「三略」となっています。そして、『義経記』では兵法の巻数は「十六巻」とされていますが、『未来記』は「八拾四巻」より抜書きした「四十二帖」となっています。さらに、『義経記』の鬼一法眼に相当する人物は、『未来記』では「白河いんぢのこのかうべ」、すなわち「白川の印地の大将」と称されています。これらの差異は、中国伝来の兵法書に関する伝承そのものが変化したことを示しています。これらの差異は物語の大筋には影響しないので、ここではこれ以上検討しないこととし、後日改めて論じたいと思います。

物語の大筋に大きく影響を与えているのは、藤原利仁・坂上田村丸以降の伝来についてです。

『義経記』では

それより後は絶えて久しかりけるを、下野の住人相馬の小次郎将門これを読み伝へて、わが身のせいたんむしやなるによつて朝敵となる。されども天命をそむく者の、やゝもすれば世を保つ者すくなし。当国の住人田原藤太秀鄕は勅宣を先として将門を追討のために東国に下る。相馬の小二郎防ぎ戦ふといへ共(ども)、四年に味方滅びにけり。最後の時威力を修してこそ一張の弓に八の矢を矧げて、一度に是を放つに八人の敵をば射たりけり。それより後は又絶えて久しく読む人もなし。たゞいたづらに代々の帝の宝蔵に籠め置かれたりけるを、その比(ころ)一条堀河に陰陽師法師に鬼一法眼とて文武に道の達者あり。天下の御祈禱して有(り)けるが、これを給(賜)はりて秘蔵してぞ持ちたりける。

とあるように、坂上田村丸以後久しく読む者がいなかったが、平将門がこの兵法書を読み、その後帝の宝蔵に籠め置かれ、鬼一法眼に下賜されました。この伝来の流れを図にすると次のようになります。

これに対して、『未来記』では坂上田村丸・藤原利仁以後この兵法書は比叡山に籠め置かれ、白川印地の大将に伝授され、また義経は僧正が谷で修行しました。この伝来の流れを図にすると次のようになります。

この伝来系統だと、白川印地の大将と義経は比叡山に籠め置かれていた兵法書を別個に入手したと解釈することができ、義経と白川印地の大将の間に師弟関係は成立しないことになります。この兵法書の伝来系図の違いは、「僧正が谷説話」と「鬼一法眼説話」を融合しようとした結果起きたことではないかと考えられます。

義経が鞍馬山僧正が谷で兵法を修行したことを語る「僧正が谷説話」と、義経が鬼一法眼から兵法書を盗み出す「鬼一法眼説話」は本来それぞれ独立した作品であり、別の時代、別の場所で成立したと考えられます。

その後、義経にまつわる説話群が人々に広く受容されるに伴って「僧正が谷説話」と「鬼一法眼説話」も人々に広く知られるようになりました。すると、「僧正が谷説話」を主、「鬼一法眼説話」を従とする形で統合しようとする動きがあったのではないかと想像します。そうした動きの結果生まれた作品が『未来記』であると考えられます。『未来記』では「鬼一法眼説話」の義経が鬼一法眼から兵法書を盗み出すくだりが削除された形で両説話が接続されています。ただ、『未来記』では両説話の統合は深化しておらず、単純に接続しているだけであり話の筋が十分に整理されているとはいえません。そのため、『未来記』において義経は中国に由来する「四十二帖の兵法書」と、天狗から伝授された「天狗の法」という二種類の兵法を習得することになりました。

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