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とりあえずの急場しのぎ

朝起きて。いや、まず起きれない場合は「今日もやばい」という判断をする。でも子供のしたくはあるし、仕方なく起きるけれども、体と心から乖離した状態が続く。体は朝食を作ったりしているけど、頭は「なんでやばいんだ?」「なにが引っかかってる?」と原因追求をずっとしている。

今日は比較的調子がよかったのだが、また1通のSNSのせいでぶちこわしだ。

ポイントは誰にも悪意も向けられていない、という点だ。わたしに文句を言った人は誰もいない。なのに勝手に傷ついている。ほんとにまったく、だ。こんなときどうするか。ここ最近、考えた対策は「いったい誰を恨んでいるのか?」を考えることだ。

今朝の場合は、誰にも悪意を向けられていないのにわたしは勝手に傷ついているわけだ。傷ついているということは、傷つけた相手がいる、ということだ。はっきりさせておきたいのは相手は何も知らない、ということ。そして何も感じていない、きっと。私の頭の中で勝手にその人の悪意を作り出し、自分のほうへ向けているだけ、だ。それははっきりと自覚している。うーん、自覚できてないから傷ついているんだろうな。

いまこれを書いているから、こうやって客観的に考えられるようにはなるけれども、その時間はただ傷ついている。SNSで意識された相手が自分に対して悪意を抱いていると勝手に思い込む。こうして書くと、けっこうわたしはやばいやつだな。

そう、やばいやつだという見方もできる人間だったのだ、わたしは。なのにこの40代からの不調のせいですっかり自分がやばいやつになってしまっているのだ。

話を元に戻します。

自分に悪意を向けてくる、恨むべき相手は誰だ?ということをまず考えます。そして「恨んでも仕方ないよ」って言い聞かせます、自分に。「恨んでも仕方ない」というおまじないは、わたしの経験からきたもの。

というのも。こういったシーンで恨むべき相手ができたとき、恨んで相手を頭のなかで否定すれば楽になれるかな、と思ってやってみたことがありました。でも、いつまでたってもスッキリしなかった。相手のせいにしても、結局そんなことしかできない自分を責めて、おしまい。自分の首を絞めることになってしまう。

どうしても人を恨んで苦しいときは、もうひとりの自分を脳内に登場させる、という治療法も発明しました。「そうかー、つらかったねえー」とただただあたまや背中を撫でてくれる優しい自分を脳内に登場させて、なぐさめるのです。これは、フラッシュバックに近いようなことが起きてしまったときにやってみました。フラッシュバックって、外からの圧力によるものだと思いがち。だけど、結局自分の脳が思い出させてしまっている状態だと考えまして。

ということは、そのもうひとりの自分ってのが「ちょっと!傷ついたわたしのこと忘れようとしてるんじゃないの!?」って怒ってるんだと思ったからです。だから、さらにもうひとり、わたしは脳内でとてつもなく優しい自分を作り出しまして、その子が出てきたときに「忘れてない、忘れてない。あのときはキツかってよねえ」と言ってやることにしました。そしたら? ん? そしたら、じゃないかもしれない。時間の経過にしたがってかもしれないけど、少し収束を見せたのです。なので、おすすめ。

全然話が前に進みませんね。

フラッシュバック時に「優しい自分登場」っていう手法がひとつ。(あ、これはすごく軽度のフラッシュバックですよ、私は精神疾患とかそういうレベルではないので)

あとは、「恨んでもしかたないよ」って言う「冷静な自分登場」がもうひとつの方法だと言いたかったんです。

恨んでも仕方ないよっていうのは、よく考えるとムリゲー。だって恨んじゃう相手がいるのに恨んでも仕方ないよっていうのは、無責任でしょ。おせっかいな第三者にいわれたらムカつく言葉ですよね。でも、これは自分で自分にいうから意味があると思っています。

恨んだって、なにも解決しないって知ってるじゃん? 自分の首をしめておしまいだって知ってるでしょ? という経験を思い起こさせるわけです。すると「ああ、そうか。そうだったよな」と少し冷静になれます。

ここからは、お得意の深掘りです。人に敵意を向けることではなんの解決にもならない。そこで、このモヤモヤを解決するにはどうするか、ということなんです。人に問題がないならば、問題は内側にあります。そう、自分のなかに。

このネガティブの波に巻き込まれてから、イントロでも触れたとおりカフカなどネガティブベースの人の本をちらちら読んだりしました。そのながれでショーペンハウワーというドイツの哲学者の「幸福について」というものも読みました。そこにはこうあったのです。

「エピクーロスの一番弟子だったメトロドロスはつとに『われわれのうちにある幸福の原因は、外界から生ずる幸福の原因より大きい』と〜中略〜
いうまでもなく人間の幸福なあり方、いや、人間の生き方全体にとって主要なものが、人間自身の中に存するもの、人間自身のうちに起きるものだということは明らかである。ここにこそ内心の快不快が直接宿っているわけだ」(ショーペンハウワー 橋本文夫訳「幸福について」/新潮文庫より)

さらには、外部のすべてのものは、間接的に内心の快不快に影響を及ぼすにすぎない、というようなことを続けて書いてありました。

正直言いまして、結局「外部のものも内心の快不快に影響及ぼすんかーい」ってなりましたけれども。でも、真の幸福が自分の中の深掘りによってしか得られないのだとしたら、もう自分の心と向き合うしかないのではないか、と、そうわたしは考えたわけです。

だから、今のところは、えもいわれぬモヤモヤが自分の中にたまっているときには、なんでもいいからその原因を自分の中に見つけてみる。人は恨まず、それしかないのだと、やたらめったら深く掘るようになりました。

具体的な悩みは人それぞれだと思うんですけど、自分の気持ちを追求していくと、わたしの場合は不思議とネガティブなほうには向きません。これはラッキーなのかもしれないですね。人によっては自己否定で苦しむ場合もあるとは思います。

私もたまにそうなりますけど、自己否定がうまれたときっていうのは、「痛いところを突かれた」ときじゃないかなって思っています。今のところは。痛いところっていうのは、自分でも認めたくない自分の側面であって。そこを掘る時期にきているんだなと思って、耐えます。ひたすら。

これを掘れば金脈が!とまでは言いませんが、それくらい期待をもって向き合うことにしています。つらいですけども。やってるうちに開き直ることもあります。わたしもまだ過程です。がんばります。

おしまい。








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