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精神的な自由を手に入れる(2024年5月の日記)

5月に入ってゴールデンウィークで上手く自分の生活をリセットしたいと考え、したいことをメニューで事前に書き出して楽しみにしていた。だけれどもゴールデンウィークを通してだるくて身体を休めて過ごした。これまで一日横になったりして過ごすと自分自身にがっかりするなどそのたびに落ち込んでいた。人生が30年目になったからなのか体調不良になることにも慣れてきて「きた、きた。」と受け入れられることが増えてきた気がする。具合が悪い時に特別に食べるものを決めておくと具合が悪くてもちょっと嬉しい気持ちになれる。海鮮丼かサラダがたくさん入っているお弁当がいい。あとは1日に何回でも湯舟に浸かってもいいことにしている。お風呂から上がったらベランダにキャンプ用の椅子を出して風を浴びる。昔学校を休んだ時、いつもは食べられないコンビニのサンドイッチを病院帰りに食べさせてもらえた特別な嬉しい気持ちが蘇る。

卓上機織り機を使ってティッシュケースを作った。

5月は手芸に夢中になった。羊毛フェルトと機織りをした。手を動かしていくうちにやりたいことが泉のように滾々と湧き出てきて驚いた。今は作りたいものがたくさんありすぎて作るのが追いついていない。2024年は創造の年にしたかったからうまく癖付けできてよかった。動画や映画を見たり、コンサートに行ったりインプットするような趣味もいいけれど、ずっとそれだけが続くと虚しさを感じることが多い。消費と生産はバランスが取れると気持ちが良い。生産をすると消費が楽しくなり、消費はまた生産を助ける。螺旋を描くようにインスピレーションを誘発する。聞いた音楽が感情を刺激して作る物の色合いが決まる。作ったものから着想を得て今まで見たことのない絵画を勉強で見てみようと思ったりする。どちらかだけだと螺旋は途絶えてしまう。

最近ポッドキャストなるものを聞き始めた。何気なく聞いた「となりの雑談」というジェーン・スーさんと桜林直子さんのラジオに発見が多くさかのぼって聞き進めている。特に71回目「反応で生きること」72回目「手前の手前の手前」がまさに自分のことで、30年生きてきて鉛のように硬くなった自分の性格に突き刺さるものがあった。

自分の行動や感情が始点とならず、良い事も悪い事も誰かに何かされたことが始点になる人が一定数いるという話。誰かにされたことに対しての反応がベースになってしまって自分がどうしたいかやどう思うかがなくなってしまう人。誰かに評価されたり何かを与えられたことが基準になってしまっている人。程度はさておき、私もそのように考えることがあると気付いた。例えば気難しい人に受け入れてもらえたりしたことが自分の中でとても誇らしいこととして印象深く残っていたり、誰かに頼まれてうまくいかなかったりするとその人のせいにしようとしたり。何か意識的にそうしているわけではなくて気付いたら無意識的にそうなってしまっている自覚がある。常にじゃないけどたまにそういう人格が出てくる。人からされたことを起点にすると考えるときに楽なんだと思う。でも思い返してみるとそのことによって自分が最終的には楽になれていないことに気が付いた。誰かに何かをされない限り何も感情も意欲も湧かないし、自分は存在しないこととほぼ同義で、それによって空虚な気持ちになっているから。自分のこれまでの人生からそういう思考の癖がつくきっかけに心当たりはある。それはそれで事実で言い訳にもできるけど、事実とはまた別に自分の意思としてこれからは考え方を変えて自分をもっともっと自由にしていきたいと思った。20代は自分で働いて物が手に入って物理的に自由になれたけど、これだけでは自由にはなれていないと閉塞感を感じていた。30代からは自分を縛り付ける自分自身の思考からも解き放っていきたい。

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