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「友達」は、たまたまその場所にいなかっただけ

小学生になってすぐ、
周囲の大人たちから「友達いっぱいできた?」
って聞かれました。

「🎵いちねんせいになったら ともだち100にんできるかな」
という歌のせいとは言わないけれど、
友達はたくさんいた方が良い、
という価値観が植え付けられるのはこの頃でしょう。

クラス全員ともだち!
って言える無邪気な時期を過ぎると、
自分にはあまり友達いないな、
いや全然いないかも、と、
仲良く戯れる同級生達を見て、
ふと立ち止まる子も出てくるでしょう。

単独行動が目立ってしまう集団生活

中学生にもなると、
教室間の移動も、トイレに行くのも、
「一緒に行こー」と誘い誘われ、
グループで行動することが多くなります。
特に女子。

でも私は、特定のグループに所属せず、
1人で行動している期間が幾度もありました。
クラス全員と普通に会話はするし、
必要があればどこかに入れてもらうから不自由は無いものの、
内心は、
単独行動=友達居ない寂しい人、
と見られている感じがするし、
劣等感を覚えたりしました。
でも、誰かの意見に合わせてばかりが続くと、
なぜ無理をしなければならないのか、とストレスを覚え、
自然とまた1人になっている。
単独行動の方が性に合っていたんです。 
でも、落ち着かない(の繰り返し)

環境が変わったら自分も変わっていた

大学進学で地元を離れ、
知らない場所でひとり暮らすようになり、
同じメンバーが詰める固定の教室があるわけでもなく、
履修している授業もみんなバラバラで、
誰もが1人でいることがデフォルトになると、
そわそわが一切無くなった。

この頃からのびのびと、
自分が考えることを思うままに表現できるようになり、
明らかに毎日が楽しくなりました。
ありのままの自分を表現できるようになったら、
いつまでも話していたい友達が自然とできました。

しんどさの原因は「集団生活」だった

…とわかりました。
未熟な10代が集まる閉鎖的な箱の中で平穏に過ごすには、
「個性を表に出さない」ことが重要でした。
(↑このように言語化できたらもっと割り切って過ごせただろうなー)

現代の学校は、
「人はそれぞれ違う意見を持っている」という多様性の理解は
外国籍のクラスメイトや
サポートが必要な生徒も混じって生活したり、
道徳の授業を通したりして、
昔よりは進んでいるように思います。

ただ、私が育ってきた地方エリアはどうだろう?
縮こまって過ごす子が都会よりも多いような気がしてならない。
なぜなら地方は、
学校も習い事も遊びも買い物も何でも選択肢が少なくて、
結果、同じメンバー・同じ環境から逃れられないことがあるから。
SNSで友達が作れる時代になったからまだマシかな?

友達は、作るものではなく出会うもの

友達が居ない、と卑下することは一切ないです。
もし友達が居ないことが劣等コンプレックスに繋がっていたら、
それは全くもって筋違いなロジックなので、
認識を正しく改めよう。

友達が居ない(できない)のは、
たまたま今居る世界(とても狭い世界)に
あなたと相性の良い人が居ないだけ。
出会うタイミングがたまたま無かっただけ。
いずれ必ず、
大切な人に出会うから大丈夫。

なんか色々うまくいかないよなーと思ったら、
自分が置かれている環境を変えてみよう。
新しい環境に身を多くと、嫌でも成長させられる。
もし環境を変えられないのなら、
たくさん本を読んで、脳内だけでも環境を変えよう。
視点が増えると、視野が広がって、
それまで見えなかった人が見えて、出会いが増えます。

自分が本気で何かに打ち込んでいる時ほど、
生涯の友に出会ったりする。
出会いは探すものではなく、
自分の芯を太く色濃くすることに注力しているうちに
自然と訪れるものです。

以上、半世紀近くを生きてきた大人からのお知らせでした。

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