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セラピストが やってきた

よっちゃんというセラピストの存在により、ふみこは、すくわれた気がした。

思考が、停止して、
行き詰まったとき、
アクセスバーズ(あたまの手当てみたいなもの。)の感覚を思い出すと、ちょっとゆるむ

ふみこ1人じゃないって、おもうの。

他力を借りて、からだにやさしくできる。
セラピストの存在は、しあわせなんだー。

でも、どうじに、ふみこが、てあてすることも、だいすきで。

だから、
「あー。ふみこも、よっちゃんのような、存在に、
誰かにとって、あれることもあるのか」
と思うと、それも、しあわせな、きもちになるの。
わたしにとっての、きぼうに、なるの。

セラピストという存在が、わたしのなかに、根付いた、瞬間だった。

セラピストって、特別なものだとおもっていたけれど、
わたしのなかに、いるんだね。
よっちゃんも、わたし。
よっちゃんというセラピストを、わたしのせかいに、ゆるしたのは、わたし。

セラピストを、必要とする人が、セラピストになる
というのは、半分正解で、半分間違い。

セラピスト、という存在を、身のうちに、宿すということは、
詩人を宿すことと同じくらい、勇気がいるんだよ

癒すって、癒えるって、ちょっとどころじゃない絶望と、降伏と、お導きがあってこそだからさ。

いままで、セラピストっていうものに、違和感を感じていたのは、
横文字で、馴染みがなかったってこともあるけど、
いちばんは、癒されるということは、怠けていると思っていたし、
癒されに行くのは、自分が、癒されるべき存在であることを、認めるってことで、
弱さを認めるってことだから、いやだったんだ。

弱さへの降伏に、抵抗してきたの。
強くありたい人は、「セラピー」という言葉は、敵(てき)だよ。

セラピーに興味があった分、
セラピーを敵視していたことに、わたし自身気付かなかった。

それに、じぶんを、セラピストだと呼ぶことは、ものすごく、抵抗があった。
自分に人を癒す力なんてないし、
「癒されるべき人がいる」ことを、前提に動くことは、
相手の弱みにつけ込む、卑劣な行為だと思っていたから。

癒すべきものが、あることを、前提に動くと、
それは、囚われの姫を解放する物語になってしまい、
解放したヒーローは、崇められたりするかもしれないから、そういうのは、良くないと思っていた。

己の中に、癒す力があることを、信じていたし、
問題がない、ということを、前提にして、世界を見てみたい、と望んだの。

だから、セラピストは、いらないって、おもってた。
セラピストには、ならないって、おもってた。

だけど、ちがうんだね。


セラピーを必要としている、と認めることは、自分の弱さを認めるってこと。
それって、とっても、勇気がいることなんだ。

弱さって、何も、悪いとこ・苦手なとこって意味じゃないのよ。
快楽は、最大の弱みだけんね。
心から愉しんでいるところを、人に見られるのは、恥ずかしいでしょう?
性癖を人に話せる?
こっそり、ひとりで見ているインターネットのサイト、全てを、公開できる?

はずかしい。

にんげんってさ、つらいときも、あるじゃんか。
これはもうさ、生きている限り、どうしようもないことなんだ。

そういう、つらいときに、
つらさに、
ずっと、とどまって居ることで、問題を解決して強くなろうとする選択肢だけじゃ、つらすぎる。

つらいときに、つらさを認めて、他力を借りて、癒したり、
じぶんのからだの感覚に潜って、癒されたりする手もあるってことなのよ。

わたしのからだに、アクセスできたら、そこには、癒ししかないとおもうの。


きょう、このことを、ことばに、したことで、
セラピストが、わたしにやってきた きもちなんだ。


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