昭和下町DIARY(第4話):戦前

第四話 新居

後日、あの千住新橋の事故現場を通る度、兄の血が滲んでいるかもしれないコンクリーの表面を、そうっと撫でている自分がいる。

たった一人の兄を殺したあの運転手が憎い。
父は名前も知っている筈だ。
けれどとうとう私にその名を 明かす事はなかった。


 父はその後、つとめのため毎日通う息子の事故現場に耐えられなくなったのであろう。自分の店に近い場所に家を探し、翌年、昭和十六年早春、足立区五反野に転居した。

ここ足立区は、東京のはずれ、境の埼玉県と接しており、田園も畑も点々とその存在を誇示した、のどかなゆったりした町である。
転居してきた五反野の家から南、百メートル程のところには雄大な荒川放水路が流れ、それを囲む広々した堤や緑に恵まれ、空気もおいしい。
遥か右手に、あの千住新橋が長々と横たわっている。私はいつもこの土手に来ると、新橋のあの一点をじっと見つめる。

青空に浮く、浮雲の上にスーと飛び乗って、どこかへいってしまった己ぃちゃん。

私はいつまでもいつまでも忘れないよ。

画像1

土手の左側を見ると、より近くに常磐線の鉄橋の大きなアーチがあり、時折り通る貨物列車を一・二と数える。
土手から土手へ繋がる長い列車は四十も貨物をつなげ、ずいぶんと重いのだろう、ゆっくりゆっくり走る。

その少し先、東武線、鉄橋を渡れば北千住、浅草へ行くという。
賑やかなそんな町へ、いつか行きたいな。

そんな土手下は自動車がやっと交差できるくらいの狭い道路。
その道路に沿って大きなどぶ川があり、こまごまと橋がかけられている。
「富士や」という酒屋の角を曲がり、十五軒ほどした所が今度転居した私の家だ。

 父が探したこの家は、まだ未完成の八軒長屋だ。
裏にある庭は南に面し広い上、東角は通路分敷地が広い。早速ここに決定したのは良いが、難点がひとつ。 

水がない。
水道が引かれていないのだ。
八軒長屋の中程に コンクリーを流した土間があり、屋根までついてそこに、ぽつんと 水道が一本立っているだけ。
 新しく建てる家に水道がつかない。


昭和十六年三月。
 一般国民に物資不足がもう襲っていたのだ。

                    
玄関は北側だが前の家よりは広い。といっても畳み三枚分だ。
入ってすぐ四畳半、六畳三畳と続き畳み一枚の廊下、トイレ、台所は三畳分で、やはりたたきは五十センチ程下にあり、更に茶碗などを洗う洗い場は、五センチ程低くコンクリーが打ってある。
だから洗い物をすると時は、しゃがむ形か正座の形で前屈みになってする。
いわゆる今では当然の流し台がないのだ。どこの家もそうであった。

三河島の家、三ノ輪の家ここ五反野の家も、畳み一枚分の台所を作業場として、女は黙々と何十年の昔から家族の暮らしを支えてきた。
蛇口をひねれば水が出るのが当然の現在、台所の流しにさえ水道がないという事、考える事ができるだろうか。

 それはともかくとして、私にとって一体誰が毎日の水汲みをするのかが、大問題だ。
そーっと回りを見回す、父は多分ダメ、 そうしたら私しかいない、
「えーっ」私はまだこの四月ようやく三年生になろうとする、か弱い女の子だ。

父はこんなにも多趣味の人かと思うほど、庭師を呼んで庭一体びっしりと植木を植え、藤棚の下には池を作って金魚を飼うと 言う。
水はどうするの、地から沸いては来ないのだ。
結局私が、 バケツを両手に何十回往復する水汲みをやることになる。
父は可憐なカナリアも飼う。
毎日菜をすり鉢ですり、水、餌と 欠かさない。
犬(ちん)も来た。
「福松」という名前で、こちらがどんなふくれっ面をしていても、福松の顔を見ると吹き出してしまう。

昔、そば屋の職人をしていたことがある父は、ご飯作りもまめだ。
私は大きくなっても台所や炊事は男の人もやるものだと思い込んでいた。

画像2(戦前の東京下町)


昭和十六年四月。
千寿第五小学校三年生に転入学。
担任は、背の高い眼鏡をかけたやさしい女先生だった。

朝、父は炊事をしたり、学校へゆく私にも気を配ったり、犬だ、鳥だと世話を済ませ、忙しい中にもきちんとした身なりで、店にゆく。
店も学校も同じ方向なので、父は私を自転車に乗せ出発。
自転車の荷台に乗った私は父の背中につかまる。暖かい 大きな背中だった。

 学校が終わると、すぐ傍の父の店へ飛んでゆき、今日学校であったいろいろの話をする。
先生の事、友達の事、子供は周りの雰囲気に慣れるのは早い。父の店は、騒音のひどい国道4号線(日光街道)に面しており、長靴を売ったり修理をしたりする。靴に関する部品も置いてある。
靴墨、靴べら、靴紐、中敷など沢山売っている。長靴もだんだん入手しにくくなり、使い捨てということはない。
修理をして何回も履く。
店といっても 、別名「汽車ポッポ長屋」というのだそうだ。
この長屋は本屋とか帽子屋とか、いろいろな物を売る店が十軒程 並び、中には住居にしている人もいるようだが、ほんとに長い。
汽車ポッポ長屋とはよく言ったものだ。

 学校から帰った私は、父が出かける時もあるので店の留守番をする。
時々靴墨や靴紐を買いに来るお客さんがいるが、お金を受け取り 、ちゃんとおつりも渡す。  
小銭は三つある引き出しの一番下だ。
私は、その小銭をひとつポンと自分のポケットにしまった。
父に言えばくれるお金なのに……
ドキドキする秘密が何とも いえないスリルだ。

 いつからか、夜なべして、私も見よう見まねで靴の修理を手伝うようになった。

やがてまたまた新しいおっかさんが来た。
とてもきれいなおばさんで、色の白い背もスラッと高く、まさに「はきだめに鶴」といった 感じ。
三歳位の女の子が一緒で、飲み屋の人だと後で聞く。
父も毎日の家事と勤めの生活に疲れ、飲み屋さんでお酒位飲んで、その時に知り合った人なのであろう。

私はお姉さんになって嬉しくで、こまごまとその子の世話をやいて楽しかった。
台所もその人がやってくれるし、父もホッとしたであろうが、そんな安らぎもつかの間、大人の関係ってどうも難しくて判らない。
潮が引くようにその人も女の子も、いなくなってしまった。

その夏、父は潮干狩りに連れて行ってくれた。
千住大橋から父の同業者と船を貸しきって、浦安へ行くのだ。
千住大橋の船宿は石段をトントンといくつか登り、粋な造りのきれいな家で、雄の三毛猫が貴重な存在で飼われている。

その猫の顔の洗い方で、明日の天気が判るという。船頭さんにとって天気は死活問題だ。
猫はよく顔を洗うというか手で顔をこすっている。その手が耳までこすると明日は雨、の予報とか、雄の三毛猫が一番気象を察知してよく当てるという。
その上極少の種類らしい。

 千住大橋の岸辺を離れ、心地よい川風を受けて一路浦安へ、ポンポン蒸気船は速い速い。
やがて潮の香りの海に着く。船が止まる頃引き潮で、水がドンドンなくなる。
海水着を着込んで、さあ潮干狩りだ。

父の傍をウロチョロしながら、八つ手で砂をほじくる。蛤にあさり私でもどんどん採れて、その度に歓声をあげる。
たまには、ばか貝というのも採れるがそれは捨てる。
そのうちだんだんと水が増えてきた。今度は海水浴だ。ひたひたの水の時は、胸を砂地につけてバチャバチャ手足を動かす。
それからますます水が増してくると、船べりに手をかけ足だけのバチャバチャが始まる。
廻りの人は気持ちよさそうに泳いでいるが、私は泳げない。

「清子 もう上がりな。背が立たなくなるよ」
父に言われしぶしぶ船の中へ。
船頭さんが食事の用意をしてくれる。
採れたての蛤が七輪の 炭火で網焼きされ、パカッと口が開いたところへ、醤油をすこし たらす。ジーンといい匂い。

大人たちはそれを魚に一杯やっている。 
肉厚のあさりの味噌汁もおいしい。あさりご飯を何杯もおかわりした。

家に帰り、暑い日ざしの中、貝を入れた袋を持って、近所の家に 配って歩く。
冷蔵庫のない当時、早く食べて貰わなければならない。
大きな蛤は又網焼きにして食べた。あさりは大きなお釜でさっと茹で、実をとり佃煮にする。父と私は大奮闘。これで当分ご飯のおかずはあさりの佃煮となる。

 蛤は食べた後、根元のとがった所二箇所、石でこすり穴をあけ、ブーブー鳴らして遊んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?