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エテリシステムとトゥルソワの悲憤。「メダルラッシュに沸く」私たちも無縁じゃない
ワリエワ選手のドーピング疑惑に揺れる中、
銀メダリストのトゥルソワ選手が
エテリコーチのハグを拒否して発した
「こんな競技は嫌い!!
もう二度と氷の上には戻らない」という
悲憤の声は、あまりにも衝撃的でした。
2018-19シーズン、14歳で
世界で初めて4回転を3本成功させて
「重力とたたかう少女」として
世界を驚愕させ、女子空中戦時代を
到来させたトゥルソワ。
オリンピック銀メダリストになりながら、
人生のすべてと語っていたスケートを
投げ捨てなくてはならないなんて。
金メダルを獲れなければ
やってきたことすべてが
無駄になってしまうのか?
人生を否定することになってしまうのか?
私自身はフィギュアスケートの専門家でもない
ただの観戦専門オタクですが、
フィギュアスケート漫画を描いていて
どうしてもスルーできず、
手に余ると承知の上で
改めて知ったこと・感じたことを書いてみます。
■成長期前しか出来ない技術「プリローテーション」
なぜ「チーム・トゥトベリーゼ」は
あらゆる大会で表彰台を席捲できたのか。
そしてなぜ10代でメダリストが
次々と引退せざるを得ないのか。
使い捨てと批判を浴びるチーム育成の
実態はどうだったのか。
小児精神科医の立場で、事実に基づいて
深く考察されている文章がありました。
17歳のとき、平昌五輪で銀メダルに輝いたエフゲニア・メドベージェワ選手。輝かしい栄光を手にしたにもかかわらず、彼女はチーム・トゥトベリーゼから引退を奨められました。それはなぜだったのでしょうか?
このチームのテクニックは独特で、上半身を素早くひねったプリ・ローテーション(氷から離れる前に回転を始める)、回転速度、身体の細さと軽さと、凹凸がないまっすぐな身体が基本要素になったジャンプテクニックが中心となります。これらは、思春期に自然と起こる胸や腰回りの身体変化が訪れた途端、続けられないテクニックなのです。
さらに、このテクニックは背中への負担が凄まじく、トゥトベリーゼコーチ門下でカザフスタン代表だったエリザベート・トゥルシンバエワ選手は、「お辞儀ができない」ほど背中の慢性的な痛みを理由に19歳で引退しました。引退を奨められたメドベージェワ選手は今も左に身体を向けられないと訴えています。
ここまで具体的には知りませんでした。
チームを「工場」、選手を「材料」と呼ぶ
エテリコーチが
正確無比な「製品」を大量生産できるのは、
期間限定の「材料」のみを対象としているから。
期間以外の材料は排除しているから。
稀有の技術と表現力を持ち、
エキシビションでセーラームーンを
踊るほど親日家のメドベージェワ。
大好きな選手でした。
多くの選手がそんなにも体を損なわれて
使い捨てられていたのを改めて知り、
悲しくてやりきれません。
痩せることをあおり、若くなければ、小さくなければできない技ばかりを追求する指導が定番化しているのですから、17歳以降体型の変化が生じれば、継続は難しくなるのは当たり前です。通常であれば、体型の成長に合わせ、今までとは違う技や表現方法を教えるという指導を選択するチームが多いのです。しかし、チーム・トゥトベリーゼでは、その時点で引退が奨励されてしまう……。チーム・トゥトベリーゼは、選手とともに成長するのではなく、次シーズンの全試合優勝してくれるであろう下世代に関心を変えてしまうのです。
つまり、敗者が復活する機会は
閉ざされてしまうということ。
オリンピックで敗けても
成長期で身体が変化しても
それを乗り越えて
次のオリンピックで再起を期す
という道がない、ということです。
非情すぎる
選手の努力を使い潰すやり方に
怒りしか湧きません。
いや私なんかが怒っても、と思いながら
やっぱり言いたい。言わせてください。
■選手を消耗品化するシステム、国際的なお墨付き
最近公開されたインタビューでは、ザギトワ選手が15歳の頃、甘えの気持ちが出ないように母親とは引き離し、五輪で優勝してからザギトワ選手の母親はモスクワへの引っ越しが許されたと語っていました。さらに、骨折中であっても、新型コロナに感染し肺炎から回復していない状態であったとしても試合からの棄権は許されず、試合で結果が出なかった場合も「食べ過ぎて太ったから」「なまけてたから」とすべては選手の責任だと言及していました。
コーチのこういった言葉を日常的に聞くことによって、まだ子どもである選手たちは、「ジャンプを跳べないのは自分がなまけているから」「失敗するのは食べないことを我慢できないから」「怪我をしたのは自分が弱いから」と思ってしまうのではないでしょうか。今大会のフリー演技を終えてリンクサイドに戻ってきたワリエワ選手にトゥトベリーゼコーチが最初にかけた言葉も「なんで諦めたの? 教えて? アクセルの後、なんで諦めたの?」でした。
コーチのこの映像を見て、
「なんでじゃないでしょ!!
こんな状況で15歳の子が
平静でいつも通り演技出来ると思う?!
なんで一言もねぎらえないの???
私がアナタに訊きたいよ!!」と、
思わずテレビに怒鳴りそうになりました。
選手にとってはエテリコーチが
世界のすべてのような存在なのに。
何様なの?????????
トゥルソワでなくても叫びたくなると思います。
この問題に対して、今までも多くのスケーターやファンが議論していました。それでも、国際スケート連盟は、2020年のISUスケーティングアワードで、トゥトベリーゼコーチに対して『Coach of the Year(ベストコーチ)』として称え、門下の選手にはボーナス入りの高得点を与えることでこのチームに力を与えていったのです。
「ベストコーチ」という
国際的なお墨付きまでついていたなんて。
これは関係するオトナ全員の責任でしょう。
なのに、ISUからなんの有効な動きもなし。
さらに、今日のIOCバッハ会長の発言。
「ワリエワにはケアが必要」
「アンチドーピング機構がきちんと判断することを願う」
まるで他人事。
なぜ、「ドーピングは許さない、
関係者の責任は免れない、
そんな非人道的な育成システムは認めない」
と、言えないのか。
どんだけズブズブなんですか。
なんのための、
誰のためのオリンピックなのか。
■結果で測れないものの価値
今回、ロシアの手段を選ばないメダルへの執着や、ワリエワ選手のスキャンダルを見て、「成功を結果だけで測ってしまう危険性」に関しても考えさせられます。短期的な結果を求めて、ルールを破ったり、嘘をついたり、身体や精神を酷使しても、長期的な幸せには繋がらないことがほとんどです。逆に真摯な努力と、自分を偽らない誠意は、どんな結果に遭遇しても、自尊心と幸せをもたらすと思います。
10代半ばの選手の危機【後編】
先日寄稿した記事で書かせていただいた羽生結弦選手もそうですが、もうひとりご紹介したいのが、今大会アメリカチームとして団体戦に出場したヴィンセント・ジョウ選手です。ジョウ選手は、フィギュア男子シングル個人戦が始まる前日にコロナ陽性が発覚して、彼の全人生をかけて準備してきたオリンピックの個人戦の舞台に立つことができませんでした。想像を絶する悔しさだったと思います。
しかし、個人戦に出場できないことがわかった後に、彼はSNSに動画で、「幼い頃の自分が夢に描いていた自分に、自分はすでになっている」と涙を流してコメントしたのです。
その通りだと思います。彼が誰であるかは、個人戦に出場したかどうか、メダルを取ったかどうかで変わるものではありません。前回五輪から4年間、ヴィンセント選手は練習環境を変えたり、競技に集中するために名門ブラウン大学を休学したり、世界選手権で銅メダルを獲った翌年の選手権ではショート落ち(ショートプログラムの順位が低くてフリーに出れないこと)するなどさまざまな経験を経て、その翌シーズンで五輪進出権を勝ち取りました。その軌跡こそがヴィンセント・ジョウであり、北京五輪に出場できなかったことで変わるわけではありません。結果に表れる成功だけが成功ではない。そう思わせてくれて、ありがとうと伝えたいです。
ショート落ちの屈辱から這い上がり、
平昌以来無敗だったネイサンに
初めて土をつける快挙を成し遂げたヴィンス。
昇り竜の衣装そのままに
意気揚々と乗り込んだ北京で、
個人戦のリンクに立つことすらできなかった。
どれだけ悔しかったことか…。
誰のせいでもない、でも
自暴自棄になってもおかしくない
事態に対して、他人までも勇気づける
この発信に、涙が止まりませんでした。
これは個人的な意見ですが、クリーンな勝負が見れなくなるのであれば、女子の四回転旋風は不要だと思っています。何よりも大事なものは身体的、そして精神的な健康で、それがボロボロになるほどの価値がオリンピックメダルにあるとは思えません。そして、誰かの健康を侵す権利は誰にもないのです。私たちファンも含むスポーツを囲む大人たちが若いアスリートたちを守れるように、ひとりひとり考えていかなければいけないと思うのです。
本当に同感です。
余すところなく語ってくださいました。
選手がメダルを目指すこと自体を
否定したいのではありません。
心身すべてを懸けて、その結果
勝ち取るメダルは何物にも代えがたい。
だけど結果だけがすべてじゃない。
結果を出せなければすべてが否定される論調、
選手をボロボロにしても
メダルさえ獲れば官軍、という風潮が
変わらなくては。
ひるがえって、見ている側の私たちはどうなのか、
全く無縁で無罪とは言えないと思うのです。
■「〇〇選手、●位に終わる」という報じられ方
メディアでよくこういうキャッチ見かけますよね。
「期待された〇選手、結果が出せず●位」とか。
もうこういう表現はやめませんか。
メダルを獲った選手との扱いが段違い。
視聴率が取れない競技は放映されない、
報道すらほとんどされない。
オリンピックはメダルだけが
価値じゃないはずなのに。
ただ、自分を省みて
忸怩たる思いになったのは、
昨日のフリーについてのnote記事に
河辺愛菜選手については書けなかったこと。
果敢にトリプルアクセルに挑戦するも
成功ならず、その後のエレメントも
精彩を欠いたまま終わってしまって。
どう書いていいかわからず
触れられなかった。
でも一番大事なのは、成績よりも
選手自身がベストを尽くせたかどうか、
納得がいったかどうか。
力を出せなかった時、
挫折を活かせるかどうか
その後の人生に糧にできるかどうかのはず。
■誰もがメダリストになれる訳じゃなくても
坂本選手だって、
彗星のように現れて初出場となった
前回オリンピックでは、
緊張など無縁と思われていたのに
実力を発揮できなかった。
破竹の勢いだった樋口選手も、
全日本で表彰台にわずかに届かず
平昌オリンピック出場を逃した。
2人ともその悔しさを乗り越えて、
4年の間、心折れずに研鑽し続けて
今日があること。
伝えるべきはそういうこと
なのではないでしょうか。
誰もがオリンピアンになれる訳ではない。
誰もがメダリストになれる訳ではない。
だけれども、どの選手の努力も
等しく価値があって、
優越なんてつけられない。
つけるべきじゃない。
誰にも損なわれちゃいけない、
選手たちだけのもの。
「メダル目標達成できず」とか
「メダル獲得数が過去最大」とか
国家としての体面とか、どうでもいいです。
だからもうメダル速報とか
やめちゃってもいいんじゃないかと思います。
定時ニュースで、出場した選手全員の
頑張りを伝えてくれれば十分です。
■他人の成長を喜びとして感受できること
今日、ペアショートプログラム開始前。
りくりゅうペア木原龍一選手と組んで
ソチオリンピックに出場した
高橋成美さんの解説を聴いていて、
思わず泣きそうになりました。
「木原選手とペアを組んでいた時は、
自分がここまでの成績をおさめさせて
あげることができなくて、
悔しい気持ちもあった。
でもいま彼らがこの舞台で
こんなに成長して花開くのを見れて、
自分も次のステップへ進めそうです」
ペア解消後はライバルだった時期もある木原選手。
高橋成美さんとの蓄積があって
今のりくりゅうペアの躍進がある。
他人の成長を自分の喜びとして感受できる
成美さんの人間力が何より素晴らしいし、
そしてスポーツとかオリンピックの価値って
まさにそういうことなんじゃないかと感じました。
私自身、
ささやかであったとしても
そういうひとつひとつを
ちゃんと受け取って、
大事なことを見失わずにいたいと思うのです。
後押しいただけたら、地の果てまで頑張れそうな気がします…!