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喫茶「早苗」

早稲田大学の南門の目の前に、こぢんまりとした喫茶店がある。
その喫茶店は一階部分は淡緑色、二階部分はベージュ色の外装をしており、大きな字で「早苗」と書いてある。
多くの学生はその前を見向きもせず通過して、ファミマでコーヒーとパンを買うための列を為す。

僕はしばらくの間「早苗」の扉の前に立っていた。
初めて入るわけではない。
でもいつも緊張する。
マグルが初めて魔法使いの店を訪れるような緊張感。
他の人には見えていないのではないか。
中には魔法使いやゴブリンたちがいるのではないか。

いざ扉を開けると、中は落ち着いた雰囲気で、三軒茶屋の古着屋にいそうなお洒落なマスターが「いらっしゃいませ」と声をかけた。
僕は一階のカウンター席を通り抜けて階段を上がり、定位置である二階の端の席に落ち着いた。
数年前まで二階は雀荘だったらしいが、今では自習室やソファ席などがあり、勉強やリラックスするには使い勝手がいい。
店に入るのは数回目だが、まだ一階のカウンター席には座れない。
マスターに声を掛けられるのが怖い。
僕には二階の端の席がぴったりである。

メニューにざっと目を通し、今日は「今月のスペシャルブレンド」を頼もうと決めた。
バイトの学生が2階まで水を運んで来てくれて、
「ご注文はどうされますか」
と聞いた。
僕は
「今月のスペシャルで」
と答えた。
すると、
「今月のスペシャルは2種類あるのですが、どちらにされますか」
と言われた。
不意打ちである。
僕は慌てて、
「酸味が少ない方で」
と答えた。
酸味のあるコーヒーは苦手である。
バイトの学生は、
「では、コロンビアKYOTO農園にいたします」
と言って1階へ戻った。

コロンビアのKYOTO農園?

僕の頭は情報過多で処理が追いつかなかった。
あとで調べると、この豆はオーナーの方が京都の庭園の美しさに感銘を受け、それと同じように美しいコーヒー豆を作ろうと丁寧に栽培されてる豆なのだとか。

コーヒーの香ばしい香りがして、僕のコーヒーが運ばれてきた。
一口飲むだけで僕の午後は特別なものになった。
今日はいい日になる。
そう思えた。
しばらくはコーヒーを飲みながら書こうと思っている小説の構想を考えたり、ぼーっとしたりしていた。
するとそこに何人かの学生が入ってきて、一気に店内は騒がしくなった。
この午後は僕だけのものではなかった。
学生らはそれぞれ注文を終えると、各々の課題に取り組み始めた。
店内ではパソコンのタイプ音と資料をめくる音とがセッションを始めた。

小一時間ほど経って僕はそろそろ帰ろうかと思った。
カップの中の黒茶色の液体はすでに冷め切っていた。
最後の一口を飲み切って、帰る支度を始めた。
ソファ席の学生らも集中力が切れてきたのか、会話が目立つようになっていた。
1人の学生がネットニュースを見ながら、
「中国は今度、月の裏側のサンプルを採取しようとしているらしいな」
と呟いた。
僕は席を立ちながら、ふと考えた。
そうか、月は常に地球に対して同じ面を向けているんだっけ。
本音を裏側に隠しながら地球の周りを回っている。
漱石さん、それでも月は綺麗ですか。

会計を済ませて、店を出る。
今日はいいコーヒーを飲めたな。
また来よう。
仄暗くなった空には早めの月が出ていた。
今日もお前は裏側を隠して回っているのか。
駅に向かう人々は月のようにいつも同じ面を向けて歩いている。
本音は外套の中に隠して。
僕は月が裏側を見せてくれるまで裏側を見ようとするのは止めようと思った。
そして僕は、月の裏側がどんなに汚くても月を綺麗だと思おうと決めた。

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