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旅が教えてくれたこと (8) 1989年冬、サンフランシスコ

■その3

 日曜日は、朝からBART(Bay Area Rapid Transit)に乗ってバークレーへと向かう。ホテルに近いPowell St.駅からRichimond行きの列車に乗る。むろん、目的地はUCバークレー(カリフォルニア大学バークレー校)だ。自由と反抗の街サンフランシスコを象徴する場所である。
 BARTのDowntown Berkeley駅を降りて右手、サンフランスコ湾とは反対の方向に歩くとすぐにUCバークレーのキャンパスに入る。広大な芝生の広場を囲んで点在する校舎が印象的だ。
 
 UCバークレーといえば、人並みに映画「いちご白書」を思い出す。「いちご白書」はコロンビア大学での学生運動を描いた映画なので、ロケの舞台はニューヨークのコロンビア大学だと思っている人も多いかもしれないが、実はロケはUCバークレーで行われた。理由はコロンビア大学から撮影許可が下りなかったからだが、僕なんかは当時アメリカで最大の学生運動の拠点だったUCバークレーの方が、ずっと映画のテーマに合っているような気がしていた。
 UCバークレー(カリフォルニア大学バークレー校)の反骨の歴史については、wikiを引用しておこう。「…元来、1950年代のマッカーシズムなど共産主義者差別、赤狩りに対する強硬な抵抗に見られるように、バークレー教授陣のリベラル気質は高く、その内在していた独特の校風が表出したのが1960年代のフリースピーチ・ムーブメントであった。1962年には政治活動家のマリオ・サビオ(Mario Savio)やジャッキー・ゴールドバーク(Jackie Goldberg)などが主導となり、UCバークレー付近でバークレー暴動(Berkeley riots)にまで発展した。1964年に出された、学内での政治活動禁止令に呼応する形で、言論の自由をもとめる学生が抗議運動を展開、その後も学生により活発な学生運動は1970年代初頭まで続き、1969年のPeople's Parkにおける抗議行動では参加した教授陣を解雇したり、学生の一人が死亡するという悲劇も起こった。現在でもそのリベラル気質は学生に脈々と受け継がれる。UCバークレーの学生は他の米国一流大学の学生より、革新的かつリベラルで信仰心が薄いとされている…」
 
 映画「いちご白書」、そのテーマ音楽で使われたサークル・ゲーム(The Circle Game)という曲が、僕は大好きだ。映画ではネイティブアメリカンの血が混じる女性歌手、バフィ・セントメリーが唄っていたが、原曲はジョニ・ミッチェルで彼女が歌う方がずっといい。僕はそのサークル・ゲームを小さく歌いながら、芝生の広場を横切ってキャンパスの南の方へと向かった。
 UCバークレーの事務管理棟、学生センター、売店やカフェなどは、テレグラフ・アベニューに近い一帯にある。ビジターセンターもそのあたりだ。そしてカフェで一休みした後は、キャンパスを出てテレグラフ・アベニューを歩く。道沿いには学生向けの書店、カフェ、ちょっとしたレストラン、コンピュータショップ、アウトドア洋品店などが並び、日本の大学周辺にある学生街と同じような雰囲気だ。
 そして、今度はBARTの駅方面へと戻り、ユニバーシティ・アベニューを大学とは反対方向、サンフランシスコ湾のほうへ向かって歩く。ショッピングをするためだ。
 1月にサンフランシスコを訪れると、ちょうど冬物のバーゲンシーズンにあたる。ユニバーシティ・アベニューを下っていくと、右側にノースフェース(THE NORTH FACE)の巨大なファクトリー・アウトレットが、次いでマーモット(Marmot Mountain Works)の直営店、さらに海に近いところにシェラ・デザイン(Sierra Designs)のファクトリー・アウトレットがあった。当時は、毎年サンフランシスコへ仕事で来るたびに、このあたりで大量に買い物をした。衣類を中心に、靴やバッグなど様々なアウトドアグッズだ。日本で買えば2万円以上はするシェラ・デザインの定番の60/40マウンテンパーカが、ちょっと傷ありで100ドル前後(当時は1ドル=100円ぐらいだったと思う)で買えたのだから驚きだ。当時大量に買い貯めた服やバッグの中には、15年以上経った今でも普段着として使っているものがたくさんある。
 
 1980年代の終わり頃にサンフランシスコという都市を歩く魅力は、こうした60年代、70年代のサブカルチャーの余韻に浸るだけではなかった。この時代のサンフランシスコには、音楽やアートではない、まさに現在進行形で進むサブカルチャーが存在したという事実がある。
 サンフランシスコ湾に沿って南下すると、1970年代以降のコンピュータ文化の発祥の地となったサンノゼの街がある。現代のサブカルチャーとしての地位を確立した、パソコンやインターネットが媒介するニューエイジのコミュニケーション文化は、このサンノゼにあったゼロックス社のパロアルト研究所やスタンフォード大学で生まれた。そして、1980年代後半にこの地域は最初の全盛時代を迎え、2015年現在もここには世界のコンピュータ文化の中心地であるシリコンバレーが存在する。
 
 僕はほんの一時期とは言え、プライベートでも仕事でもAppleのMacintoshというコンピュータに夢中になった。理由は同世代の他の人と同じ。MacintoshやAtariなど1980年代半ば頃までの68000系のビジュアルシェルPCには、「オルタナティブな匂い」「サブカルチャーの匂い」があったからだ。Appleが創業した1970年代前半は、「パーソナルコンピュータ」それ自体がオルタナティブな存在だった。ジョブズ、ウォズらがAppleという会社を作った背景には、西海岸のカウンターカルチャーが存在していたということを、僕は直感的に感じていた。世界で最初にグラフィックUIとマウスオペレーションを実現した「Alt」で知られるパロアルト研究所の運営形態や一時期ジョブズが勤めていたAtari社の創業の背景にも、根っこには同じカルチャーがあったように思っていた。そこには、遡れば1968年を前後して世界的に高揚した「異議申し立て運動」、すなわちアメリカの公民権運動、ベトナム反戦運動、パリ5月革命、文化大革命、世界中で連動した学生運動…に始まり、そこから派生して西海岸で生まれたたヒッピー・カルチャー、アシッド・カルチャー(ドラッグ文化)、それらの残滓、残り香のようなものがあったはずだ。Appleの創業者であるジョブズ自身が、若い時にそうした文化に強く影響されていたことを、自身の口で語っている。
 
 70年代に生まれたApple2だけでなく、80年代のMacintoshにも「カウンターカルチャーの香り」が十分に残っていたことを証明する事実がある。1980年代後半、カリフォルニア州北部で最大のマック・ディーラーは、コンピューター量販店などではなく、サンフランシスコのヒッピー文化の中心地、ヘイト・アシュベリー地区に存在したコミューンだったのだ。
 あまり知られていない話だが、当時、カリフォルニア州北部最大のMacintoshのディーラー兼コンサルティング企業であったアバカス社は、70年代に結成されてヘイト・アシュベリー地区に存在したグループ婚コミューンである生活共同体「ケリスタ」を母体としてできた企業だった。WIREDの記事によれば、70年代に結成されたこの生活共同体「ケリスタ」は約30名のメンバーを擁し、「ポリフィデリティー」(多夫多婦制の家族形態)を実践していた。メンバーは夜毎、異なる相手とベッドに入った。ただし相手は同一グループ内の人間に限られ、毎日、その夜の組み合わせがMacintoshのディスプレイに表示された…そうだ。
 Macintoshをヒッピー・コミューンが売りまくっていた…って、なんて素敵な話なんだろう!
 
 僕は、本当に1980年代後半のサンフランシスコの街が好きだった。そして、その時期は僕がコンピュータ(主に68000系のビジュアルシェル・パソコン)に夢中になっていた時期、コンピュータ関係の仕事を本格的に始めた時期と重なっていた。
 当時、サンフランシスコの中心部、ポスト・ストリートがマーケット・ストリートにぶつかるあたりに、全米チェーンのコンピュータ・ショップのEggheadがあって、そこでよくEDUCORPのMacintosh用フリーソフト(今で言うシェアウェア)の入ったフロッピーを大量に買ってきた。そういえばEggheadでは、当時でも発売後ずいぶん経つコモドール64のゲームソフトなんかもまだ売っていた。またサンフランシスコ出張時に、Amiga 500やtandy「TRS-80 Model 100」など日本で入手しにくいパソコン本体をソフトとともに購入して、手荷物で日本に持ち込んだりもしたものだ。当時、出張でよく行ったサンフランシスコやサンノゼなどベイエリアで、街中に点在するコンピュータショップを回るのは最高の旅の楽しみのひとつだった。

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