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アラ還おじさんのMid Point(10)25年振りのバンド活動【バンドから離れる③さらばスーパーる〜ず】

今回、僕の22歳から29歳までの7年間のバンド活動が終焉を迎えたエピソードを記したいと思います。

(8)、(9)で一旦バンド活動から離れましたが、久しぶりにボーカルだったAさんに電話をかけて再会する事になりました。
いつも曲作りや打ち込みの作成で通っていた埼玉のAさん宅、夫婦二人だったご家庭がお子さんが二人も増えており、時の流れの速さ感じずにはいられませんでした。

キーボードのHさんがバンドに来なくなってから、彼に預けていたキーボード(シンセサイザー)一台と音源モジュールをどうにか取り返してもらい、バンドを続けようとしたがマニュピュレータの役割も担っていたHさんが抜けてしまったため、Aさんがハードディスク内蔵のミキサー(MTR)を購入して、どうにか過去の曲を再現させたとのこと。
僕に対しては直接責めるような言葉もなかったものの、間接的にはバンドの危機になり継続不能となったのはお前のせいでもあるような事も言われました。
富山に住んでいたドラムのKさんは数ヶ月に一回程度埼玉に来ていたようです。

僕はバンドに戻る意志を伝えました。またバンドのメンバーとして新たにギタリストを迎えて入れたいとの提案も同時に伝えられました。Aさんの同じ埼玉県職員であるKYさんです。彼は僕よりも3、4歳ほど若く、以前数回程飲み会で一緒になったことがある方でした。
1996年冬、新生「スーパーる〜ず」としての活動が再開することになりました。

KYさんも加えてのスタジオ練習が始まりました。KYさんのギタープレイは大変荒削りでしたが、僕らのような多少「ナヨっと」しているポップなバンドには力強さを与えてくれるような気がしました。ただ、荒削りであり、細かいコードが使えず、曲自体もなかなか覚えない人でしたので、その点は苦労するだろうなあと思いました。
バラード調の曲ではアコースティックギターを使うことを提案し、僕の所有していたヤマハのAPX-10sを彼に貸しました。

その後、Kさんが常連としていた川崎のフィリピンパブでのバンド出演が決まりました。
前回、フロアーマネージャーから要請のあったスタンダード曲のカバーは準備の都合上行わず、オリジナルだけで勝負する事になりました。

明けて1997年、僕らのほぼ3年振りとなるライブの日。
当日、お店が開店する数時間前からセッティングとリハのため集合しましたが、Aさんの様子がおかしかったのです。咳が止まらず、声が殆ど出ません。
「風邪ひいたの?」
「うん、どうやらそうらしい。数日調子がよくなかったんだ」
「それなら早く言ってくれないと。俺たち演奏する側は多少声出なくても誤魔化せるけど、ボーカルはそうはいかないから」

(これはまずいことになりそうだな、2ステージ乗り切れるかな…)

外に食事を摂りに行った際もAさんはだるそうにしていて、とてもステージに上がれる状態ではないことは目で見ても明らかでした。

22時、1stステージ開始
曲数はもう覚えておりませんが、3曲目か4曲目あたりからAさんの声が殆ど出なくなります。その後、彼は途中でステージを降りて、僕が代わりに残りの曲を歌って終了。

休憩時間中、Aさんは大変悔しさを隠せぬまま、テーブルに頭を伏せておりました。
僕ら他のメンバーもなかなか声をかけられませんでしたが、2ndステージ開始10分か15分程前になり、
「ごめん、やっぱり俺歌えない。2ndステージは3人で頼む」

24時、2ndステージ開始
全曲僕のボーカル、コーラスなしバージョンでどうにか終了。

この夜、AさんはKYさんを車に乗せて、僕はKさんを車に乗せて、それぞれ送って帰宅しました。車の中ではライブの事は何も話せませんでした。
Kさんにとっては2度目の念願のパブでの演奏も、今回ばかりは流石に不完全燃焼な様子でした。

その間メンバーで会う事はなかったものの、僕はAさんに電話で以下の点だけ伝えました。
「ライブの当日に体調が悪くなってしまった事は仕方ないと思う。だけど特にボーカリストは声が命なのはあなたも十分理解しているでしょ。声が楽器である以上、コンディションをきちんとキープできないのはボーカリストとしては失格だと思う。残念だけど、俺はあのライブきちんとできなかった事、後悔している。俺がバンドに戻るタイミングが悪かったのかなと、俺のせいでもあるのかなと。俺自身に対してもあなたに対しても苛立っている」
若かったよね。自分の事は棚に上げて、思いっ切り相手を責めてしまった僕がいました。もっと大人だったら、違った声のかけ方が出来ていたかもしれない。

そしてそのライブから数ヶ月後、バンド全員で集まる事になり、いつもの川口のスタジオでの練習を行う事になりました。
ただ、当日AさんもKYさんも所用のため来れなくなり、僕とKさんの二人だけで練習をして、二人で喫茶店に入りました。
そこでKさんからAさんが川口市で行われるイベントに出たいと言っていることを伝えられました。
「Aくんが川口のリリアホールでのイベントに出場しないかと言ってるけど、どう思う?」
「それ何時やるイベントなの?」
「すぐみたいだけど」
「えー、この前あんな感じで終わって、俺たちちゃんと出来るのかな?このままのコンディションじゃ昔の西川口の時みたいにボコボコにされるよ」
「うーん」
「このままじゃ、やっぱ俺バンドについてゆけないよ」

川口総合文化センター・通称リリア
1990年開業、今年2024年3月から改修のため休館


結局この日以来、Aさんをはじめバンドメンバーとの交流は絶つことなりました。
この年僕は結婚して引っ越すのですが、それを98年の年賀状を通じて知らせただけでバンド活動自体は1997年から26年間完全に停止してしまいました。

以前も記したと思いますが、現代のコミュニケーションツールなんかが当時あったならば、もしかしたら関係は修正できたのかもしれません。
当時は僕自身も潔癖で一途で不器用だったのかもしれません。人間としてもできてなかったんだろうなあと思います。

そしてKYさんに貸したアコギも返ってくることもありませんでした。
あれ高かったんだよ、確か11、2万円したかな。(汗)

YAMAHA APX−10s、当時は確か10万円超えでした。ステレオ出力ができてエレアコとしては他社品を凌ぐスペックでした。しかもシングルヘッドで長渕剛もシングルヘッドのAPXを使っていたんですよね


「スーパーる〜ず」が活動を停止して以来25年間、僕はベースギターを「演奏のために」手にすることがなくなりました。
修理を試みる事はありましたが、そのエピソードは別の機会に。

その後、僕も結婚し、生活環境が変わってゆく中で別のメンバーを見つけてバンド活動を行おうという気力を失いつつありました。
実は誰かと組んでみようとした事はあったものの、結局30代、40代と演奏する機会を失い、(1)でも記したとおり、50代、異国の地でとうとう再び楽器を「演奏のために」手にする事になりました。

<このエピソード終了、(11)以降では別のエピソードとなります>

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