アラ還おじさんのMid Point(9)25年振りのバンド活動【バンドから離れる②裏話】
前回の①のエピソードですっかり忘れていた事を思い出しましたのでちょっと記します。
(やっぱり30年近く前の出来事は鮮明には覚えていませんねw)
93年〜94年にかけてスーパーる〜ずは駒込のライブスペースを借りてのワンマンも行っておりましたが、この期間で一回だけ全く別の場所でライブを披露しております。
そこは川崎のクラブチッタ近くにあったキャバレー(所謂フィリピンパブ)です。
確か93年の秋だったか冬だったか時期ははっきりと憶えていないのですが、当時僕は所用で福井方面に行っており、そこから関東に帰る際、富山に住むKさんと待ち合わせて一緒に帰っておりました。
当時はまだ北陸新幹線もなく、また越後湯沢に行くほくほく線経由のはくたか号も走っておらず、長岡までは北陸本線の特急電車での旅でした。
Kさんは富山名物のます寿司とビールを買い込んで僕らは空いた車内で二人きりの宴会を楽しみました。
そして僕は千葉(市原)に戻る事なく、直行したのがその川崎のフィリピンパブでした。
そのパブはKさんが川崎に勤務していた時に行きつけのお店でした。お気に入りの女の子もいたようで、僕にお店のフロアーマネージャーの方とそのお気に入りの女の子を紹介してくれました。当時はバブルが弾けた数年後でしたが、それでもパブは盛況であり、バブルの残り香がここにもあるんだなと感じました。
僕も市原では本社の営業担当が工場に来場した際は付き合いで市原市内のパブにもよく行きました。当時僕はお酒はそれなりに飲めましたが、あんまり女の子のいるお店は苦手だったので苦痛意外の何物もなかったのが正直なところ。
そしてパブでKさんは僕らバンドのメンバーには見せたことのないような、行動をたくさん見せてくれました。僕よりも4つほど年上でしたが、彼女もなく、全く女っ気のない方だったので、とても意外でした。
Kさんはその場で、ここ(パブ)でライブをやりたい事を僕に言いました。
「ここでライブをやるのが僕の夢なんだ」
目をキラキラさせながら語るKさん。
僕は、そうなのか、そうなんだ………と当時は思いました。
僕とは価値観が違うなあと正直思いました。
「フィリピンパブ」だからと言う(決して差別的な気持ち)事ではなかったです。
決してキャバレーやパブでの演奏をする事自体は決して嫌な事ではなかったのですが、僕個人にとってはこれが目的でもなく、目標でもなかったのです。
正直言ってチャンスがあれば「プロ」のミュージシャンになりたかったのです。サラリーマンで終わってしまうのはつまらないと思っておりましたが、その実力もなく、バンド活動も袋小路に入っていた、迷いもあり苦しんでいた。
たかがバンド、されどバンド。僕にはバンドが全てだったから、これがどうにもならない状態なのは自分の存在価値すらも脅かされる事なんだ。と当時は大袈裟にも考えておりました。だから、メンバーとの間での温度差の違い自体許せないものとも思っていたのかもしれませんね。
またこの出来事の数年前に川口の行きつけの楽器屋さん(スタジオ)の勧めで西川口のライブハウスでのオーディション形式のライブに出演したものの、出場していた対バンの圧倒的なパワーと実力に完全に打ちのめされた事もあったのに、俺たちはキャバレーでの演奏だけしかできないバンドなのかと…。
何だか虚しい気持ちばかりが込み上げてきたのを憶えております。
この日の出来事から数ヶ月後、今後はバンドメンバー全員でパブを訪れ、フロアーマネージャーさんと面談して、ライブを行うことが決定しました。
「ステージは2セット、22時からと24時から、ギャラはなし、食事代だけは別途実費分を出す、お店での飲み物も無料」
と言うことで、94年にこの川崎のパブでのライブに出演しました。
フロアーマネージャーの評価は以下の通りでした。
「オリジナル曲だけで構成するのも決して悪くはないけど、やっぱみんな君たちの曲知らないじゃん?みんなが知っているような洋楽のスタンダードなども入れて欲しい。あと所謂チークタイムなどを演出出来るような曲なんかも出来るといいと思う」
「2回目もお願いしたいけれど、条件としてこれらを検討して欲しい」
他のメンバーはどうだったかははっきりと意見を聞けなかったのですが、僕らのようなオリジナル曲だけのバンドにとっては洋楽などのコピーは正直難しいのかなと思いました。
なにしろ打ち込みありきのバンドでしたし。
それでも洋楽のスタンダードの曲(例えば、「青い影」、「スタンドバイミー」あとはチークタイムに使えそうな「メリージェーン」など)を準備しようかと話し合いはしたけれど実現しなかったのです。
結局、最初のバンドの空中分解(前回の章でお話しした、Hさんがバンドに来なくなり、更に僕もバンドに行かなくなった時期)までの間で、2回目の川崎フィリピンパブでの演奏は実現しませんでした。
(2回目のパブ演奏は96年に実現するものの、これが後々バンド停止の発端になったのでした(後述))
このパブでの演奏の時はKさんだけがご満悦でした。何しろ彼にとっては「夢」を叶えられたのですから。僕にとっては余り乗り気でなかったパブ演奏でしたから、可もなく不可もなく、ただの通過点に過ぎなかったという事だったのかもしれません。
次に僕がバンドのメンバーと再会するのは96年の秋頃まで時間を要する事になります。
<(10)に続きます>
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