明るいと暗い
人柄を表すのに
明るい、暗いと表現する。
英語に置き換えると
energetic or not だと、他覚的にと認知可能ともいえますね。
positive or negative なのか?
depressed or not は、ちょっと違うか、、、。
optimistic or pessimistic?
geeky/nerd or not?
introverted or extroverted?
日本語の『暗い』は
かなり包括的で曖昧を許容するにも関わらず、レッテルばりをしてしまうということに気づきました。
日本語は
どうして、人柄を表すのに
『暗い』と『明るい』という二項対立構造を選択したのだろうか?
人間の性格やアクティビティをふんわりとイメージ化してしまった上で、どちらかに決めてしまうこの構造に、なにかメリットはあるのだろうか?
英訳を通して、明暗を分けているパラメーターは無数にあると感じた。
その無数のパラメーターをいちいち詮索しない文化が日本には通底しているということなのだろうか?
多様性を認めていく方向にある現代社会において、人となりという定義不可能なものを曖昧な定義からなる明暗でくっきりと分ける。
そのことの弊害は、他人との対立のみならず、自身の中での葛藤すら生み出すような気がする。
ここには、日本語の明暗の両者に優越の意味すら含まれていることがわかる。
『暗い』と言われて、感情がマイナスに動かない人は珍しいのではないか?
なぜ、そこまでして、この二項対立構造を日本語の中に取り込んだのだろう?
そんな疑問が生まれてきた。
私は、明暗の問題を『人間の性格やアクティビティをふんわりとしたイメージ』と表現したが、これも、舌足らずかもしれない。
すくなくとも、私達は誰かの明暗を判別するときに、すべてのパラメーターの吟味して、総合的に判断しているとは思えない。
評価する側の関心志向性に、ほぼ無理矢理に明暗を分けようとしている。
評価されてしまった側、すなわち、自分の中にあるものの明暗問題をいきなりに突きつけられた側はどうだろう?
自分自身のなかにあるたくさんの関心や欲求のなかで、明るいもの探しを始めてしまうような気がする。
コメントをいただき気づいたのは、明るいもの探しをすること以外の処方箋として、『価値転倒』すなわちルサンチマンがある。明るい=悪、暗い=善と置き換えて、自分の中で価値を転倒してしまうという方法だ。
前者の作業をするときにも、『暗い』と一般化されやすいものをもつ自分を否定してしまうだろうし、後者の作業をする場合には、他者の特性を否定することにつながるだろう。
自分自身のなかにある特性(これは、他者にもあてはまるだろう)は、どれ一つとっても欠けることのない完璧な私を作り上げているものたちであり、それを他者からの一言を契機にして、明暗の仕分けを始めてしまうとしたら、なんとも、いただけない話のような気もしてくるのです。
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