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不明を謝さない

 日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感じていた伊丹万作の『戦争責任者の問題』によると、いたいけな子供たちの目線から見れば、現在でもすでに日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしている責任者に見えているであろう。

 造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 
 だまされるということ自体がすでに一つの悪であるにもかかわらず、「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるということである。
 
 これは、少なくとも政治に携わる者、行政に携わる者、報道に携わる者は国から市町村に至るまで目を逸らしてはいけない残酷な真実ではなかろうか。

 伊丹が生きていれば、試みに諸君にきいてみたいというだろう。「諸君は政治や行政や報道に携わる中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。

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《さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。》

《しかし、それにもかかわらず、諸君は、依然として自分だけは人をだまさなかつたと信じているのではないかと思う。
 そこで私は、試みに諸君にきいてみたい。「諸君は戦争中、ただの一度も自分の子にうそをつかなかつたか」と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、一度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。
 いたいけな子供たちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、一人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。》

《だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。》

《つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。》

《「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。》

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 折から自由民主党総裁と立憲民主党代表を選出するための選挙が同時に進行している。そのすぐあとには政権選択選挙である衆議院議員総選挙が控えている。

 わが国が直面している悲劇的な状況は説明するまでもない。それなのに今まで状況を放置してきた当事者である両党の候補者それぞれは、やれ原子力潜水艦だ、やれ解雇規制緩和だ、やれ増税見直しだ、やれ女性天皇だ、やれ教育無償化だと、これまで党内外で合意形成のために十分議論してこなかった論点ばかりを8月31日の夏休みの宿題よろしく、テキ屋が路上に風呂敷を広げたうえでバナナのたたき売りをするが如くに言いたい放題である。軽い口から漏れる政策はじつくりと練られたものではなくいずれも選挙目当ての薄つぺらいまがい物ばかりである。国民はまただまされたふりをして当て物でもするつもりなのだろうか。
 
 そのうえで、裏金、買収、脱税、詐欺など後を絶たない国会議員の犯罪や疑惑を、信念すなわち意志の薄弱した国民は選挙で追求することもしないのであろう。その結果、立法府の一員である当事者たちは、あとで「上からだまされた」と言えばよいと心のなかで舌を出しながら、与野党が互に目配せし合いながら、政治資金規正法も公職選挙法も税法も底が抜けたザル法のままいつまでも改正しようとしないのではないか。

 それが美しい国の姿だろうか。国民の政治に対する信用は取り戻しようもなくなつている。それなのに、衿をたださず国民をだまして手にする歳費はよほど尊いお金なのだろうか。本当であればそのリアルこそを伝えなければ報道は使命も果たせず存在意義もない。

 少なくとも政治に携わる者、行政に携わる者、報道に携わる者は、国から市町村に至るまで、ただの一度も自分の子にうそをついてはならない。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、一度もまちがつたことを我子に教えてはならない。

 そして、もはや、「だまされていた」といつて平気でいられる国民はひとりもいないはずである。そのことを自覚した国民一人ひとりが責任を持たなければないほど、この国は落ちぶれる瀬戸際に立たされているからだ。日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりする時代を、現代に再現してはならない。


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