それでも尚ボーダーレスな社会を望む

2022年のロシアによるウクライナ全面侵攻は、国境や国家主権の問題を改めて浮き彫りにした。この悲劇は国家間の対立というより、ロシアの一方的で利己的な領土認識とNATOからの脅威に備えるという主張に対し、アメリカを始めとする西側諸国が警告を出したにも関わらず、それを挑発と取って(取ったふりをして)領土拡大のために一方的に開始したものである。家族がウクライナ人であり、侵攻当時ウクライナに住んでいたため、この2年間余り国外退避生活を余儀なくされている。ロシアやその協力国に対する負の感情が絶えないが、それでも尚、ボーダーレスな社会を望む。

私は、グローバリズムの権化とも言える多国籍企業に長年勤務していた。いわゆるグローバリズムは、西側諸国の視点から見た経済的・情報的なボーダーレスな社会の構築を目指しているが、不完全だ。しかし、可能性はあると思っている。少なくとも反グローバリズムやナショナリズムではボーダーレスな社会は実現できない。

反グローバリズムは、国際的な協力や交流を制限し、各国が自国の利益を最優先する立場を取る。これはしばしば貿易障壁の増加や移民規制の強化を伴い、結果として国際的な分断を深める。一方、ナショナリズムは、自国の文化や価値観を他国よりも優先し、国内の統一を強調するあまり、異なる文化や人々を排斥する傾向がある。このような立場は、国際的な協力や多文化共生の阻害要因となり得る。ボーダーレスな社会を実現するためには、これらの制約を超えた協力と理解が必要だ。

ボーダーレスな社会は、国境を超えて地球規模で共存を考える社会である。この概念が叫ばれるようになって久しいが、現状、世界から戦争は無くならないどころか、デジタル社会になり情報が簡単に可視化され、世界各地の状況が瞬時に伝わることで、戦争が増えているようにさえ思える。ロシアのウクライナ侵攻やガザ地区におけるイスラエルとパレスチナ間の戦争など、ニュースを通じて目の当たりにするたび、国連はその仲裁機能を十分に果たしているとは言えない現状に苛立ちを覚える。戦争は、多くの命を奪うだけでなく、多くの人々に避難生活を強いる結果となる。避難生活は、相手国や人に対する怒りや憎しみの感情を増幅させるだけだ。人類が国境や主権国家という概念を用いるようになってから千年以上が経過したが、このまま同じ概念で未来を迎え、同じ過ちを繰り返し続けるのだろうか。

歴史を振り返ると、国境や国家主権に基づく対立が繰り返されてきたが、それに代わる新しい共存のモデルを模索する時期に来ていると感じる。異なる文化や信仰を持つ人々が、相互の違いを尊重し、共に生きることができる社会を築くことができれば、国境による制約は不要となる。多文化主義やグローバルな視点を持つ教育が重要であり、それが新しい世代の共存意識を育む一助となる。

現代のグローバリゼーションは、経済や情報の面でボーダーレスを実現しつつあるが、政治的・社会的な面でも同じように進化する必要がある。地球規模での協力と理解を深めるためには、国際的な連帯や多文化共生の取り組みが求められる。国境に縛られず、人々が自由に移動し、協力し合う社会を目指すことが、真のボーダーレスな社会への道筋だ。

過去の過ちに縛られず、新しい未来を築くためには、勇気を持って変革に取り組む必要がある。ボーダーレスな社会は、今は限りなく遠い夢だが、それを実現するために一歩一歩積み重ねていかなければならない。異なる背景を持つ人々が共に手を取り合い、平和と共存を追求することで、明るい未来を築くことができると信じている。地球に住む各々が自分たち以外の人々をあらゆる面で受容・尊重できる社会を追求していくべきだと思う。教育や対話を通じて互いの理解を深め、協力し合うことで、国境を超えた共存の道が開けるだろう。それでも尚、ボーダーレスな社会を望み続ける。

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