3月11日「記憶」
※ 震災についての記事です ※
本日では日記ではなく、記録というか、震災についての記事です。
誰かにとっての特別な日でもあるので13年経った今、必要以上に自粛ムードになるのはよくない ということは重々承知しているのですが、
2011年のあの鮮烈な記憶もいずれ薄れていくものなので、自分のために、今のうちに文章にしておこうと思います。
(そして一応具体的な年齢が割れない程度にぼかしております)
記憶
2011年3月11日14:30過ぎ、
当時学生で生徒会役員だったわたくしは放課後、生徒会の会議のため図書室にいた。
他の役員+クラス代表たちで、もはや議題は覚えてないけども…時期的に卒業式関連の話をしていた気がする。
クラス代表に順番に意見を聞いている途中、突然の大きな揺れ。
物心ついてから感じたことのない大きな揺れに迷わず机の下にみんなで潜った。
図書室だったので棚の上に飾られている本や花瓶はもちろん、大きな横揺れで棚から本が落ちる音がたくさんした。
ついでに金属製のお盆?も落ちる音がした。←この音がとても怖かったのか、なぜかとても印象的に覚えている。
ある程度揺れがおさまり、各教室に荷物を取りに行き、校庭に集まることに。
教室に防災頭巾があるタイプの学校だったので幼稚園の頃から防災訓練の時にだけ使っていたキティさんの防災頭巾を手に「これ、本当に使うことがあるのかぁ…」と思いつつ、校庭に集合した。
当時、自分が通う学校に祖母が非常勤で働いていたので「こんな災害起きてるんだから一緒に帰るだろう」と勝手に思っていたのだが、
先生は生徒全員が下校するまで学校で待機しなければならないらしく、そこで初めて先生って仕事は命を預かる責任があって大変だなぁ…。と思った。
幼なじみの親が学校まで迎えに来てくれて、帰路に着く。(自分の親はたしか弟の方のお迎えに行ったとかだったと思う)
学校から家はかなり近い部類だったが帰宅途中にも余震が続き、学校に置いてきた祖母のことを考え心底不安になりながら帰宅した記憶がある。
自宅に着いて、リビングに映る東日本の惨状にショックを受けたことまでは覚えているのだが、それ以降の記憶はもうほぼない。
3月11日以降学校はどうなったっけ?登校したっけ?とか既にもう覚えてないことが多すぎて怖い。
当時あれだけ衝撃だったのに。
その後
実家は都会・都心と呼ばれるような場所にあるわけではなかったので、食べ物や水、日用品にあからさまに困った記憶は無いのだが、
(これも親達が何とかしてくれていただけかもしれない)
計画停電だけは強烈に覚えている。
というか社会に出た今考えると計画停電、ヤバすぎる。
仕事とかってどうしてたんだろう…と純粋に気になる。2011年時点で既に社会に出てた人がいたら良ければ教えてください。(匿名ならwaveboxとかで…)差し支えなければリプやコメントでも可。
その日は早めに切り上げとかだったのかな。
自宅にある懐中電灯と、物置からガスヒーターを出してきてリビングで家族みんなで集まってUNOや麻雀をした記憶がある。
さいごに
とにかくおばあちゃんっ子で祖母大好きだったので、(3月11日に祖母を亡くしたわけではないけれど)
この日になると「学校に祖母を置いてきた不安」が記憶として1番大きく、強烈に刻み込まれている。
2024年は元旦から大きめの災害があり、他人事ではないな〜と思いつつもどこか他人事のように考えている節があるので、
今一度自分事だと思い最低限の防災意識と準備はした方がいいな、と思うのでした。
そんな春。
毎日悔いなく生きるなんてことは無理だけど最低限生きること頑張ってみるか、と低めの目標で明日からも生活します。
雲外鏡
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